旅立ちの朝、二つの決意
スタンピード――魔獣の暴走という未曾有の災害がレヴィナス領を襲ってから、数週間が経過した。
セーラー・フレアと名乗る謎の『炎の魔法戦士』の活躍により、奇跡的にも死者は一人も出なかったものの、村の受けた爪痕は深い。領民たちは、悲しみに暮れる暇もなく、総出で村の復興作業にあたっていた。
そして、その中心にはいつも、二人の若者の姿があった。
「アルト様!こっちの資材、お願いします!」
「はい、今行きます!――ふむ、この梁の角度は構造力学的に見て少々危険ですね。補強材を入れるなら、ベクトルを考慮してこのポイントに打ち込むのが最適解です!」
「お、おう…?よくわかんねえが、アルト様の言う通りにすりゃ間違いねえ!」
領主の子息でありながら、誰よりも汗と泥にまみれて働くアルト・フォン・レヴィナス。その隣では、栗色のポニーテールを揺らしながら、かいがいしく炊き出しのスープを配る少女の姿があった。
「リゼットちゃん、いつもすまないねぇ」
「ううん、大丈夫!みんなで頑張らないと!はい、おかわりどうぞ!」
パン屋の看板娘、リゼット・ブラウン。彼女こそが、あの『炎の魔法戦士』その人であるという事実は、アルトと彼女だけの秘密だった。
二人の姿は、復興に励む領民たちにとって、希望の光そのものだった。
だが、そんな英雄的な活躍の裏側で、リゼットの胸中には、もやもやとした小さな雲が浮かんでいた。
(あれから、もう何週間も経つのに…)
彼女は、スープをかき混ぜながら、ちらりとアルトの横顔を盗み見る。
あの日、命がけで戦った直後。感動のあまり彼の胸に飛び込んだ自分に、この愛すべき天才科学者が何をしたか。
――『リゼット、感動の再会に水を差して申し訳ないが、一分一秒を争うんだ!変身直後のバイタルデータを取らせてくれ!』
(普通、あそこで言うセリフじゃないでしょ…!)
確かに、助けてくれたのは感謝している。心から。私のヒーローはアルトだけだと、今も信じて疑わない。
でも、でもだ。乙女心というものには、もう少しこう…情緒というか、ロマンというか、そういうものが必要なのではないだろうか。
(私が求めてたのは、計測器じゃなくて…『よく頑張ったね』の一言と、頭ぽんぽんだったのに…!)
そんなリゼ-ットの複雑な乙女心など露知らず、アルトは今日も今日とて、復興作業の合間に、腕にはめられた『プリズム・チャーム』をうっとりと眺めている。
「素晴らしい…。やはり、使用者の精神エネルギーと魔力波形には明確な相関関係が見られる。このデータを基にすれば、第二、第三の変身理論を構築することも夢じゃないぞ…」
「むぅ……」
ぷくーっと頬を膨らませるリゼット。
このスーパー鈍感系主人公に、私の気持ちが伝わる日は来るのだろうか。そんな一抹の不安が、復興の喧騒の中で、ため息となって溶けていった。
その日の夜。
アルトは、父であるレヴィナス男爵の書斎に呼び出されていた。
「アルト。今回の件、よくやってくれた」
重厚な執務机の向こうで、厳格な面持ちの父が静かに口を開いた。その声には、領主としての威厳と、父親としての安堵が滲んでいる。
「結果として、お前は領地を…いや、多くの領民の命を救った。その功績は、父として誇りに思う」
「もったいないお言葉です、父上。ですが、僕一人の力ではありません。リゼットの…一人の少女の勇気があったからこそです」
アルトが淡々と、しかし事実としてそう答えると、男爵は深く頷いた。
「うむ。ブラウン家の娘にも、後で正式に礼をせねばな。…だが、アルトよ」
父の目が、すっと細められる。それは、アルトが何か突拍子もない実験でヘマをやらかした時に向けられる、鋭い光だった。
「あの力…あの『変神』とかいう現象は、一体何なのだ?私の知るどんな魔法体系にも当てはまらん。あれは、果たして人が扱っていい力なのか?」
その問いに、アルトの黒い瞳が、キラリと科学者の輝きを宿した。待ってましたと言わんばかりに。
「ご説明しましょう、父上!あれは、僕が提唱する新理論『精神感応型エーテル体再構築』の臨床応用第一号でして!まず、術者の魔力を動力源とし、プリズム・チャーム内の増幅回路で――」
