第一章 4
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1994年。
聖児は、木下美樹と同棲をはじめていた。
それまで住んでいた実家から、すぐ近くのアパートに引っ越していた。
「ねえ、最近、教会行ってないよね」
「え?」
食事の支度をしている美樹に、そう言われた。彼女といっしょに何度か行ったことがある。まだこのアパートに引っ越しするまえのことだ。
「うーん、そうかなぁ」
聖児は、ごまかすように答えた。
そのとおりなのだ。いつかの夜に見た、あやしげな男と神父の密会。それを眼にしてから、立ち寄る回数が減っていた。まったく行かないということはなかったが、そういえばここ最近は、足を運ばなくなっていた。
胸には、あいかわらずロザリオをかけているが、それが重く感じる。
「ああいうところがいいよね」
「なにが?」
「結婚式をあげるなら」
さらっと言われた。それはつまり、結婚を意識しているということだ。
「そ、そうだね……」
その思いには気づかないふりをして、聖児は会話を続けた。
まだ就職が決まっていない。当初は司法試験をめざしていたが、すでにそれはあきらめている。一般の企業に入ろうと考えていた。就職が決まって、大学を卒業したら、プロポーズをしようと思っている。
「暑い? 窓あけようか?」
料理をしている彼女が、大量の汗をかいていることに気がついた。
「あ、大丈夫だよ」
彼女は、タオルで汗を拭った。
「でも、喉は渇いたかなぁ」
そう言って、彼女は冷蔵庫のなかからペットボトルの水を取り出した。500㎖を一気に飲みほす。
なにげなく聖児は、その姿を眺めていた。
ふと、不安が脳裏をかすめた。
そういえば……彼女は、最近よく汗をかいている。そして、いまのように水をガブ飲みしている。
「……」
世間知らずの聖児でも、それらの特徴が、あることを示唆していると知っている。
(いや、まさか……)
当然、声に出すことはできない。
だが、疑いだしたらきりがなかった。
料理をつくる彼女の、一挙手一投足があやしく思えてくる。
「できたよ」
食卓に料理が並び、二人して食べた。
「どう? おいしい?」
「うん、おいしい」
表面上は、いつもの二人だった。
食べ終わると、彼女が洗い物をする。聖児もそれを手伝った。
その間も、彼女のことを複雑な思いで観察していた。
「どうかした?」
「う、ううん……なんでもない」
「わたし、ちょっとコンビニ行ってくる」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
時刻は、夜九時になろうとしていた。女性が一人で行くには不自然とまではいかないが、心配になる時間だ。
しかし、それよりも気になることを聖児は優先した。
彼女の私物をあさった。
罪悪感はあったが、それよりも不吉なものを振り払うほうが重要だと、自己弁護を心のなかで繰り返した。
部屋中をさがしても、不審なものはなかった。安堵が身体中を駆け抜けた。
いや、聖児の瞳は、ある一点にとどまった。
ゴミ箱。
そのなかだけは調べていない。
なぜだか緊張した。ゴミ箱のなかをあさる。
底のほうに、小さなビニールがあった。粉末の薬が入っているようなやつだ。
「……」
本当に、薬のビニールなのだろうか?
心のどこかで、ちがうと思っている自分がいる。
こういうのは「パケ」と呼ばれ、違法薬物を売るときにつかわれるものだというのを雑誌で読んだことがある。
彼女が、違法薬物を……やっている?
信じられない。
だが、それを疑っている……。
聖児は、いてもたってもいられなくなった。
彼女を追って、部屋を飛び出した。
アパートに近いコンビニにはいなかった。
どこにいるのだろう……?
さがしまわるうちに、気がつけば、あの教会の近くに足を運んでいた。
どうしようか迷った。
教会にいるかどうかを確かめる……。
いつか眼にした神父と粗野な男のことが思い返された。
はやく行かなければ、と思う反面、行きたくない……知りたくない、と思う自分もいた。
聖児は、覚悟を決めて教会へ向かった。
だれかが、その教会の方角からやって来た。
「美樹ちゃん……?」
「聖児くん……」
彼女は、どこか驚いたようだった。
「ど、どうしたの?」
「あ、ううん、遅かったから心配して……」
「どうしてここにいるって……」
「いろいろさがしてて、たまたまここに来ただけ」
それは本当のことだったが、なぜだか嘘をついているような気分になった。
「いま、教会から出てきたの?」
「ちがうよ。あっちのほうを通ると近道なの。むこうのコンビニ行ったから」
たしかに彼女の言う方角にもコンビニはある。言動や態度にも不審なところはなかった。ただの思い過ごしなのかもしれない。
「なに買ったの?」
「あ、うーん、ちょっとね」
* * *
排水口の奥は、広い空間になっていた。
「ここは……?」
「おれらの住処だよ」
薄く灯がともっている。オイルランプの火だ。それがところどころに設置されているらしい。
空間のすべてを見通せるわけではなかった。その見通せない奥の闇から、ぞろぞろと人が出てきた。
「なんでえ、シゲ、そいつはよ?」
そのうちの一人が声をかけてきた。ガッシリした体格の男だった。年齢は四十前後だろうか。服装は薄汚く、やはりホームレス風だ。ここにいる全員が、みすぼらしい格好をしていた。
「よくわかんねえけどよ、保警につかまりそうだったんだ。まあ、おれも危なかったけどよ」
「あ? それにしちゃ、しっかりした身なりじゃねえか。これで、おれらの仲間か? まさか、やつらのスパイじゃねえだろうな!?」
その発言で、この場の空気が緊張に包まれた。
「おい、おまえ何者だ!?」
「何者って……」
「おいおい、待ってくれよ、ガンさん。こいつは、そんなんじゃねえよ。でもなんだか様子がおかしいのには、ちがいねえけど」
助けてくれた男性──シゲが、緊迫感をほぐすようにそう言ってくれた。
「どういうことだ?」
「知らねえみたいなんだ」
「なにを知らねえんだ?」
「だからよ、ここのこととか……世の中の仕組みとか」
シゲも、それについては困惑しているようだ。
「おい、どういうことなんだ?」
体格のいい男が問いかけてきた。名前は、ガンさん、と呼ばれているようだ。
だが男は、なにも答えられなかった。
「名前は?」
「どこから来た?」
「歳はいくつだ?」
次々に質問をぶつけられるが、男は首を横に振ることしかできなかった。
「記憶喪失かね?」
そう言ったのは、線の細い老人だった。枯れ枝のような細い腕をしている。牛乳瓶の底のような丸メガネが、どこかインテリを感じさせる。
「そうみてえなんだ」
シゲが答えた。
「いま、何年かわかるかね?」
さきほど、シゲにそれを確認しようとしていたのだ。
「1994年」
頭に浮かんだそれを、男は口にした。
そうだ。いまは1994年のはずだ。自分のことはわからなくても、まちがいない。
「……こりゃ、重症だな」
あきれたように、ガンさんが言った。
インテリの表情は、あくまでも冷静だった。
「健忘症とは少しちがうようだな」
「どういうこった、教授?」
ガンさんが、インテリ老人──教授に問いかけた。
場の空気が、あきらかにおかしくなった。どういうことなのか、男にはわからない。
「いまが何年か教えてあげろ」
教授は、ガンさんに言った。
「西暦2094年だよ」




