第一章 3
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1993年──。
浅倉雅人は、都内のホテルでひらかれているパーティーに出席していた。
着慣れていないタキシード姿にうんざりしていた。大広間でのパーティーなんて、政財界のお偉いさんか、芸能人しかやらないと思っていた。
パーティの主役は、雅人の父だった。
しかし大学教授という肩書は、ここまで盛大なパーティーの主役としては不釣り合いだ。それこそ、ノーベル医学賞でもとらないかぎりは……。
「息子さんだね?」
そう声をかけてきたのは、与党の国会議員だ。
ほかにも弁護士や財界人などが、多く参加していた。
「君のお父上は、すごいね」
口々にみなはそう言うが、雅人には、なぜ父親がこうまでもてはやされるのかわからなかった。
父の研究に関係があるらしいことはわかっている。だが、詳しい話は聞いたことがなかった。たとえ実の子といえど、研究成果を軽々しく口にすることはないはずだ。
もともと雅人の父は、伝染管理──院内感染を専門に研究していた。細胞生物学と微生物学の研究者であり、医者ではあるが、人を治したことはない。
インフルエンザ、コレラ、ペスト──それらのウイルスと細菌を熱心に研究していたことは知っている。海外へもそのために渡っていたし、どういう理由かは不明だが、南極へも行ったことがあるらしい。
しかし、その活動がこれまで日の目をみたことはない。
『みなさん、今日はこんなにお集まりいただいて、ありがとうございます』
雅人の父──秀明が挨拶をはじめた。雅人の知るかぎり、こういうことのできる父親ではない。
『えー、本日はみなさまにお知らせがあります。私が長年の時をついやして研究してきた成果が、ついに結実しようとしています』
場内が、ざわめきに包まれた。
『これにより、人の寿命は大幅にのびることになるでしょう。詳しいことは明日、大学で発表会をおこないます。マスコミの方にも大勢声をかけておりますから、みなさまもぜひおこしください』
研究成果……。
雅人にも興味のあることだった。ウイルスや細菌を使って、寿命をのばそうというのだろうか?
「ん?」
パーティーの参加者のなかに、知っている顔がいた。
会話を交わしたことはない。だが少しまえまでは、よくみかけていた。いまは、スーツ姿だ。
聖児の通っている教会の神父だった。名前までは知らない。
と──、眼が合った。
雅人はどうしていいかわからず、軽く会釈をした。むこうも、同じようにしていた。
「……」
そのあとは、おたがいが視線をそらしたので、表面上は無関心をよそおった。
なぜ、神父がここにいるのだろう?
父と親交があったのだろうか?
それとも、研究に興味があるのだろうか……?
そういえば、このところ聖児は教会に行っていないようだ。だから雅人も、必然的に神父をみかけることがなくなっていたのだ。
その理由を聞いてはいなかった。
あのクソマジメな聖児の信仰心が揺らいでいるとは思えない。なにかあったとすれば、あの神父か?
考えをめぐらせているあいだに、パーティーは終わりに近づいていた。これ以上、ここにいる意味も感じなかったので、雅人は会場を一足先に出た。
* * *
男は、必死に走った。
目的地は、手を引いているホームレスにまかせていた。後ろを振り返る余裕はない。はたして警察官は追ってきているのかどうか……。
ふいに、ホームレスが立ち止まった。
川沿いをずっと進んできた。
周囲に人はいない。あの警察官もあきらめたようだ。
「あ、あなたは……?」
男は、ホームレスに問いかけた。
そこで気がついた。ホームレスは荒く息をしているが、自分の息はまったく乱れていない。どうしてだろう?
「はあ、はあ! なんとかまいたな」
「いったい、どうなってるんですか!? なんであなたは、あんな酷いめに……」
「しかたねえ。おれたちゃ、にせだ」
「にせ? 警官も言ってましたね……《偽》かって」
「そんなことも知らねえのか、あんちゃん」
「……ここは、東京でいいんですよね?」
「あ? そうだよ。なに言い出すんだ?」
男は、気になっていることを質問しようと考えていた。だが口に出す勇気が、なかなかもてなかった。
「いま、何年──」
「おっと、ここで立ち話もできねえ」
男の問いかけは、ホームレスの声でさえぎられていた。
「逃げるぞ」
「またですか?」
「地下に潜る」
「え?」
「ついてこい。つれってやる」
ホームレスが早足で移動をはじめた。いったい、どこに行くつもりなのか……。
すると、柵をよじのぼりだした。当然、なかは川が流れている。土手のようなものはなく、コンクリートの岸の下には水流がある。
ホームレスは、水のなかに降り立っていた。
「入るんですか?」
「ここは浅いんだ。早く来い」
男は、それに従った。
柵をのぼり、水面に着地した。たしかに、膝ぐらいまでしかなかった。水は澄んでいるし、匂いもない。飲むこともできるのではないかと思えてしまう。ここが本当に東京ならば、信じられない透明度だ。
ホームレスは、川を進んでいく。
「この川は……なんというんですか?」
「おめえ、さっきからおかしなことばかり聞くな? 出身はどこなんだ? どうやって、ここまで来た?」
「わからない……記憶がないんです」
「記憶喪失か?」
「たぶん……」
「そうか。あんた、身なりはちゃんとしてるが、かといってホンモノというわけでもなさそうだな。さっきの保警が、あんたを《偽》と言っていたが、機械の故障ってわけじゃないのかもしれんな」
「機械?」
「スキャンされたろ? あれ、よくエラーが出るんで有名だ」
まったく会話がのみ込めなかった。
わからないことが多すぎるのだ。
ホンモノとか、にせとか、保警とか……自分のことがわからなくて混乱しているのに、どんどんと知らないことが耳に飛び込んでくる。
「よし、このなかだ」
しかし事細かく、いろいろな質問をすることはできなかった。
生活用水が流れ込んできているであろう穴の前で、ホームレスは止まった。ひと一人が屈んでどうにか進めるほどの大きさだ。
「仲間に会わせてやる」
「仲間?」
「ああ。みんな《にせ》だ」
にせの意味がわからないから、どういうリアクションをすればいいものか……。
ホームレスが見本をみせるように穴へ入った。男もそれに従う。いや、入ろうとしたが、ホームレスが進んでいなかった。
「おめえ、この川の名前を知りてえのか?」
「え、ええ……」
知りたいことのなかでも優先順位は低かったが、男は返事をした。
「隅田川だよ」
男は振り返って、もう一度、川を眺めた。
男の知る隅田川は、こんなにきれいではない。むかしよりは、だいぶ美しくなったということは知っている。それでも、ここまでの清流ではなかった。
「おい、ついてこい」
穴からの声で、男は思考を中断した。
やはり、ここは男の知っている東京ではない。そんな思いを胸に、男も穴に入った。




