エミリア編 聖母の微笑みと、大胆な誘惑
三日目。
僕の前に現れたのは、癒やしの聖女、エミリア・シフォンさんだった。
待ち合わせ場所の学院の門に、彼女は、まるでそこだけ春の陽だまりが生まれたかのように、ふんわりと立っていた。
「アルトさん、おはようございます。ふふ、今日は、わたくしに、全てを委ねてくださいね」。
今日の彼女は、いつものシスター服ではなく、若草色の、柔らかな素材でできたワンピースに身を包んでいた。
蜂蜜色のふわふわした髪は、白いレースのリボンで可憐に留められている。
その、あまりにも清楚で、あまりにも優しい出で立ちに、リゼットやクラウディアとはまた違う種類の、心臓に悪いドキドキが、僕の胸を駆け巡った。
(ふむ。彼女の存在そのものが、周囲の環境エーテルに、極めてポジティブな影響を及ぼしていることが観測される。視覚情報から得られる色彩心理学的な効果に加え、彼女から発せられる微弱な治癒系マナ粒子が、僕の交感神経を鎮静化させ、脳内にセロトニンの分泌を促しているようだ。まさに、歩くマイナスイオン発生器。実に、科学的に見ても、興味深い現象だ)。
僕が、そんなことを考えているとは露知らず、彼女は、にこりと微笑むと、僕の腕を、取るのではなく、僕の少し前を、エスコートするように歩き始めた。
彼女が選んだのは、王都の喧騒から少し離れた、広大な王立植物園と、その奥にある、静かな湖畔のティールーム。
まさに、彼女のイメージ通りの、ゆったりとした時間が流れる場所だった。
ガラス張りの巨大な温室に足を踏み入れると、むせ返るような花の香りと、生命の息吹が、僕たちを優しく包み込んだ。
色とりどりの、見たこともない花々が、まるで宝石のように咲き誇っている。
「まあ、見てください、アルトさん。こんなに綺麗な花が…」。
彼女は、一輪の、朝露に濡れた青い薔薇の前に、そっと屈み込む。
そして、まるで古い友人に話しかけるかのように、その花びらに、優しく語りかけた。
「おはようございます、薔薇さん。今日も、とってもお綺麗ですね。きっと、たくさんの人が、あなたの美しさに、心を癒やされることでしょう」。
その光景は、一枚の聖画のようだった。
彼女といると、この世界の、ありとあらゆるものが、愛おしく、尊いもののように思えてくるから不思議だ。
「この蝶々さん、アルトさんの指に止まりましたよ。うふふ、アルトさんの優しさが、伝わったのですね」。
僕が、珍しい品種の薬草の効能について、頭の中のデータベースを検索していると、どこからともなく飛んできた、瑠璃色の羽を持つ蝶が、僕の人差し指に、ふわりと舞い降りた。
「…いや、これは、僕の優しさというよりは、君から発せられる、生物を安心させる特殊なフェロモン、あるいは、生命エネルギーの波動に引き寄せられたと考えるのが、論理的には妥当だろうな」。
僕の、どこまでも科学的な分析に、彼女は、くすくすと、鈴を転がすように笑った。
「あらあら、うふふ。アルトさんは、本当に、理屈がお好きなのですね。でも、きっと、蝶々さんには、ちゃんとわかっているのだと思いますよ。アルトさんの心の奥にある、本当の温かさが」。
そう言って、僕の指に止まった蝶を、愛おしそうに見つめる彼女の横顔。
その、あまりにも優しい眼差しに、僕は、どうしようもなく、目を奪われていた。
彼女といると、僕の、常にフル回転している頭脳が、自然とリラックスしていくのを感じる。
だが、その穏やかな雰囲気とは裏腹に、彼女の行動は、徐々に、しかし、確実に、大胆さを増していった。
植物園の、木漏れ日が降り注ぐ小道で、僕が、古代樹の年輪から、過去の気候変動のデータを読み解こうと、その幹に手を触れていた、その時だった。
隣を歩いていたはずの彼女が、ふらり、と、バランスを崩した。
「あらあら、足元が少し、ふらついてしまいましたです」
彼女は、そう言うと、ごく自然に、僕の腕に、自分の腕を、きゅっと絡めてきた。