「ストップ」
父の短く、しかし有無を言わさぬ一言が、アルトのプレゼンテーションを遮った。
「お前のその小難しい講釈を聞きに来たのではない。私が言いたいのは、ただ一つ。その力は、あまりにも未知数で、危険すぎるということだ」
「危険、ですか?ですが、現に魔獣の群れを退けるだけの出力が…」
「だからこそだ!」
ドンッ、と男爵が机を叩く。
「一歩間違えれば、あの少女の身を滅ぼしていたかもしれん。いや、領地そのものを吹き飛ばしていた可能性すらある。お前は、制御できぬ力に、この領地の運命を賭けたのだぞ」
父の言葉は、重い事実となってアルトに突き刺さる。
確かに、あの時の成功確率は、科学者として許容できる範囲を遥かに逸脱していた。リゼットの『勇気』という、最も不確定な変数に全てを賭けた、無謀なギャンブルだったのだ。
「……申し訳、ありません」
「謝罪はいらん。お前の才能が、常人の域を遥かに超えていることは、父親である私が一番よく知っている。だからこそ、命じる」
レヴィナス男爵は、引き出しから一通の封蝋付きの書状を取り出した。
「王都へ行け、アルト。王立騎士団養成学院へ入学し、そこで、その力のなんたるかを学び、正しく知り、そして完全に制御する術を身につけなさい。これは、お前の才能を、そしてこの領地を守るための、領主としての命令だ」
王立騎士団養成学院。
それは、この国で最も優秀な若者が集い、剣と魔法、そして騎士としての道を学ぶ、最高学府。
「…僕が、学院に?」
「そうだ。お前のその知識は、もはやこの田舎領地で収まる器ではない。もっと広い世界で、本物の天才たちとぶつかり、磨き上げる必要がある。これは、お前に与える試練であり、チャンスでもある」
父の瞳は、どこまでも真剣だった。
それは、息子の未来を案じる、父親の愛の形なのだと、さすがのアルトにも理解できた。
「…承知、いたしました。父上の命令、謹んでお受けします」
アルトが深く頭を下げた。
こうして、天才科学者の次なる研究室は、王都の学び舎に決まったのである。
「…というわけで、僕は王都の学院に行くことになったんだ」
翌日。秘密の実験室である天文台で、アルトはリゼットに事の経緯を説明していた。
それを聞いたリゼットは、手に持っていた焼き立てのパンを、ぽとりとバスケットに落とした。
「王都に…アルトが、行っちゃうの…?」
「ああ。父上の命令だからね。まあ、僕としても王都の図書館にある古代文明の文献には興味があったところだし、ちょうどいいかもしれない」
アルトは、あくまで研究の延長線上として、この決定をポジティブに捉えている。だが、リゼットにとっては、青天の霹靂だった。
(アルトが、私と離れ離れに…?)
生まれた時から、ずっと隣にいた。
研究に没頭して無茶をする彼を、世話を焼くのが自分の役目だった。
朝、叩き起こしに行くのも。
徹夜明けに、朝食を食べさせるのも。
失敗作を見て、一緒に笑ったり、呆れたりするのも。
全部、全部、自分の特権だと思っていたのに。
「そっか…。すごいね、アルト。王都の学院なんて…」
寂しさを押し殺し、リゼットは必死に笑顔を作った。アルトの夢の邪魔なんて、絶対にしたくない。応援するって、この前決めたばかりじゃないか。
だが、その笑顔は、あまりにもぎこちなく、震えていた。
そんな彼女の様子を見て、アルトは少し不思議そうな顔で首を傾げた。
「リゼット?どうしたんだい、顔色が悪いぞ。もしや、昨日の炊き出しの疲労が蓄積しているのでは?人体の恒常性を維持するためには、適切な休息と栄養補給が不可欠だ。今日の君の摂取カロリーと睡眠時間を計算し、最適な回復プランを…」
「そうじゃない!」
リゼットは、思わず叫んでいた。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「そうじゃなくて…!アルトがいなくなったら、私…!」
(寂しいよ…!)
その言葉が、喉まで出かかって、でも、飲み込んだ。
代わりに、彼女の頭の中に、別の考えが稲妻のように閃いた。
(…そうよ。アルト一人で王都に行かせたら、どうなる?)
