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2-5 Human Weapon

 新大阪駅でスーツを着た男に出迎えられたベテラン刑事は、黒いセダンの後部座席で話を聞いていた。

 ……亜沙と明澄の父親を名乗る男が現れたのを待って、大阪行きを上司から命じられたのは3時間半前のことだった。タブレットに送られてきた現場の写真を見ていたが、コーヒーの苦味すら打ち消すほどの凄惨さに、終始苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 ……大阪の人工島、咲洲で起きた事故。T字の交差点で直進していたタクシーの側面に、大型のタンクローリーが刺さった。所謂Tボーンクラッシュだった。

 ミニバンタイプのタクシーは、高架鉄道の高架橋の柱に挟まれ、キャビンを完全に潰されて停止した。その際にガソリンタンクを破壊され、漏れ出たガソリンに引火して炎上、タンクローリーにも引火して爆発した。

 乗客2人とタクシーの運転士は即死、タンクローリーを運転していた男は行方不明だ。そして、タンクローリーも盗難車だった。

 事件現場は一部建物も損壊し、今でも付近一帯は立入禁止だ。隣の人工島、夢洲で成功裏に終わった万博の余韻が続く大阪西端部で起きた凄惨な事故だ。事故……否、最早事件と呼んだ方が適切だと常願は思った。

 そのベテラン刑事は、トーキョーアタックを思い出した。一人娘の恋人の初恋相手が犠牲になったのは、アドトラックに仕掛けられた大量の爆薬が爆発したからだ。

 あの日から、全てが変わった。そしてあれから、2年が経った。

「室堂刑事、着きましたで」

と大阪特有のイントネーションで声を掛けられた常願は、ドアノブに手を掛けた。真新しい咲洲警察署の看板が、目に止まった。


 オッドアイの少年が発した言葉は、以前少しだけアルスと話していたものだった。

 確かに巨額の利益を目指すのは、金が全ての指標となる経済では至極当然のこと。だが、ワンワールドやネクステージライブは社会インフラどころか、バーチャルに存在するもう一つの世界を目指していた。

 神が創造しない新たな世界を望まない勢力は、一定数存在する。その一方で、テクノロジーの進化がもたらす新たな世界を望む勢力も、大いに存在する。

 宗教の影響を排除した公平なデジタルの世界……、しかし人は何時だって何処だって、神を生み出しては崇めようとする。それはVRメタバースの心臓となるAIなのか、はたまた新たな世界を生み出した、創世主と呼ばれる者なのか。それは誰にも判らない。

