降りしきる雨と、ヒーローの無力な涙
偽りの英雄が勝利を宣言し、民衆がそれに熱狂する声。
そして、自分たちに向けられる、数え切れないほどの罵声と嘲笑。
僕たち『プリズム・ナイツ』の、ささやかな英雄譚が音を立てて崩れ落ちた、あの演習場を、僕たちは夢遊病者のような足取りで後にした。
誰一人、言葉を発する者はいなかった。
まるで、僕たちの心を映し出すかのように、澄み渡っていたはずの青空は、いつの間にか、厚く、重たい灰色の雲に覆われていた。
ぽつり、と、誰かの頬を濡らしたのは、涙か、それとも。
やがて、それは、一粒、また一粒と数を増し、僕たちの身体を、心を、叩き始めた。
冷たい、冬の雨だった。
「…………」
「…………」
「…………」
リゼットも、クラウディアも、エミリアも、俯いたまま、声も出さずに歩き続ける。
いつもなら、太陽のように笑うリゼットの栗色のポニーテールは、雨に濡れて重く垂れ下がっていた。
いつもなら、氷のように背筋を伸ばしているクラウディアの肩は、小さく丸められていた。
いつもなら、聖母のように微笑むエミリアの瞳からは、光が消えていた。
雨は、容赦なく降りしきる。
それは、昨日まで僕たちに声援を送ってくれた民衆たちの、冷たい視線そのものだった。
それは、僕たちの砕かれた誇りを、洗い流すどころか、さらに地面に叩きつけていく、無慈悲な鉄槌のようだった。
学院の寮に戻っても、その重苦しい沈黙は続いた。
三人は、それぞれ「少し、一人にしてください」と、か細い声で告げると、自室へと消えていく。その背中は、僕が今まで見た中で、最も小さく、頼りなく見えた。
――リゼット・ブラウンは、自室のベッドに突っ伏していた。
シーツに顔を埋め、声を殺して泣き続けていた。
(悔しい…悔しい悔しい悔しい…!)
(負けたことがじゃない。あんな奴に、アルトが作ってくれた、私たちの夢を…『偽物』だって言われたことが、何よりも悔しい…!)
(民衆の、あの目…なんでよ…昨日までは、あんなに笑ってくれてたじゃない…)
(ごめんね、アルト…。私、あなたのヒーローに、なれなかったや…)
――クラウディア・フォン・ヴァレンシュタインは、自室の窓辺に立ち、降りしきる雨を、ただじっと見つめていた。
その手には、愛用の剣が握られている。だが、その切っ先は、力なく床へと向けられていた。
(完敗だった…)
(私の剣も、私のプライドも、何もかもが、あの黄金の男の前では、児戯に等しかった…)
(レヴィナスは、きっと失望したでしょうね。彼が与えてくれた力を、私は全く使いこなせなかった。彼が信じてくれた可能性に、応えられなかった…)
(私は、彼の隣に立つ資格なんて、もとよりなかったのかもしれない…)
――エミリア・シフォンは、学院の小さな礼拝堂で、一人、膝を抱えてうずくまっていた。
祈るべき神の顔も、今は思い浮かばない。
(怖い…人の目が、声が、怖い…)
(あの人たちの目は、わたくしを『呪われた子』だと蔑んだ、昔の村の人たちと同じ目をしていた…)
(アルトさんは、わたくしの優しさを信じてくれたのに…。わたくしは、また、何もできなかった。癒やしの力は、誰の心も救えなかった…)
(やっぱり、わたくしなんかが、ヒーローになろうだなんて、間違っていたんだ…)
三者三様の、絶望。
砕かれた心は、あまりにも深く、あまりにも脆い。
その痛ましいほどの心の悲鳴が、僕の胸を、万力のように締め付けていた。
◇
僕、アルト・フォン・レヴィナスは、一人、工房の自室に戻っていた。
机の上のノートパソコンのモニターには、ゴールデン・ジャスティスとの戦闘データが、無機質な文字列となって表示されている。
彼の鎧の材質、エネルギー出力のパターン、攻撃の軌道予測。
科学者としての僕は、冷静に、淡々と、敵の分析を進めようとしていた。
