騎士の学び舎と、美しき令嬢
辺境ののどかな領地を出てから、馬車に揺られること数日。
どこまでも続いていた緑の平原が途切れ、やがて眼前に広がり始めた光景に、リゼットは馬車の窓に張り付いて歓声を上げた。
「わ…わぁ……!アルト、見て!あれが王都…!?」
地平線の果てまで続く、白亜の城壁。天を突くようにそびえ立つ無数の尖塔。家々の屋根は統一された赤色で、まるで宝石箱をひっくり返したかのように煌めいている。故郷のレヴィナス領が百個あっても足りないくらいの、圧倒的なスケールと活気。それが、王国の心臓部たる王都セントラリアだった。
「すごい…!おとぎ話みたい…!」
「ふむ。都市計画に基づいた合理的な区画整理だ。城壁の高さと厚みから算出するに、大規模な攻城戦を想定した設計思想が見て取れる。人口密度と物流の効率性も考慮されているな。興味深いデータだ」
感動に目を輝かせるリゼットの隣で、アルトは冷静に都市構造を分析している。この温度差も、二人にとってはいつものことだった。
馬車は壮麗な王都の正門を抜け、やがて目的の場所へと到着する。
「ここが…王立騎士団養成学院…」
リゼットは、目の前の建物を呆然と見上げていた。
それは、もはや「学校」という言葉では表現できない、一つの城だった。歴史の重みを感じさせる荘厳な石造りの校舎、寸分の狂いもなく手入れされた広大な庭園、そして、敷地内を行き交う生徒たちが放つ、エリート特有の自信に満ちたオーラ。誰もが、名門貴族の子息や、各地から選りすぐられた天才たちなのだろう。
「すごい場所に来ちゃった…」
「ああ。最高の研究環境だ。見たまえリゼット、あちらの図書館の蔵書数は、僕の故郷の国立図書館のそれを凌駕している可能性がある。知識の宝庫だよ」
気後れするリゼットと、目を輝かせるアルト。
そんな二人が、入学手続きを済ませて校内を案内されている途中、ふと開けた中庭から、澄んだ金属音が聞こえてきた。
キィン! カンッ!
それは、剣と剣が打ち合う音ではなかった。ただ一本の剣が、凄まじい速度で空気を切り裂く音。
まるで美しい音色を奏でる楽器のように、規則正しく、そしてどこまでもストイックに響き渡っている。
「なんだろう…?」
音に引かれるように、リゼットとアルトは中庭に足を踏み入れた。
そして、見てしまった。
そこにいたのは、一人の少女だった。
陽光を浴びて、まるで白金の粒子を振りまくように輝く、一本の長い三つ編み。月光を溶かしてそのまま固めたかのような、透き通る銀髪。
汗を拭うために上げられた白い腕は、驚くほどしなやかで、肌は磨き上げられた白磁のように滑らかだった。
そして、彼女が振り向いた瞬間、アルトたちは息を呑む。
強い意志を宿した、澄み切った冬の湖面を思わせる碧眼。すっと通った鼻筋に、固く結ばれながらも気品を失わない薄い唇。彫刻家が己の理想のすべてを注ぎ込んで削り出したかのような、完璧すぎる美貌。
彼女の存在そのものが、一つの芸術品だった。
名門騎士貴族ヴァレンシュタイン家の令嬢、クラウディア・フォン・ヴァレンシュタイン 。それが、彼女の名だった。
――クラウディア・フォン・ヴァレンシュタインは、焦っていた。
(まだだ…!まだ足りない…!)
