穏やかな日々と、その裏側の小さな影
アルトがリゼットに夢を語ったあの日から、数週間が過ぎた。
相変わらず工房での研究は続いているが、アルトはリゼットに促され、昼間はきちんと領主の子息としての務めを果たすようになっていた。
「アルト様!この前教えてもらった土壌改良の魔法、おかげで麦の育ちが全然違うよ!」
「ふむ、それは良かった。土中のマナ含有量とph値のバランスが最適化された証拠ですね」
村の広場を歩けば、領民たちから次々に声がかかる。領民に慕われる穏やかな好青年 ――それが、アルト・フォン・レヴィナスの昼の顔だ。
「もう、アルトったら、また難しいこと言って。もっと普通に『よかったね』でいいのよ」
「そうか?だが、現象には必ず裏付けとなる理論的根拠が…」
「はいはい、わかったから」
隣でくすくす笑うのは、パン屋の仕事が一息ついたリゼットだ。彼女はアルトの腕に自分の腕をからめ、少しだけ得意げに胸を張る。私の幼馴染はこんなにすごいのよ、と言わんばかりに。
焼きたてのパンの匂い。子供たちのはしゃぎ声。どこからか聞こえてくる鍛冶の音。
すべてが穏やかで、昨日と同じ今日があり、きっと明日も同じ日が来るのだと、誰もが信じて疑わないような、そんな平和な午後だった。
――だが、その陽だまりの中に落ちる影は、少しずつ、しかし確実に濃くなっていた。
「そういや、聞いたかい?隣村の猟師が、森の奥で見たこともない魔獣の足跡を見つけたって話…」
「うちの家畜も、このところどうも落ち着きがなくてねぇ…」
井戸端会議に興じる主婦たちの会話に、かすかな不安が混じる。
自警団の詰め所の前では、屈強な男たちが深刻な顔で地図を囲んでいた。その表情は、いつものような呑気さとは程遠い。
「どうしたのかしら、みんな難しい顔しちゃって」
「何かあったのかもしれないな…」
二人が何気なくその前を通り過ぎようとした、その時。
「――間違いない。この痕跡の増え方は異常だ。まさか…『スタンピード』の前兆じゃなければいいが…」
自警団の長が絞り出すように呟いたその言葉が、二人の耳に届いてしまった。
スタンピード。
それは、何らかの原因で魔獣の群れが理性を失い、一つの巨大な奔流となって暴走する、天災級の災害。
リゼットの顔から、さっと血の気が引いた。彼女がぎゅっとアルトの腕を掴む力が強くなる。
「アルト…」
「……」
アルトは何も言わず、ただリゼットを不安にさせまいと、その手を優しく握り返す。そして、いつもと同じように、穏やかに言った。
「大丈夫だよ、リゼット。僕がいる」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。だが、その瞳の奥には、これまでにはなかった強い決意の光が宿っている。それは、自らの「夢」が、ただの夢物語では済まされない現実を前に、今、試されようとしていることを予感した者の光だった。
見上げると、澄み渡っていたはずの青空の果てに、黒ずんだ雲がゆっくりと広がり始めていた。
穏やかな日々の終わりを告げる、不吉な影。
運命の歯車が、静かに、そして確実に回り始める音が、すぐそこまで迫っていた。