(…鎧の素材は、オリハルコンとアダマンタイトの複合合金か。あの防御力も頷ける)
(…エネルギー源は、太陽光を魔力に直接変換する、光子コンバーターの改良型と推測。昼間の戦闘では、ほぼ無限のエネルギー供給が可能だ)
(…弱点はあるはずだ。どんな完璧なシステムにも、必ず脆弱性…『バグ』は存在する。それを見つけ出し、攻略プログラムを組めば、次は必ず…)
そうだ。
問題があるなら、分析し、解析し、解決策を導き出せばいい。
それが、僕という科学者のやり方だった。
どんな難解な数式も、どんな複雑な機械も、僕はそうやって乗り越えてきた。
だから、今回も。
今回だって、きっと…。
――ふと、モニターに映る自分の顔と、目が合った。
そこにいたのは、いつもの、知的好奇心に満ちた天才科学者の顔ではなかった。
ただ、青白い光に照らされた、無力な少年の顔だった。
僕の脳裏に、あの光景が、何度も、何度もフラッシュバックする。
雨の中、うつむいて歩く、三人の少女たちの、震える背中。
涙を堪えるリゼットの、固く結ばれた唇。
プライドを砕かれ、虚ろな目をしていた、クラウディアの横顔。
悪意に怯え、小さく震えていた、エミリアの姿。
彼女たちの、砕かれた心。
その、痛み。
それは、どんな数式でも表せない。
どんな物理法則でも、説明できない。
それは、科学では決して計算できない、『人の心』という名の、あまりにも重たく、そして、温かいものだった。
僕は、生まれて初めて、それを、本当の意味で、理解した。
(…ああ、そうか)
(僕は、なんて愚かだったんだろう)
僕は、彼女たちを『ヒーロー』にしたかった。
僕の科学と、僕の知識で、彼女たちに力を与え、悪を打ち倒す、完璧な英雄をプロデュースしたかった。
だが、僕は、一番大事なことを見落としていた。
彼女たちは、僕の創り出した、データと理論で動く、ロボットじゃない。
血の通った、心を持った、ごく普通の、優しい女の子たちだったんだ。
傷つけば、痛いと泣く。
罵声を浴びせられれば、心が張り裂けそうになる。
そんな、当たり前のことに、僕は、今更、気づいたのか。
守りたかった。
彼女たちの笑顔を、涙から守るために、僕はヒーローを創りたかったはずなのに。
結果として、僕がしたことは何だ?
彼女たちを、衆人環視の晒し者にして、その心を、ズタズタに引き裂いただけじゃないか。
(無力だ…)
僕は、何一つ、分かっていなかった。
彼女たちの、本当の強さも。
そして、本当の、脆さも。
守るべき彼女たちの、砕かれた心を前に、今の僕に、何ができる?
新しい装備か?
完璧な作戦か?
違う。
そんなもので、彼女たちの心に空いた、大きな穴は、決して埋まらない。
僕は、何もできない。
ヒーローに憧れて、ヒーローを創ろうとした、ただの科学オタク。
その空っぽの頭脳と、無力な両手。
それが、僕の、アルト・フォン・レヴィナスの、正体だった。
工房の壁際に飾られた、僕が子供の頃から集めていた、特撮ヒーローたちのフィギュアが、静かに僕を見下ろしている。
不格好でも、泥臭くても、たった一人の誰かを守るために、必死で立ち上がっていた、僕の憧れの英雄たち。
その彼らの、まっすぐな視線が、今の僕には、痛かった。
「…ごめん」
誰に言うでもなく、呟いた。
「ごめんなさい…」
モニターの光が、滲んで、揺らぐ。
頬を、熱い何かが、伝っていく感覚。
ああ、そうか。
僕も、泣くことが、できたんだな。
若き天才科学者の「強くてニューゲーム」が、今、初めて、その進行を停止した。
降りしきる雨の音だけが響く、静かな研究室で、僕は一人。
憧れたヒーローになれなかった、自分の無力さに。
守るべき少女たちを、守れなかった、不甲斐なさに。
ただ、静かに、涙を流すのだった。




