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作者: 水蒸気

大気は冷え、太陽は沈もうとしていた。道路には果物が腐ったような酸っぱい臭いが漂っていた。寂れた商店街の一角に木造の古い洋菓子店があった。


店が閉店して六日になる。今日は息子が自分を訪ねてくるだろう。しかし、彼女は急がない。急ぐことができないのだ。寄る年波には抗えない。思うに任せぬ自分の足に苛立ちが募った。


ベンチに座って呼吸が整うのを待つ。

「あの女はきっと、雑誌か何かで紹介されている小洒落た店で、智人が好きなチョコレートケーキを買うはずだわ」

トクン、トクン、トクン、トクン。0.5秒毎に頼りなく脈打つ心臓の動きを感じながら彼女は考えた。今日で五歳になった智人の顔が浮かぶ。それは、新しい命の炎、生きることの希望に溢れた炎、老い先を考えて、自ら暗闇に隠れようとする老人を強烈に、しかし純粋に照らしだす炎だった。


やっと家に着いたときにはすでに六時を回っていた。真っ暗で、物音一つしない店内。テーブルや椅子は隅に片付けられ、むやみに広い空間が、彼女の気持ちを沈ませた。彼女は立ち上がり、スポンジケーキを焼く準備を始めた。年季の入ったオーブンはよく手入れされており、この先百年でも使えそうに思われた。

「あたしを看取ってくれんのは、あんただけね」

安楽椅子に座って紅茶を口にしながら、そう呟いた。チョコレートケーキには敵わないかもしれない。それでも、夫と自分が守ってきたこの店の味、その記憶を、智人の舌に遺したかった。彼女は、老人に特有の浅い眠りに落ちていった。


ガラス張り店の外に人影がみえた。ひょろりとした白髪混じりの男だった。色黒の顔に大きな瞳。色の薄い虹彩が、店の照明に映し出されて、透明な光を放っている。それは、十年前に先立った彼女の夫だった。

「久しぶりね。迎えにきたの?遅かったじゃない。遅すぎるわ。あたしは随分とおばあちゃんになってしまったわ」

男は黙ったまま微笑んでいる。

「あなたは、いつもそう。狡いわ。ずっと待っていたのに、どうして会いにきてくれなかったの?」

やはり男は店の外で穏やかな顔をしている。雪が降り始めた。やがて男の輪郭がぼやけ、体が透け、ゆっくりと消えた

「待って…」


すうっと老婆の目が開かれた。時計をみるとすでに十一時を過ぎている。少女のように高鳴っている自分の胸が可笑しい。スポンジケーキは申し分なく焼きあがっていたが、息子は訪ねてこなかった。きっと、暖かくて、広々としたあの新居で、孫は母親が買ってきた完璧なチョコレートケーキを食べたのだ。そう思って彼女は、この上なく淋しい気持ちになった。


トントン、トントン。トントン、トントン。トントン、トントン。

もう休もうと思って彼女が布団を敷いていると、誰かが窓を叩いた。窓の外にいたのは、二十歳くらいの女の子だった。


「夜分遅くにすみません。ケーキを作って欲しいんです」

女の子は切実な眼差しを老婆の顔に注いでいる。

「無理は承知の上なんです。それでもお願いしたいんです。このお店じゃなくちゃ駄目なんです」

長い睫に雪が絡まっている。

「まあまあ、こんな寒い中。いったい、どうしたというの?」

女の子は、お願いします、と繰り返すばかりだったが、相手が危険でないことがわかり、老婆のほうは安心した。それにいまは、誰であれ、共に時間を過ごすことができることが嬉しかった。

とっておきの紅茶を淹れ、見ず知らずの女の子に差し出す。

「どうぞ。少しだけブランデーを入れておいたから体が温まるはずよ」


*********


このお店じゃなきゃ駄目なんです。父が…死ぬ直前に予約してたんです。十年分のケーキを。父が死んで最初の誕生日に…マスターがわざわざ訪ねてきてくれたんです。その頃、私は施設にいて。マスターが大きな苺ケーキを届けてくれたんです。



*********


「学校には慣れたかい?」

「うん…」

「そうか…。お父さんにさ、代わりにお嬢ちゃんが立派な女性になるのを見守ってくれって、いわれたよ。でも、おじさんは、ケーキ作るぐらいしかないからな」

「うん…」「毎年届けにくるよ」

「うん…」

「お父さんはな、いなくなったわけじゃねえぞ。いつだってお嬢ちゃんのこと見守ってくれてんだ」「うん…」


*********


マスターはそのあとも時々訪ねてきてくれました。毎年、私の誕生日には、ケーキを作ってきてくれて…。少なからぬ額のお金を私のために、都合してくださっていたことも先日知りました。結婚が決まったときに、施設の先生から渡されたんです。『マスターが君の結婚資金に、って預けていったんだ』って。それで…、どうしてもウエディングケーキは、このお店にお願いしようと思って。でも、ずっと閉まったままだったんです。それが今日、諦めるためにきてみたら、灯りが洩れているのがみえて…



*********


六月、女の子は花嫁になった。真っ赤な苺が贅沢に使用されたウエディングケーキは、出席者の話題となった。

その一カ月後、老婆がこの世を去った。

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