 ただ、金に踊らされないだけの名誉と名声、そのために覇権を握りたい……そう野心を掲げる人間がいても、不思議ではない。

 険しい目付きの夏樹を見つめ、口を開こうとした流雫を遮るように、弥陀ヶ原のスマートフォンが鳴った。端末を耳に当て、

「はい、弥陀ヶ原」

と口を開いた刑事は、少しの間通話相手と話した後、高校生2人に目を向ける。

「いいニュースが2つ、悪いニュースは1つ、最悪なニュースが1つ。いいニュースから行こうか」

そう切り出した弥陀ヶ原は続けた。

「……扇沢明澄は危機を脱した」

その言葉に、流雫と夏樹は同時に溜め息をつき、互いに顔を見合わせて安堵の微笑を浮かべる。相容れなくても死んでほしくないし、それが叶ったことは嬉しかった。

 「もう一つは流雫くん、君の女神が今日河月に来るぞ」

そう言った刑事に、流雫は思わず

「え?」

と声を上げる。

 ……今の澪には、流雫が必要だと判っていた父は、しかし平日に高校生1人で河月へ行かせるワケにはいかないと思っていた。

 だから、母の室堂美雪と2人、母娘の小旅行と云う形にした。流雫が住むペンション、ユノディエールには既に予約を入れてあるらしい。

「悪いニュース、先ずは俺と夏樹くんも同じペンションに泊まることだ」

と弥陀ヶ原は言う。恐らく、母娘2人でとは云うが澪は流雫と同じ部屋だ。つまり、夏樹は見知らぬも同然の刑事と同じ部屋で一夜を明かすことになる。

 「そして最悪なニュースだが……室堂さんが大阪へ向かった」

と言い、コーヒーを啜った弥陀ヶ原は続けた。

「ウェイフェイ・チュンが死んだ。いや、殺された……と言った方が正しいか。夏樹くん、君なら聞いたことが有るだろう?」

夏樹は一度目を見開き、身体を震わせると口を開いた。

「……アムワックの生みの親……」


 ウェイフェイ・チュン。為飛春と書く。広州で生まれ、アメリカの大学を卒業したカリスマエンジニアで、ヘラクレスの副社長。今年、アメリカの経済誌で企画された、世界的新時代リーダーランキングのトップ10入りを果たした。

 そして、最大の功績として、AI開発のためのプログラミング言語アムワックを開発した。ヘラクレスのブレインだ。

 ウェイフェイは基調講演も務めた、大阪でのAIカンファレンスのために1週間前に来日し、今日夕方の飛行機で帰国する予定だった。

 咲洲のカンファレンス会場に隣接したホテルで1件会談を終えた後、タクシーに乗った。行き先は関西国際空港。すぐ、事件と呼ぶべき事故に遭遇し、妻で秘書のマファ・チュン……麻花春と同時に命を落とした。享年36。


 「殺された……?」

そう顔馴染みの刑事に問うたのは流雫だった。

「タクシー事故だ。不可解な点が多過ぎるが」

「……ヘラクレスにとっては泣きっ面に蜂……」

と夏樹は言う。ただでさえ、日本のVRMMOの事件で大きなダメージを背負っている上に、ヘラクレスハイテック自体チュン夫妻が支えてきたようなものだからだ。深圳のオフィスで社長の椅子に座っている男は、経営に関しては秀でているが、技術的なことは半ば門外漢だ。

 残されたスタッフは精鋭揃いだし、VRMMOの件さえ乗り切れば復活は有り得る。しかし、やはりブレインがいなくなったダメージは小さくないだろう。


 「その件で、室堂さんが向かった」

と弥陀ヶ原は言った。その理由を、流雫は気付いていた。

 ……事故ではなく、渦中の件に絡んだ事件の可能性が有る。ましてや、AIカンファレンスと云うイベントの直後だ。……無関係の事故だとしても、そう疑うのは当然だった。

 スマートフォンで公式サイトを開いた流雫は、軽く心臓が止まる感覚に襲われる。

「篭川颯人……」

 カンファレンスでの登壇者一覧、そのトップはウェイフェイ。その次に篭川の名が有った。その名前に反応したのは、夏樹と弥陀ヶ原の両方だ。

「篭川って……」

「……多分」

とだけ、流雫は隣の高校生に返す。

 ……アルスが言っていたATAのエンジニア。本当に亜沙と明澄の父親だったとして、だから何だ?こればかりは咲洲の事故と無関係だろう……。

 「……警察としては疑うのが仕事だ。だが、犯人と決めつけたいワケじゃない。身の潔白を証明するためだ」

と言った弥陀ヶ原は、その場で澪の父親に連絡する。多分、とだけしか流雫は言わなかったが、刑事はその続きを察していた。

 「……今日は此処までにしよう」

と言った弥陀ヶ原は、夏樹をペンションまで送ることにした。流雫はロードバイクに跨がり、その後を追った。


 流雫の母、アスタナ・クラージュ。彼女の生まれ故郷のコミューンの名が付けられたペンションが、河月湖畔に建つ。その名は、ユノディエール。

 夫の親戚の鐘釣夫妻が開業するに当たって尽力したのが、このフランス人だったからだ。

 ユノディエールに戻った流雫は、宿泊手続きを済ませていた弥陀ヶ原と夏樹を部屋に案内した。そして、室堂と名乗る母娘がドアを開けたのは、その5分後のことだった。

 恋人の顔を見るなり

「……流雫……!」

とだけ声を上げた澪は、漸く安堵の表情を浮かべた。流雫は不意に澪の手を引き、自分の部屋に連れて行く。

 ドアが閉まるのと、少女が恋人に抱きつくのは同時だった。勢い余ってベッドに押し倒した澪の声は、泣き声に変わっていた。未だ着ていたネイビーのジャケット、その下のワイシャツに澪が零した雫が染みる。

