第一章 2
2
1992年。
「今日、部屋に来るでしょ?」
「うん」
蘇我聖児は、照れながら返事をした。
木下美樹と正式についあいだして、もう三ヵ月になろうとしていた。聖児は、まだその状況を夢見心地に感じている。周囲に、あまり知られたくはないという恥ずかしさと、みんなに知ってもらいたいという嬉しさが同居し、彼女との距離感を難しいものにしていた。
それにくらべ、彼女のほうは堂々としていた。いまのように、ほかに大勢がいる場所でも話をするし、照れている様子はない。
これからの週末、二人で過ごすことになった。彼女の部屋へは何度か行っているが、泊まったことはない。今日が初めてになる。
「ついに来たか」
からかうように、浅倉雅人に声をかけられた。
「こういうときは、女のほうが積極的なんだよ」
雅人の声も、聖児にはあまり届いていなかった。いつものように雅人の車で大学から帰宅した。胸がはずんでいたからか、いつもより短い時間だと思った。
夜になって、聖児は彼女の家へ行くために部屋を出た。
彼女の住むアパートは、バスで電車の駅まで行って、さらにそこから五駅ほど行かなければならない。
バス停までのあいだに、教会がある。
夜の教会も、美しく街に映えていた。
「あれ?」
聖児の視界に、人影がかすめた。
教会のなかに入っていったようだ。
なぜだか気になった。時刻は、もうまもなくで八時になろうとしている。はやくしなければ、バスの運行が終わってしまう。それでも聖児は、足を教会へ向けた。
夜でも教会は開放されている。お祈りをするために来たのだとしたら、なにも不自然なことはない。だが聖児には、いまの人影が祈るために訪れたようには思えなかったのだ。
根拠があるわけではない。しかしハッキリと見たわけではない人影は、どこか怪しげで、神聖な場が不釣り合いだった。見間違いかもしれないが……。
教会のなかに入った。
祭壇の前に、その人物がいた。
男。年齢は三十歳前後。シャツの襟からのぞく首筋には、幾何学的なタトゥーが描かれていた。最近では入れ墨とはちがって、ファッションで彫る若者が増えている。しかし男の年齢では、ファッション感覚でやっているわけではないだろう。やはり危ない雰囲気が強い。
男は、一人だけではなかった。すぐそばに神父もいる。
その二人は、聖児のことには気づいていない。教会内に、ほかの人間はいなかった。なぜだか聖児は、しゃがみ込んで長椅子の陰に隠れた。
「売上だ」
「少ないな」
「じゃあ、もっと紹介してくれよ」
「わかった……」
男から神父がなにかを受け取っていた。封筒のようなもの。
次の瞬間、心臓が縮み上がった。
男が、聖児のほうを向いたのだ。
「……!」
より身体を小さくした。
すぐに視線はもどっていた。
聖児は怖くなったので、しゃがみ込んだ姿勢のまま、外に向かった。
扉の外に出るまで、生きた心地がしなかった。
彼女の部屋は、ワンルームのアパートだ。実家暮らしの聖児よりも当然部屋は狭いが、きれいに整頓されているから居心地はいい。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか、暗い顔してるよ」
教会でのことが、頭を支配しているのだ。
あれは、なんの場面だったのだ……。
素直に解釈するのなら、あの男が神父に現金を渡していた。
それは、なにを意味しているのだろう……。
逆であるならば、あの男に脅迫でもされてお金を渡してしまった……そう見て取ることもできる。
「ねえ、せっかくつくったんだから」
テーブルには料理が並んでいた。彼女がつくってくれたのだ。
「味には、自信ないよ」
聖児は想像を振り払って、料理に手をつけた。おいしかった。
「すごくうまい」
「ホント!?」
「うん」
楽しく食事をすませた。
彼女は後片付けを、聖児はテレビを観ていた。
『普通の主婦が、覚醒剤で摘発されるという──』
ニュースをつけた。
「え?」
映像に流れていたのは、知っている光景だった。
「どうしたの?」
後片付けを終えた彼女が、となりに座った。
「こ、ここ……」
「ん? 覚醒剤の事件?」
「ぼくの町だ……」
「そうなの?」
彼女は、それほど驚いた様子もない。あたりまえなのかもしれない。事件のおこった場所が、恋人の住んでいる場所というだけではそんなものだ。もっと大事件や、凄惨な出来事ならいざしらず……。
「でも最近、覚醒剤が主婦とか学生に蔓延してるって」
ちょうどニュースでも、同じようなことを報じていた。
「あ!」
聖児は、また驚いた。ニュース映像に、いつも通う教会が映りこんだのだ。
それは、ほんの少しの時間だったのに、聖児の心に暗い影を落とした。さきほどのことが脳裏をよぎった。
(まさか……)
いや、そんな……。聖児は、自らの想像に悪寒がはしった。そんなことはない。あるはずがない。
あれが現金だとして、なんのお金だったのか……。
神父が受け取っていたものは……。
* * *
このままでは埒があかないので、男は交番をさがすことにした。周囲を見回すが、そう都合よくはみつからない。交番でなくとも、もちろん警察署でもいい。いや、役所や病院、商店でもいいのだ。
とにかく、この状況を理解したかった。
だれかと会話をしたかった……。
歩いて、歩いて、歩いていった。だが、交番も病院も見当たらない。無機質な街並みが続いているだけだ。普通の商店すらない。コンビニもない……おかしい。男は、あたらめて思った。
ここは、日本なのか?
