トラウマという心の『バグ』
僕、アルト・フォン・レヴィナスが、泥まみれの聖女(仮)――エミリア・シフォン嬢に、科学者としての最大級の賛辞と協力要請を叩きつけた、その直後。
場の空気は、見事に凍結していた。
「へ…?け、研究に、きょーりょく…です…?」
エミリア本人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。無理もない。森で祈りを捧げていたら、突然現れた見ず知らずの男に「君は奇跡の結晶だ!」などと熱弁されたのだ。不審者として通報されても文句は言えないだろう。
「こら、アルト!初対面の方にいきなり何を言ってるの!少しは落ち着きなさい!」
「そうよ、レヴィナス。あなたのその唐突な発想は、論理の飛躍が甚だしいわ。彼女が混乱しているじゃない」
リゼットとクラウディアが、左右から僕の腕を掴んで引き剥がそうとする。まるで暴走する研究者を諫める、優秀な助手たちのようだ。いや、実際その通りなのだが。
「落ち着いているさ。僕は至って冷静に、目の前の観測事象から最適な結論を導き出しただけだ」
「どこが冷静なのよ!目がキラキラしすぎて、星が飛んでるわよ!」
リゼットの言う通り、僕の頭の中では、エミリアのドジっ子ムーブを基軸とした新戦術のシミュレーションが、銀河を形成する勢いで渦巻いていた。
ひとまず、僕たちは泉のほとりの倒木に腰を下ろし、改めて事情を説明することにした。僕たちが騎士団の特務でこの森の調査に来たこと。そして、彼女の持つ癒やしの力と、この森の呪いとの間に、何らかの関連があるのではないかと考えていること。
「この森の呪いと…わたくしの力が…?」
エミリアは、不安そうに翠の瞳を揺らす。彼女の祈りの力は、紛れもなく聖なるものだ。だが、この森に満ちる『死』の気配と、彼女の『生』を与える力が、同じ場所で観測される。それは、あまりにも不自然なコントラストだった。
「仮説だが…」と僕は切り出す。
「君のその純粋な治癒エネルギーが、この森の特殊な魔力場に干渉し、予期せぬ副作用を誘発している可能性はないだろうか。例えば、癒やしきれなかった負のエネルギーが、澱のようにこの地に蓄積している、とか」
我ながら、荒唐無稽な仮説だ。だが、常識で測れない現象を解明するためには、常識の外に答えを求めるしかない。
僕の言葉を聞いた瞬間、エミリアの顔から、さっと血の気が引いた。彼女は、何かを堪えるように唇をきゅっと結び、俯いてしまう。その肩が、かすかに震えていた。
「…やはり、わたくしのせい、なのですね…」
「エミリアさん?」
「この森がこうなってしまったのも…わたくしの力が、呪われているから…」
絞り出すような、か細い声。それは、僕の仮説を肯定する、絶望の響きを帯びていた。
そのただならぬ様子に、リゼットとクラウディアも表情をこわばらせる。
「おい、レヴィナス。あなたは彼女を追い詰めているわ」
「違う、僕はただ、真実を…」
「真実なら、何を言ってもいいってわけじゃないでしょ!」
リゼットが、珍しく強い口調で僕を遮る。そして、彼女はエミリアの隣にそっと座ると、その震える手を優しく握りしめた。
「大丈夫よ、エミリアさん。あなたの力が呪われてるなんて、そんなことないわ。だって、さっき小鳥さんを助けてあげてたじゃない。すっごく、優しくて、温かい力だったわ」
「……」
「もし、何か、辛いことがあるなら…話してくれないかしら。私たち、あなたの力になりたいの」
リゼットの太陽のような優しさに、エミリアの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が零れ落ちた。
「う…っ、うぅ…っ」
彼女は、嗚咽を漏らしながら、ぽつり、ぽつりと、自らの過去を語り始めた。
――ここから、語り部はエミリア・シフォンに変わる。
(あれは、わたくしがまだ、この教会に来て間もない頃のことでした)
(わたくしは、物心ついた時から、この『癒やしの力』を持っていました。けれど、その力の使い方は、誰にも教わったことがありませんでした。ただ、苦しんでいる人がいると、助けたい、その痛みを取り除いてあげたい、と強く願う。すると、自然とこの手から、温かい光が溢れ出すのです)
(村では、聖女様、神の子様、と皆がわたくしを褒めそやしました。それが、少しだけ誇らしかったのを覚えています。この力があれば、きっと誰もが幸せになれる。そう、信じて疑いませんでした)
(その日、村で一番仲の良かった…アンナという女の子が、高熱を出して倒れたのです。お医者様も匙を投げるほどの、重い流行り病でした)
(アンナのご両親は、泣きながらわたくしに言いました。『エミリア様、どうか、どうかアンナを助けてください』と。わたくしは、もちろん、と力強く頷きました。任せてください、と。アンナは、わたくしが必ず助けてみせます、と)
(アンナが眠るベッドの傍で、わたくしは必死に祈りました。今までで一番、強く、永く。わたくしの力の全てを、アンナのために注ぎ込みました。どうか、この子の熱を奪ってください。この子の苦しみを取り去ってください、と)
(光が、部屋中に満ち溢れました。それは、今までで一番強い、希望の光のはずでした。アンナのご両親も、涙を流して喜んでいました。ああ、これで助かる、と)
(けれど…違ったのです)
(光が収まった時、アンナの顔色は、良くなるどころか、土気色のように青ざめていました。身体は氷のように冷たくなり、呼吸は、か細く、今にも消えそうで…)
(わたくしの力は、アンナの病を癒やすどころか、病と共に、彼女の『生命力』そのものを、奪い取ってしまっていたのです…!)