その、あまりにもあからさまな口実。
そして、腕に伝わってくる、ワンピース越しでもわかる、豊満で、柔らかく、そして、温かい感触に、僕の心臓が、ドクンと、大きく跳ねた。
(なっ…!?こ、この感触は…!彼女の身体組織の、驚異的な弾力性と、その質量…!僕の腕にかかる圧力から、その重量と密度を逆算すると…いや、待て、何を計算しているんだ、僕は!)。
僕の思考回路が、未知のパラメータの入力により、明らかなエラーを起こし始めている。
顔に、熱が集まるのがわかる。
「もう、大丈夫ですよ、アルトさん。こうしていれば、もう、転びませんから」
そう言って、僕の腕に、さらに、ぎゅっと、その身体を寄せてくる彼女。
その瞳は、悪戯っぽく、キラキラと輝いていた。
聖母のような彼女の、初めて見る、小悪魔的な一面に、僕の心は、なすすべもなく、かき乱されていくのだった。
◇
植物園の中心に、その木は、静かに立っていた。
樹齢、千年を超えるという、巨大なクスノキ。
かつては、この植物園のシンボルとして、多くの人々に愛されていたという、御神木だ。
だが、今のその姿は、あまりにも痛ましかった。
幹は、その生命力を失い、灰色にくすみ、枝からは、一枚の葉もついていない。
まるで、天に向かって助けを求める、巨大な骸骨のようだった。
「…この木は、『嘆きの聖樹』と呼ばれているんです」
いつの間にか、僕たちの隣に立っていた、老齢の庭師が、悲しそうに、そう教えてくれた。
「数ヶ月前、空から、赤黒い星が降った夜から、急に、元気がなくなってしまいましてな。
どんな薬を与えても、どんなに祈りを捧げても、日に日に、枯れていく一方で…」
その声には、深い諦めと、悲しみが滲んでいた。
僕のスキャナーも、この木から、生命エネルギーが、ほとんど検出されないことを示している。
物理的な病ではない。
おそらくは、『星喰らいの一族』が残した、呪いにも似た、負のエネルギーに、その魂を蝕まれてしまったのだろう。
「…可哀想に…」。エミリアさんが、痛ましそうに、その枯れた幹を、そっと撫でた。
「こんなにも、苦しんで…。長い間、たくさんの人々の心を、癒やしてきたのでしょうに…」
彼女の、翠の瞳から、一筋の涙が、ほろりとこぼれ落ちる。
その時、僕の脳裏に、一つの、途方もない仮説が閃いた。
(エミリアさんの、癒やしの力。それは、単なる、生命力の回復ではない。負のエネルギーそのものを浄化し、対象の魂の輝きを、根源から取り戻す、『再生』の力ではないのか?)。
だが、これほどの巨大な対象を、彼女一人の力で、癒やすことができるのか?
下手をすれば、彼女自身の生命力が、逆に吸い尽くされてしまう危険性すらある。
僕が、逡巡していると、彼女は、決意を固めたように、僕に向き直った。
その顔には、もう、涙はなかった。
あるのは、聖母の如き、絶対的な慈愛と、覚悟の光だった。
「アルトさん。わたくしに、この木さんを、癒やさせてください」。
「…エミリアさん。それは、危険すぎる。君の身に、何が起こるか…」。
「大丈夫です」。
僕の制止を、彼女は、穏やかな、しかし、決して揺らぐことのない微笑みで、遮った。
「だって、あなたは、信じてくださったではありませんか。『君の優しさは、世界を救う力になる』って。
わたくしは、もう、自分の力を、恐れません。この力が、誰かのために使えるのなら、わたくしは、喜んで、全てを捧げます」。
その、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも尊い決意に、僕は、もはや、何も言うことができなかった。
ただ、静かに、頷く。
僕の、プロデューサーとしての判断が、そう告げていた。
今こそ、彼女の、本当の力が、覚醒する時だと。
エミリアさんは、ゆっくりと、その聖樹の前に進み出ると、その枯れた幹に、両手を、そっと触れた。
そして、目を閉じ、祈りを捧げる。
それは、特定の神に捧げる祈りではない。
