第一章 1
プロローグ
男は、公園のベンチで眼を覚ました。
陽光が降りそそぎ、さきを急ぐこともなく人々が行き交っている。
平和な光景……だが、なにかがちがった。
そこで男は気がついた。
「ここは……?」
公園であることはわかるのに、どこのなんという公園なのか思い出せない。いや、公園の名前など知らないほうが自然だ。よほど有名なところでないかぎりは……。
見たところ、初めて訪れた公園のようだ。大きさは広くもなく、狭くもなく……。
いったい、ここはどこだ……?
なんという街の公園なのだろう?
「え?」
さらに気がついた。
「……おれは?」
自分が何者で、なんという名前なのかもわからない。
「おれは……だれだ?」
服装を調べた。白いシャツとジーンズという、ごく普通の出で立ちだった。ポケットのなかに、身元がわかるようなものはない。
男は、立ち上がった。
フラついた。足元がおぼつかない。
それでもなんとか歩き出した。
どこへ……?
なにもわからないのに、目的地などあるわけがない。
「ここは、どこだ……? おれは、だれだ?」
第一章
1
1991年。
朝の陽光が、きらびやかに街を照らしていた。
閑静な住宅街にたたずむ神聖なるシルエット──。
美しい教会が、そこにあった。
「アーメン」
片膝をついて祈りを捧げている青年がいた。
蘇我聖児。年齢は、今年で十九歳になる。都内にある大学へ通うまじめな学生だった。
「いつも熱心ですね」
そんな聖児に声をかけたのは、この教会の神父だった。
「いえ……そんなことはないです」
聖児は、カトリックというわけではなかった。洗礼もうけていない。だが子供のころから、この教会に通っている。家の近くのここへ来るのが日課のようなものだった。
神父も、そんな聖児をこころよくむかえてくれる。
〈プ、プー〉
外でクラクションが鳴った。
「すみません、神父さん。もう行かなくちゃ」
「あなたに、神のご加護があらんことを」
赤い車で待っていたのは、友人の浅倉雅人だった。聖児には、なんという車種なのかわからない。一度教えてもらったのだが、外国の車だということしか覚えていなかった。
「いつまで神頼みしてんだよ」
すぐに助手席へ乗り込んだ。
雅人も同じ大学だが、学部がちがう。聖児が法学部で、雅人が医学部だ。他人から見たら、聖児が医学部で、雅人が法学部に思えるらしい。
色白で、見るからに頼りなさげな聖児は、研修医のイメージがピッタリだ。かけているファッションセンスのない眼鏡も、その一因だろう。
一方、雅人の容姿は端整ではあるが、冷たく鋭い剣呑な雰囲気がある。法廷で戦う姿が、いまから想像できそうだった。
車は、都心に向かっていた。
車窓から、できたばかりの東京都庁舎が見えた。陽光をうけて輝くそのさまは、まさしく東京の新しい象徴だった。
「邪魔だな」
雅人が、ふいに言った。
「なにが?」
「あれだよ。あの新しいの」
「いいじゃん。大きくて」
「大きいから邪魔なんだ」
聖児には、たまに雅人の考えがわからなくなることがある。一言でいえば、変わり者だ。
そんな相手と、どうして仲良くなったのかは、いまとなっては思い出せない。中学からの親友だった。性格はちがうのに、どういうわけか、ウマが合った。
「今日は、混んでなかったね」
キャンパスは都心にあるが、医学部、法学部、経済学部、文学部が同じ敷地にあるほど広大だ。残りの学部は、八王子キャンパスにある。
駐車場は、教職員用しかない。だが、かまわずに雅人は車を停めた。雅人の父親は、ここの教授なのだ。
「おはよう!」
駐車場から校舎のほうに歩いていたら、明るい声が降りかかった。
「おはよう、木下さん」
聖児も明るく挨拶を返した。
「じゃあな、お邪魔虫は消える」
軽口をたたいてから、雅人は歩き去っていった。
聖児にも、声をかけた女性──木下美樹にも、彼が気をつかってくれたのだということがわかっている。
木下美樹は、聖児と同じ法学部の生徒だった。
恋人、というところまでは発展していない。が、雅人が気をつかってくれるほどの仲なのは、自他ともに認めるところだ。
「今日の講義はなんだっけ?」
「あれと、あれと、あれじゃない」
「あれじゃわかんないって」
二人は、じゃれあいながら教室に向かった。
* * *
記憶をなくした男は、おぼつかない足どりで道を進んでいた。
そんな男に関心を寄せる人間はいない。
整然とした街並み。美しく舗装されたアスファルト。自らの記憶はなくても、その光景はよく知っているものだ。
だが、なにかがちがう。
「あの……」
男は、たまらずに声をかけた。自分だけが異世界から来た人間のように感じてしまったのだ。
しかし話しかけたスーツ姿の男性は、それに応えることもなく、歩き去っていった。いまのおぼつかない足取りでは、その速度にはついていけない。
身体が重かった。力が入らない。
まるで、他人の身体を借りているかのようだ。
ここは、どこなのか……。
自分は、だれなのか……。
せめて、それだけでもわかれば……。
歩いていくにしても、どこをめざせばいいのだろう。
「あの……」
もう一度、声をかけてみた。
だが、やはりだれも応じてくれない。
その後も何度か声をかけるが、結果は同じだった。
おかしくないか?
見ず知らずの人間に声をかけられるのが迷惑だとしても、一人ぐらいは話を聞いてくれるものではないだろうか?
なにかがおかしい。
ここは、どこだ?
本当に、知っている場所か?
……知っている世界か?