薬草摘みと、ささやかな願い
あの不吉な噂が流れてから数日。レヴィナス領は、表面上は変わらない日常を続けていた。だが、水面下で広がるさざ波のように、人々の心にはかすかな不安が根を下ろし始めていた。
そんなある晴れた日の午前中、アルトとリゼットは二人で村の近くの森を歩いていた。
「まったく、アルトったら。たまには研究室から出て、太陽の光を浴びなきゃダメなんだから!お母さんも、解熱作用のある薬草が欲しいって言ってたし、ちょうどよかったわ」
薬草を入れるための籠を片手に、リゼットは楽しそうにおしゃべりを続ける。アルトも、久々に浴びる木漏れ日の心地よさに、目を細めていた。
「確かに、光合成によるセロトニンの生成は、精神衛生上非常に重要だからな。君の言う通りだ」
「もう、理屈っぽーい!」
くすくすと笑い声が森に響く。
色とりどりの花が咲き、小川のせせらぎが聞こえる。どこまでも平和な光景だ。
だが、アルトは気づいていた。
(静かすぎる…)
いつもなら聞こえるはずの、小鳥のさえずりも、獣たちが木々の間を駆け抜ける音も、今日はほとんどしない。まるで森全体が、何かに怯えるように息を潜めているかのようだ。
「わぁ、見てアルト!見晴らしがいいわ!」
そんなアルトの内心のざわめきを知る由もなく、リゼットは少し開けた丘の上に駆け上がって声を上げた。そこからは、二人が生まれ育ったレヴィナス領の全景が見渡せた。
風にそよぐ麦畑。赤い屋根が並ぶ家々。リゼットの実家であるパン屋の煙突からは、白い煙が楽しげに立ち上っている。
その光景を愛おしそうに見つめながら、リゼットはぽつりと呟いた。
「……この村が、ずっと平和だといいな」
それは、最近の不穏な噂を聞いてから、ずっと彼女の胸にあった、ささやかで、そして切実な願いだった。
――リゼット・ブラウンは願う。
(アルトが隣にいてくれて、お父さんとお母さんがパンを焼いていて、村のみんなが笑っている。そんな当たり前の毎日が、宝物みたいに大切だって、最近すごく思うの)
(神様、どうか、この時間が、ずっと、ずっと続きますように――)
そんな彼女の祈るような横顔に、アルトは静かに、しかしきっぱりと答えた。
「大丈夫だよ、リゼット」
彼は、科学者らしい論理的な根拠を何も示さない。ただ、真っ直ぐにリゼットの瞳を見て、言った。
「僕がいるよ」
その言葉は、どんな慰めや気休めよりも、リゼットの不安な心を温かく満たしていく。ああ、この人が隣にいてくれるなら、きっと大丈夫だ。そんな不思議な安心感が、胸いっぱいに広がった。
「…うん!」
リゼットは、照れ隠しのように満面の笑みで頷いた。
しかし、二人はまだ知らない。
この穏やかな日常が、まさに今、終焉を迎えようとしていることを。
森の奥深く、静寂のその先で、無数の獣の瞳が赤黒い光を宿し、地を揺るがすほどの唸りが、その瞬間を今か今かと待っていることを。
空は、まだ青く澄み渡っていた。