彼女の、心そのものから溢れ出す、純粋な、生命への賛歌だった。
彼女の身体から、温かく、優しい翠色の光が、オーラとなって溢れ出す。
光は、彼女の両手を通じて、ゆっくりと、しかし、確実に、聖樹の内部へと、浸透していく。
それは、激しい力の奔流ではない。
乾ききった大地に、静かに染み込んでいく、恵みの雨のようだった。
周囲の空気が、変わっていく。
死の気配に満ちていた空間が、澄み渡り、温かい生命力で満たされていく。
すると、奇跡が、起こった。
灰色だった幹に、かすかに、温かい色が戻り始める。
枯れ果てていた枝の先に、小さな、本当に小さな、緑色の芽が、一つ、芽吹いたのだ。
そして、その芽は、見る見るうちに成長し、若葉色の、美しい葉を、開いた。
一つ、また一つと、奇跡は連鎖していく。
やがて、千年を生きた聖樹は、その全ての枝に、生命力に満ち溢れた、青々とした葉を、再び、茂らせていた。
まるで、長い眠りから目覚めたかのように。
「…おお…!おおおっ…!」
老いた庭師が、その場に膝から崩れ落ち、涙を流して、その光景に感謝していた。
エミリアさんの身体から、光が、ふっと消える。
彼女の顔は、さすがに疲労で青ざめていたが、その表情は、達成感と、慈愛に満ちた、最高の笑顔だった。
(…すごい)。
僕は、ただ、呆然と、その奇跡の光景を、見つめていた。
彼女の力は、僕の科学的予測を、遥かに超えていた。
(これだ…!この、広範囲に、持続的に、対象を『護り、育む』力!これを、戦闘に応用できれば…!例えば、ルージュ君の、制御不能な雷の力。あの、破壊の奔流を、エミリアさんの、この『聖域』で包み込むことができれば…!暴走するエネルギーを、完全に安定化させ、味方を傷つけることなく、敵だけを殲滅する、完璧な攻防一体のフィールドを、形成できる!)
技の名は、『サンクチュアリ・ボルト』
聖なる雷の、結界。
僕の頭脳に、また一つ、新たな合体必殺技の、完璧な数式が、描き出された。
◇
植物園の奥にある、静かな湖畔のティールーム。
僕たちは、窓際の席で、美しい湖を眺めながら、疲れた身体を休めていた。
エミリアさんの顔色も、だいぶ戻ってきたようだ。
「…君は、本当にすごいな、エミリアさん」
僕が、心の底からの賞賛を口にすると、彼女は、少し照れたように、はにかんだ。
「いいえ。わたくし一人の力ではありません。アルトさんが、隣にいてくださったから、わたくし、頑張れたのです」
彼女といると、僕の、常にフル回転している頭脳が、自然とリラックスしていくのを感じる。
だが、その穏やかな雰囲気とは裏腹に、彼女の行動は、ついに、僕の、科学的理解の限界を、突破することになる。
僕が、湖を眺めていると、彼女は、僕の背後から、そっと、その身体を預けてきた。
「アルトさんの背中、広くて、温かいですね…。なんだか、ずっとこうしていたいです…」
耳元で囁かれる、甘い声。
シャンプーの、優しい香り。
背中に伝わる、彼女の、豊満で、柔らかい感触と、規則正しい、心臓の鼓動。
僕の、科学者としての冷静さが、急速に、そして、完全に、融解していくのを感じた。
「エ、エミリアさん…す、少し、近くないだろうか…僕の、個人的な空間の、論理的許容範囲を、わずかに逸脱しているように、観測されるのだが…」
僕の、しどろもどろな抵抗に、彼女は、悪戯っぽく笑うと、僕の耳に、そっと唇を寄せた。
その、吐息がかかるほどの、ゼロ距離で。
「あらあら、うふふ。そうですか?」
そして、彼女は、聖女の口から発せられたとは思えぬ、しかし、彼女の、純粋な、ありったけの想いが込められた、大胆な誘惑の言葉を、僕の心に、直接、注ぎ込んだ。
「…今夜、あなたの部屋に、行っても、いいですか?」
その、あまりにも甘く、あまりにも破壊力のある言葉に、僕の、スーパーコンピューター並みの頭脳は。
プツン、という、小さな音を立てて。
完全に、ショートした。