風景は、日本のものだ……だが、男の知っている日本ではない。
自分の記憶すらないのに、男はそう考えた。
いつのまにか、川沿いを歩いていた。
川の名前はわからない。水のきれいな川だから、ここは東京ではないのかもしれない。川幅は広く、底まで見通せるほどの透明度だ。都会を流れる清流だ。こんな川は知らない。
「まて──っ!」
そのとき、怒鳴り声が街の静寂をぶち壊した。
男は、眼を覚ましてから初めて他人の声を聞いた。だが、安堵は生まれなかった。声があまりにも攻撃的だったからだ。
眼を向ければ制服警官が、みすぼらいし服装の男を追いかけていた。
いや、本当にそれが警官の制服なのか男には判断できなかった。男の知っている制服ではない。大きくはちがわないが、微妙に異なっている。
追いかけられているほうは、ホームレスなのだろう。キチッとした身なりの人物しか見ていなかったから、どこか新鮮だ。
その逃走劇が、男に迫ってきた。
ドン、と激しくぶつかった。
男は膝をつき、ホームレスも反動で倒れてしまった。
そんなホームレスを、警察官が警棒でめった打ちにする。
酷いと思った。
なぜ、こんな仕打ちをするのだろう。このホームレスは、なにか凶悪な罪を犯したのだろうか?
男は、見て見ぬふりができなかった。
記憶もない男には、そんなことをしている余裕などないはずなのに……。
「や、やめてください……」
だが警官にまで、声は届かなかったようだ。
男は、言い直した。
「やめてください!」
そこでようやく、警官が男の存在に気づいたようだ。
「なんですか?」
「い……いえ……」
あまりにも警官が平然としていたから、男は次の言葉が出てこなかった。
「どうしました?」
「どうしたって……その人が、なにをしたっていうんですか?」
「……」
ギロッと警官に睨まれてしまった。
「あの……なにか……」
「身元を確認します」
機械的な口調で言われた。
「え?」
「身元を確認します」
警官は繰り返した。
「名前はわかりません……記憶がないんです」
しかしそれを耳にしても、警官に動揺はなかった。
「動かないでください」
警官はそう注意すると、ファミレスでオーダーをとるときのような小型の機械を男の顔に近づけた。
「な、なにを……」
「身元を確認してるにきまってるではないか」
機械を眼に向けられた。
ピ、と音がした。なにかをスキャンされたのだ。
「ん!?」
警官の顔色が変わった。
「おまえも、偽か!?」
警棒を向けながら、警官は言った。
「にせ……?」
偽物、という意味だろうか?
「な、なんのことですか!?」
「とぼけるな! 身なりは普通だが、おまえもこいつと同じなんだな!」
そう言って警官は、地面でうずくまっているホームレスに視線を向けた。打撃は強烈だったらしく、まだ起き上がれないようだ。
どうやら警官は、男とホームレスが同じ人種だと言っているらしい。
「意味がわかりません……どうなってるんですか? ここは、いったい……」
男にも、ここの異常性がわかってきた。知っている世界ではない。そういう思いが駆けめぐっていた。
「おとなしくしないと、こいつみたいになるぞ!」
ジリッと警官が距離を詰めた。
「どうするつもりですか!?」
「きまってることを! 連行するのだ」
「連行? どこへ……」
「おまえは、この国の住人か? そんなことも知らんとは」
「ここは……日本ですか?」
思い切って言ってみた。
「あたりまえじゃないか。頭がおかしくなってるのか? おまえは、収容所で一生をすごすんだ」
「収容所……?」
この国に、そんなものがあっただろうか?
いや、戦時中でもなければ、現代の日本には存在しない。
「このゴミと同じように、強制労働のすえ果てていくのだ」
男は、抵抗しようか、逃げようか、いろいろと頭をめぐらせていた。たぶん、話しても無駄だ。
そのときだった。
倒れていたホームレスが、立ち上がっていた。
体当たりで警官を妨害すると、ホームレスは男の手を取った。
男は、されるがまま、ホームレスにつれられて逃げ出した。