この男は、研究に夢中になったら三日三晩平気で徹夜する。
食事は栄養ゼリーで済まそうとする。
お風呂に入るのも忘れて、数式とにらめっこする。
そんな生活を送れば、王都に着く前にぶっ倒れるのが目に見えている。
(ダメだわ…!アルトには、私がついてないと!)
世話焼き一途な幼馴染の思考回路は、瞬時に『悲しみ』を『使命感』へと変換した。
リゼットは涙をぐいっと拭うと、決意に満ちた顔で、アルトの肩をがしりと掴んだ。
「わかったわ、アルト!私も行く!」
「…え?」
予想外の言葉に、アルトが目を丸くする。
「私も王都に行く!アルトの護衛として!だって、私はセーラー・フレアなんでしょ?プロデューサーの護衛をするのは、ヒーローとして当然の任務よ!」
我ながら、完璧な理屈だ。リゼットは胸を張る。
これには、さすがのアルトも反論できないはず。
「いや、しかしだな、リゼット。君には君の生活が…」
「いいの!パン屋の仕事は、お父さんとお母さんがいるから大丈夫!それに、アルト様のお世話は、昔から私の役目なんだから!」
その剣幕に、アルトは若干たじろいだ。
彼の天才的頭脳が、リゼットの乙女心を解析するのは不可能だったが、彼女の『決意』が、もはや理論や説得で覆せるレベルのものではないことだけは、正確に弾き出せた。
「…わかった。そこまで言うなら、父上に相談してみよう。君は、あのスタンピードを止めた功労者でもある。あるいは、特例として認められるかもしれない」
「本当!?やったー!」
ぱあっと顔を輝かせるリゼット。
こうして、彼女もまた、自らの意志で王都へ旅立つ決意を固めたのだった。
その胸に宿るのは、もちろん『アルトの世話を焼く』という大義名分と、ほんのちょっぴりの『王都に行けば、二人きりの時間が増えて、何か進展があるかも…!』という、甘い期待を添えて。
数日後。レヴィナス領の入り口に、一台の馬車が停まっていた。
旅立ちの日である。
「アルト様、リゼットちゃん、元気でな!」
「王都に行っても、わしらのことを忘れんでくれよ!」
見送りに来た領民たちが、口々に二人を励ます。リゼットの両親は、涙ぐみながら娘に大量のパンを持たせていた。
「アルト様のこと、しっかり頼んだよ、リゼット」
「うん!任せて、お父さん!」
騒がしい喧噪の中心で、アルトは馬車の横に立ち、父親と向かい合っていた。
「では、行ってまいります。父上もお元気で」
「うむ。…アルトよ、一つだけ言っておく」
父は、息子の肩に力強く手を置いた。
「力を過信するな。そして、友を作れ。お前のその歪な知識は、一人で抱え込むにはあまりに重すぎる。心を許せる友と分かち合ってこそ、真の力となるだろう」
「…友、ですか」
アルトの脳裏に、前世での記憶が蘇る。
研究に没頭するあまり、同僚たちと深く関わることのなかった自分。最後に自分を庇ってくれた後輩の顔。
「…心に、留めておきます」
アルトが静かに頷くと、父は満足そうに微笑んだ。
馬車に乗り込むと、やがて御者の合図と共に、ゆっくりと車輪が回り始める。
窓から、どんどん小さくなっていく故郷の風景と、手を振り続ける人々の姿が見えた。
「なんだか、いよいよって感じね!」
隣の席で、リゼットが期待に胸を膨らませてキラキラした瞳を向けてくる。
「ああ。王都には、どんな未知のデータと研究テーマが待っているか…実に楽しみだ」
アルトは、いつも通りの理知的な笑みを浮かべて答えた。
その心にあるのは、新たな知的好奇心と、自らの理論を証明するための、科学者としての決意。
(待ってろよ、王都!僕のヒーロープロデュース計画、第二章の始まりだ!)
一方、リゼットは。
(これから、アルトと二人きりの旅…!そして、王都での新しい生活…!)
彼女の心にあるのは、幼馴染を支えるという使命感と、彼の『特別』になりたいと願う、少女としての決意。
(今度こそ、この鈍感アルトに、私の気持ち、少しは伝わるといいな…!)
同じ馬車に乗り、同じ目的地を目指す二人。
その胸に抱く『決意』の種類が、全くもって噛み合っていないことに、彼らはまだ気づいていない。
勘違いとすれ違いを乗せた馬車は、新たな出会いと波乱が待つ王都へ向けて、希望の轍を刻みながら走り始めた。