父より受け継いだヴァレンシュタイン流剣術。それは、王国でも屈指の伝統と格式を誇る、美しき剣技。寸分の無駄もない洗練された動きは、時に舞踏にも例えられる。
だが、彼女は気づいていた。この美しすぎる剣技が、実戦において限界を迎えつつあることに。
より速く。より強く。より合理的に。
魔獣や、なりふり構わぬ敵と対峙した時、伝統や格式だけでは、守るべきものを守り切れないのではないか。
プライドと、理想と、そして拭いきれない焦燥感。それらが、彼女を一人、無心に剣を振るわせる原動力だった。
そんな彼女の神聖な修練の場に、無遠慮な視線が注がれていることに、クラウディアはすぐに気づいた。
一つは、栗色の髪をした田舎娘の、素直な感嘆の視線。
そして、もう一つは――。
(なんなの、あの男の目は…)
黒髪の少年が、自分を値踏みするかのように、頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと観察している。その瞳には、感嘆や憧憬の色はない。まるで、珍しい昆虫か、新型の機械でも分析するかのような、無機質で、探るような光があった。
クラウディアは、不快感を露わに剣を振るうのをやめ、その少年――アルトを睨みつけた。
「…何か用かしら、平民。騎士の修練を無遠慮に眺めるとは、礼儀を知らないようね」
彼女の声は、まるで氷の結晶が触れ合うかのように、冷たく、そして凛と響いた。
その明確な敵意に、リゼットは「ひっ!」と小さな悲鳴を上げる。
「ご、ごめんなさい!あまりに綺麗だったから、つい…!」
「綺麗…?」
クラウディアは、ふんと鼻を鳴らす。
そんなありきたりな賛辞は、聞き飽きている。
「おべっかは結構よ。さっさと立ち去りなさい。あなたたちのような者がいては、鍛錬の妨げになるわ」
完璧なツンデレムーブ。あまりの冷たさに、リゼットがオロオロする中、これまで黙っていたアルトが、おもむろに口を開いた。
「素晴らしい剣技だ。感動したよ」
「なんですって?」
先程の田舎娘と同じ言葉。だが、その声のトーンは全く違う。
アルトは、心からの称賛を込めて、しかし、どこまでも冷静に続けた。
「特に、手首のスナップを利用した剣尖の加速理論は、物理法則に適っている。最小限の力で、最大初速を生み出す理想的なフォームだ。だが――」
そこで、彼は言葉を切った。
そして、無慈悲な宣告を下す。
「――致命的な欠陥が三つある」
「なっ…………!?」
クラウディアの整った顔が、驚愕と、そして次の瞬間には屈辱に染まった。
この私が、ヴァレンシュタイン家の剣を…平民風情の男に…『欠陥』だと?
アルトは、そんな彼女の内心などお構いなしに、科学者としての分析結果を滔々と述べ始める。
「第一に、踏み込み時のエネルギー伝達ロスが大きい。君の体重移動は美しいが、地面反力を効率的に上半身へ伝えられていない。結果、パワーの約18%が無駄になっている」
「じゅ、18パーセント…?」
「第二に、剣を振り抜いた後の体勢制御に、コンマ数秒のラグが生じている。連続攻撃を想定した場合、これは致命的な隙となる。バイオメカニクスの観点から言えば、体幹の使い方が非効率的だ」
「ひ、非効率…」
「そして第三に、最も問題なのは、魔力放出のタイミングだ。君は剣を振るう『瞬間』に魔力を付与しているが、これでは魔力のほとんどが運動エネルギーに変換される前に、熱量として大気中に拡散してしまう。最適なタイミングは、インパクトの0.02秒前。そうすれば、出力は理論上、最低でも30%は向上するはずだ」
そこまで一息に言うと、アルトは満足げに頷いた。
「いや、しかし、素晴らしいデータが取れた。ありがとう。君のおかげで、僕の『変神』理論がまた一歩前進したよ」
「…………」
クラウディアは、生まれて初めて、言葉を失うという経験をした。
目の前の男が何を言っているのか、半分も理解できない。
ただ、わかるのは、自分が誇りとし、人生を捧げてきた剣技を、数字と理屈でズタズタに侮辱されたという事実だけ。
「…………あなた」
地を這うような低い声が、クラウディアの唇から漏れた。
その碧眼には、氷のような冷たさを通り越し、青い炎のような怒りが宿っている。
