表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/30

薬草摘みと、ささやかな願い

あの不吉な噂が流れてから数日。レヴィナス領は、表面上は変わらない日常を続けていた。だが、水面下で広がるさざ波のように、人々の心にはかすかな不安が根を下ろし始めていた。


そんなある晴れた日の午前中、アルトとリゼットは二人で村の近くの森を歩いていた。


「まったく、アルトったら。たまには研究室から出て、太陽の光を浴びなきゃダメなんだから!お母さんも、解熱作用のある薬草が欲しいって言ってたし、ちょうどよかったわ」


薬草を入れるための籠を片手に、リゼットは楽しそうにおしゃべりを続ける。アルトも、久々に浴びる木漏れ日の心地よさに、目を細めていた。


「確かに、光合成によるセロトニンの生成は、精神衛生上非常に重要だからな。君の言う通りだ」

「もう、理屈っぽーい!」


くすくすと笑い声が森に響く。

色とりどりの花が咲き、小川のせせらぎが聞こえる。どこまでも平和な光景だ。

だが、アルトは気づいていた。


(静かすぎる…)


いつもなら聞こえるはずの、小鳥のさえずりも、獣たちが木々の間を駆け抜ける音も、今日はほとんどしない。まるで森全体が、何かに怯えるように息を潜めているかのようだ。


「わぁ、見てアルト!見晴らしがいいわ!」


そんなアルトの内心のざわめきを知る由もなく、リゼットは少し開けた丘の上に駆け上がって声を上げた。そこからは、二人が生まれ育ったレヴィナス領の全景が見渡せた。

風にそよぐ麦畑。赤い屋根が並ぶ家々。リゼットの実家であるパン屋の煙突からは、白い煙が楽しげに立ち上っている。


その光景を愛おしそうに見つめながら、リゼットはぽつりと呟いた。


「……この村が、ずっと平和だといいな」


それは、最近の不穏な噂を聞いてから、ずっと彼女の胸にあった、ささやかで、そして切実な願いだった。


――リゼット・ブラウンは願う。


(アルトが隣にいてくれて、お父さんとお母さんがパンを焼いていて、村のみんなが笑っている。そんな当たり前の毎日が、宝物みたいに大切だって、最近すごく思うの)


(神様、どうか、この時間が、ずっと、ずっと続きますように――)


そんな彼女の祈るような横顔に、アルトは静かに、しかしきっぱりと答えた。


「大丈夫だよ、リゼット」


彼は、科学者らしい論理的な根拠を何も示さない。ただ、真っ直ぐにリゼットの瞳を見て、言った。


「僕がいるよ」


その言葉は、どんな慰めや気休めよりも、リゼットの不安な心を温かく満たしていく。ああ、この人が隣にいてくれるなら、きっと大丈夫だ。そんな不思議な安心感が、胸いっぱいに広がった。


「…うん!」


リゼットは、照れ隠しのように満面の笑みで頷いた。


しかし、二人はまだ知らない。

この穏やかな日常が、まさに今、終焉を迎えようとしていることを。

森の奥深く、静寂のその先で、無数の獣の瞳が赤黒い光を宿し、地を揺るがすほどの唸りが、その瞬間を今か今かと待っていることを。

空は、まだ青く澄み渡っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