僕の幼馴染は心配性(かわいい)
翌朝。
小鳥のさえずりが新しい一日の始まりを告げる中、リゼットは両手に持ったバスケットから湯気が立つのがもどかしくなるくらい、急ぎ足で例の天文台へ向かっていた。
「アルトー!朝よー!起きてるー?」
返事はない。まあ、いつものことだ。
慣れた手つきで扉を開けると、案の定、我らが天才科学者様は、数式がびっしりと書かれた羊皮紙の山に突っ伏して、安らかな寝息を立てていた。その手には、まだ半田ごてが握られている。
「もーーーーっ!」
リゼットの怒鳴り声が、静かな工房にこだました。
「またこんな所で寝て!風邪ひくって、いつも言ってるでしょ!」
彼女はバスケットを机に置くと、まずアルトの手から危なっかしい半田ごてをそっと抜き取り、彼の肩にかけてあったブランケットをしっかり掛け直す。散らかった工具や部品を手際よく整理し、換気のために窓を開ける。その一連の動作は、もはや熟練の域に達していた。
「ん…ああ、リゼットか…。おはよう…」
「おはよう、じゃない!もうお昼前よ!アルトがちゃんと寝てるか心配で、私がおちおちパンも焼けないじゃない!」
寝ぼけ眼をこするアルトに、リゼットは腰に手を当ててぷりぷりと怒ってみせる。そんな彼女に、アルトは心の底から感心したように言った。
「すまない、いつも助かるよ。君は本当に優秀だ。僕の生活サイクルと健康状態を完璧に管理してくれるなんて、まるで高性能なパーソナルアシスタントのようだ」
「ぱーそなる…?あしすたんと…?」
聞いたこともない言葉に、リゼットは首を傾げる。それが、前世の言葉で「個人秘書」のような意味合いを持つ、アルトなりの最大級の賛辞であることなど知る由もなかった。
――リゼット・ブラウンは考える。
(アシスタントって、きっと『お手伝いさん』みたいな意味よね…)
嬉しい。アルトの役に立てるのは、すごく嬉しい。でも。
(私がしたいのは、お手伝いじゃないのに…!)
私が焼いた朝食のパンを「美味しい」って言って、毎日食べてほしい。
私が淹れた紅茶を飲みながら、研究の合間に少しでも笑ってほしい。
そして、いつか…。
徹夜明けの無防備な顔も、研究に夢中になる真剣な横顔も、全部独り占めできるような、アルトの『特別』な女の子に、なりたいのに。
(この、にぶちん…!)
口に出せない想いが、胸の中で渦を巻く。その結果、リゼットの口から飛び出したのは、全く別の言葉だった。
「ど、鈍感アルトなんて知らない!さあ、顔を洗って、早く朝食にしなさい!せっかく焼きたてのクロワッサンが冷めちゃうでしょ!」
顔を真っ赤にしてバスケットを突き出すリゼットに、アルトは不思議そうな顔をしながらも、素直に頷く。
「うん、ありがとう。リゼットの焼くパンは世界一だからな。このサクサクとした層状構造(ラメラ構造)は、バターと生地の温度管理が完璧な証拠だ。まさに職人芸だよ」
「そ、そういうのはいいから!早く食べて!」
科学的な解説も、今のリゼットにとっては乙女心をかき乱すBGMでしかない。
そんな二人のやり取りは、この秘密の工房で繰り返される、いつもの光景。
だが、この穏やかな日常の裏側で、世界は確かに動き出していた。
「そういえば最近、森の奥で変な唸り声がするって、薬草摘みのおばあさんが言ってたわ。なんだか、物騒よね…」
パンを頬張りながら、ふとリゼットが漏らした一言。
それを聞いたアルトの黒い瞳が、キラリと輝きを増したのを、彼女は見逃さなかった。
「ほう、未知の生態系の鳴き声か。興味深いな。音波を記録して、周波数とパターンを分析すれば、新種の魔獣の可能性があるかもしれない…」
「こら!危ないこと考えない!」
もう、と頬を膨らませるリゼットに、アルトは悪びれもなく笑いかける。
「大丈夫だよ、リゼットは心配性だな。もし何かあっても、僕が守ってあげるさ」
何気なく、本当に、心の底から何の他意もなく放たれたその一言が、リゼットの心臓をドクンと大きく跳ねさせたことを、このスーパー鈍感天才科学者が知る日は、まだ遠い。