「二度と、私の前にその顔を見せないで。次に私の剣を侮辱したら…その舌、引き抜いてあげるわ」
殺気。
本物の、純度100パーセントの殺気が、アルトへと向けられる。
だが、当のアルトは。
「ふむ?なぜ彼女は怒っているんだ?僕は、彼女の剣技がより高みへ至るための、建設的なアドバイスをしただけなのだが。僕の指摘に、何か論理的な破綻があっただろうか…?」
全くもって、わかっていない。
このスーパー鈍感天才科学者には、乙女のプライドという非論理的なパラメータは、観測不可能なのだ。
「あわわわ…!も、申し訳ありませんでしたーっ!」
リゼットが、半泣きになりながらアルトの首根っこを掴み、その場から猛ダッシュで逃げ出したのは、言うまでもなかった。
ほうほうの体でその場を逃げ出した二人は、なんとか自分たちが所属することになる教室へとたどり着いた。
息を切らすリゼットの横で、アルトはまだ納得いかない顔をしている。
「解せないな。僕の分析は、客観的事実に基づいたものだ。彼女にとっても有益な情報だったはずなのに」
「アルトの、どアホーーーっ!」
リゼットの叫びが、静かな廊下に響き渡る。
「あんな綺麗な人に、初対面でなんてこと言うのよ!女の子の『すごい』は、分析してほしいわけじゃないの!ただ『すごいね』って共感してほしいだけなの!」
「共感?データに基づかない主観的な感想に、一体なんの意味が…?」
「意味ならあるの!大ありなのよ、この朴念仁!」
ぎゃんぎゃんと吠えるリゼット。
そんな二人のやり取りを、教室の入り口にいた生徒たちが、遠巻きに眺めている。
(うわ、辺境からの推薦入学って、あいつらのことか…)
(なんか、すごい揉めてる…)
貴族の子弟ばかりが集まる洗練された空間に、二人は明らかに異質な空気を持ち込んでいた。
やがて、始業の鐘が鳴り、担任と思しき教師が入ってくる。
アルトとリゼットも、慌てて指定された席に着いた。
「諸君、入学おめでとう。私が担任のバルガスだ。早速だが、新入生には一人ずつ自己紹介をしてもらう」
生徒たちが、一人、また一人と当たり障りのない自己紹介をこなしていく。
やがて、リゼットの番が来た。
「え、えっと…リゼット・ブラウンです!レヴィナス領から来ました!特技はパンを焼くことと、あと…その…」
彼女は、ちらりとアルトの方を見た。そして、ええいままよ、と頬を赤らめながら宣言する。
「アルト様の、お世話をすることです!よろしくお願いします!」
ざわっ、と教室がどよめく。
(アルト様…?なんだ、あいつら主従なのか?)
(世話係が、同じ教室に…?前代未聞だな)
そんな好奇の視線を一身に浴びながら、次に指名されたアルトは、全く動じることなく立ち上がった。
「アルト・フォン・レヴィナスです。趣味は、この世界に隠されたあらゆる事象の真理を探究すること。好きなものは、美しい数式と、予測不能なパラメータです。皆さんとの出会いが、僕の新たな研究の糧となることを期待しています」
しーん。
教室は、水を打ったように静まり返った。
意味が、わからない。誰もが、そんな顔をしている。
そして、最後に。
教室の後方の席で、氷のようなオーラを放っていた少女が、静かに立ち上がった。
その瞬間、教室中の視線が、彼女一人に釘付けになる。
「クラウディア・フォン・ヴァレンシュタインよ」
凛とした、短く、しかし誰にも忘れさせない自己紹介。
その碧眼が、まっすぐにアルトを射抜いた。
「馴れ合うつもりはないわ。特に、非論理的で、人の道を外れた詭弁を弄する輩とはね」
あからさまな敵意。
だが、アルトはそれに気づくどころか、
(ほう、非論理的、か。実に興味深いテーマだ。論理とは何か、非論理とは何か。哲学的な命題だが、これもまた探究の対象だな)
などと、一人と思考の宇宙へ旅立っている。
こうして、天才プロデューサーと、二人のヒロインの、波乱に満ちた学院生活の幕が、今、静かに(?)上がった。
最初の講義のテーマは『伝統的魔法剣術概論』。
アルトの瞳が、面白くてたまらないオモチャを見つけた子供のように、爛々と輝き始めたのを、隣の席のリゼットだけが気づき、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。