 ……この数時間抱え、しかし無理矢理封印していた、怒と哀が爆発した。その予兆が、流雫の顔を見た瞬間の安堵だった。最愛の少女の感情を、少しでも鎮めたい……だから流雫は彼女の手を引いた。

 流雫はその頭を優しく叩き、ボブカットを撫でる。

「流雫……」

と弱々しい声で恋人の名を呼ぶ澪に、

「今は……僕がついてるから……」

と囁くほどの声で言った。

 優しく掛けられる言葉と、胸板の奥から微かに感じる心臓の鼓動が、刑事の娘を鎮めていく。それに歩調を合わせるかのように、吐息も穏やかになっていく。

 「ありがと……流雫……」

その声に流雫は、少しだけ心臓が締め付けられるような感覚を抱く。……もう少しでディナータイムの準備だ。だが、その限界までこうしていようと決めた。


 篭川颯人が、2人目の娘の一報を聞き付けて都内に戻ったのは、澪が亜沙と別れて10分後のことだった。話し掛けてきた中年の刑事が、短い通話の後で今から大阪へ向かうと言った。篭川は

「自分は今大阪から戻ったばかり。お互い大変ですな」

と言い、その背中を見送る。

 ……自分が3時間前に離れた地で、何か有ったのか?そう思った男に、亜沙は義妹を任せることにした。

「どうしても行かなければならない仕事が有るから」

と言い残した亜沙の目は、揶揄されるハイエナそのものだった。


 目的地に着くなり、ローポニーテールの女記者は

 「……義妹が、狙われました」

と言った。相手の男はベッドから起き上がると、

「そうきたか……」

と返す。

「これが……穏便な方法……」

「家族を狙うとは、流石に思っていなかったが……これが答えか」

と、亜沙に言葉を続けた男は、テーブルに置かれたノーサブのVIPパスに目を向ける。顔写真の下にミツトシ・トスとローマ字で書かれている。

 「連中の正体は、皆目見当も付かん。それに、ヘラクレスのチュンも殺されたようだ」

と目を閉じながら言った鳥栖に、亜沙は目を大きく見開く。

「……チュン……あのカリスマ副社長が……!?」

「今のところは事故らしいが、不幸な事故なんかじゃない。あの死に方は、事故に見せ掛けた殺人だ。あの夫妻とは一度一緒に仕事をしたことが有るが、いい奴らだった。業界にとっても、損失は小さくない」

「ヘラクレスにとっては、或る意味致命的では……」

「ああ。恐らく、お前の義妹を狙ったのも、チュンを殺したのも、同じ連中だと思っている」

 「しかし、明澄に関しては……」

と疑問をぶつけようとした亜沙に、鳥栖は問う。

「言いたいことは判る。Rセンサーの影響か、だろう?」

「……テスト中に、何か有ったのでは……」

「……電気信号を脳に直接送る。この仕組みを使った、例えば一種の洗脳テストが秘密裏に行われている……。もしそうだとしても、俺は驚かないが」

「洗脳……?」

と首を傾げる亜沙に、鳥栖は

「俺が撃たれた時を思い出してみろ」

と言った。


 あの秋葉原の騒動では、Rセンサーで発狂した人間が鳥栖を狙った。ファンタジスタクラウドのデータ消失事件で失ったアバターやデータの報復として。

 あのVRMMOと無関係ではないプレイバース部門のトップを、ピンポイントで狙ったのだ。誰でもよかったワケではない時点で、発狂ではなく洗脳。鳥栖は、自分が撃たれた件を何度も思い返すうちに、その可能性に辿り着いた。