(助けたい、という一心でした。なのに、わたくしは、この手で、たった一人の大切なお友達を、殺しかけてしまった…)
(幸い、アンナは王都から駆けつけたお医者様のおかげで、一命を取り留めました。けれど、わたくしの心には、決して消えることのない傷が、トラウマが、深く、深く刻み込まれてしまいました)
(わたくしの力は、人を癒やす聖なる力なんかじゃない。一歩間違えれば、命すら奪いかねない、呪われた力なんだ、と)
(それ以来、わたくしは、自分の力が怖くなりました。誰かを癒やそうとする度に、あの日のアンナの顔が、心の奥底にフラッシュバックするのです。その恐怖が、ブレーキになる。そして、中途半端になった力は暴走して、制御できなくなってしまう…。この森が、生命力を失って枯れていくように…)
――彼女の告白は、僕たちの胸に重く突き刺さった。
リゼットは、もらい泣きしてエミリアの背中をさすっている。クラウディアでさえ、いつもは理屈っぽいその口を固く結び、悲痛な表情で俯いていた。
「だから…わたくしは、ダメなんです…。もう、この力で、誰も救うことなんて…」
自己を否定し、絶望の淵に沈むエミリア。
彼女の純粋な優しさが、彼女自身を最も深く傷つけている。
それは、あまりにも悲しい、心の『バグ』だった。
静寂が、場を支配する。
誰も、かける言葉を見つけられずにいた。
だが。
僕だけは、違った。
僕は静かに立ち上がると、涙にくれるエミリアの前に、ゆっくりと膝をついた。そして、ハンカチで彼女の涙を優しく拭う。
「エミリアさん」
僕の穏やかな声に、彼女はびくりと肩を震わせ、濡れた翠の瞳で僕を見上げた。
「君の話は、よくわかった。君が、どれほど辛い経験をしてきたのかも」
「……」
「だが、一つだけ、訂正させてもらいたい」
僕は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、はっきりと、一言一句に魂を込めて告げた。
「君の優しさは、バグじゃない。世界を救うための、最高のプログラムだ」
「え…?」
予想外の言葉に、エミリアだけでなく、リゼットとクラウディアも息を呑む。
僕は続ける。
「君の心に起きたのは、悲しい事故だ。それは、あまりにも強力なプログラム(優しさ)に、予期せぬエラー(トラウマ)が紛れ込んでしまっただけのこと。プログラム自体が、決して間違っているわけじゃない」
これは、気休めでも、慰めでもない。
僕という科学者が、観測と分析の末に導き出した、絶対的な事実だった。
「君の力は、暴走したんじゃない。持ち主である君自身が、その優しすぎる心ゆえに、力をどう使えばいいかわからなくなって、迷子になってしまっているだけなんだ」
僕は、エミリアの冷たくなった両手を、自分の手で包み込む。
「君は、自分の力を『呪い』だと言ったね。だが、僕に言わせれば、それは『原石』だ。磨かれていない、無限の可能性を秘めた、奇跡の原石だよ。君のその優しさは、使い方さえ間違えなければ、誰かを、いいや、この世界だって救える力になる」
僕の言葉は、ヒーローオタクの戯言だったかもしれない。
非論理的な、夢物語だったかもしれない。
けれど、その言葉は、僕が心の底から信じている、僕だけの『正義』だった。
「だから、僕が君の心を『デバッグ』しよう」
僕は、ニヤリと、いつもの不敵な笑みを浮かべてみせた。
「君の優しさが、もう二度と君自身を傷つけないように。君の聖なる力が、君の願い通りに、正しく、まっすぐに、世界を救う力になるように。そのための、全く新しい『プリズム・チャーム』を、この僕が必ず作ってみせる!」
僕の宣言に、エミリアの翠の瞳が、大きく見開かれた。
その瞳の奥で、絶望という名の分厚い暗雲に閉ざされていた空に、ほんの、ほんのかすかな光が差し込んだのを、僕は見逃さなかった。
「私の…心を…デバッグ…?」
「ああ。君という最高のプログラムを、僕が完璧に最適化してあげる。だから、もう自分を責めるのはおしまいだ。君は、一人じゃない」
僕の背後で、リゼットが「もう、アルトったら…」と、呆れたような、でも少しだけ誇らしそうな声で呟くのが聞こえた。クラウディアは、「非論理的極まりない…。だが…」と、何か言いたげに唇を噛んでいる。
二人の視線が、少しだけチクチクと痛い。これもまた、新たな研究テーマになりそうだ。
今はまだ、涙に濡れた小さな聖女。
だが、僕には見えている。彼女が、その優しさを翼に変えて、大空へと羽ばたく未来が。
「さあ、立って、エミリアさん。僕たちの反撃は、ここからだ」
僕が差し出した手。
彼女は、一瞬ためらった後、震える手で、しかし、確かに、その手を握り返した。
それは、絶望の淵にいた少女が、再び一歩を踏み出すことを決意した、小さな、しかし何よりも大きな一歩だった。
『嘆きの森』に、ほんの少しだけ、温かい風が吹いたような気がした。