 「仮に洗脳だとしても、警察で取調を受ける頃には解ける。発狂の効果や脳内麻薬と同じだ」

「実行犯は洗脳されたことに気付かず……、気付けば取調室にいる状態……」

「これが本当なら、大変なことになる。洗脳されたままに動く人間兵器が生まれることになる。VRMMOのデータ消失で騒いでいるどころの話ではなくなる」

と言い、窓の外に目を向ける鳥栖は、思わず洩らした。

「……どうしてこうなった……」


 自分がトップとして関与することになったVRデバイス、プレイバース専用コンテンツを巡る、一連の問題。VRがもたらす可能性は大きいが、今までの人類にとってはフィクションでしかなかった脅威も、現実に存在することになる。

 誰かは、その危険性を提唱しただろう。だが、誰もが最新のテクノロジーと新たな世界に夢中になり、懸念を封殺した。その時はその時、セキュリティ専門業者がどうにかする領域……そう、危険をナメていた。当時は法人向けシステム一筋だった自分も、その1人だ。

 一連の騒ぎがどう転び、どう云う形で終結するのか。誰にも予想できない。

 不穏が漂う病室に看護師が入ってきて、面会時間の終了を2人に告げた。鞄を手にした亜沙に、鳥栖は問う。

「お前は、それでも真相を追うのか?」

「当然です。私は女記者。ゲームしかできない女じゃありません」

と、以前言われた言葉を持ち出した亜沙は

「……明澄が狙われた恨みと、父の名誉のためにも」

とだけ言って、頭を下げた。

 病室のドアが閉まった後で、鳥栖は短く呟いた。

「その物怖じしない性格が、徒にならなければいいがな……」


 ポトフをメインとしたディナーの後、澪はバスルームに向かった。その間、流雫は夏樹を自分の部屋に招く。同世代でこの部屋に入ったことが有るのは、他に澪とアルスだけだ。

 ローテーブルの上で開かれたままのノートに目が止まる夏樹は、思わず手に取る。黄色の瞳が軽く揺れながら、視線を部屋の主に戻したのは、その2秒後のことだった。

「……事件のこと、気になってね」

と言った流雫の前でノートに視線を移す夏樹は、ページをめくっていく。……流雫が彼に与えた話のインパクトの全てが書かれていたからだ。

 「……だから何でも知ってたんだ……」

「僕は天才じゃないから。これだけしか判らないんだ」

と返した流雫はベッドに座る。だが、夏樹は畏怖を感じていた。

 弥陀ヶ原が情報屋と言っていたフランス人から得た情報も、夏樹と話す中で得た情報も、流雫は全て自分のものとしていた。その心臓部が、このA5のノート。

 可愛い顔をしながらも、凜々しいオッドアイの瞳を、黄色の瞳が捉える。その目は、悲壮感に支配されていた。

 「……流雫くん。僕に力を貸してほしいんだ」

その言葉に、流雫は一瞬身震いする。……覚悟せざるを得ない場面が来る、とは思っていた。ただ、それが今だっただけのことだ。

「明澄を殺されかけて、黙ってられない」

「……二度とゲームに誘ったりしない。だから、一度だけでいい、僕の力になってほしい」

その言葉に、流雫は夏樹の覚悟を見た。

 あれだけ一緒にゲームしようと誘ってきていたのに、それすら封印してでも、一連の真相を暴きたいと思っている。明澄のために、そこまでしようと思う夏樹に、流雫はかつての自分を見た。

 ……流雫の答えは決まっていた。

 「……その代わり、一つだけ」

「何?」

「……全て終わった後で、夏樹くんが飽きるまで遊ぼう……BTBで」

その言葉に、夏樹は目を見開く。あれほど拒絶していたFPSを……受け入れようとしている?

「ゲームを諦めてでも、僕を頼ろうとした。……それなら、少しはそれに報いたい」

そう流雫は言った。

 「流雫くん……」

思わず、少し声を弾ませた少年に軽い微笑を見せた流雫は

「そのために、僕たちは死なないし殺されない」

と言った。

 夏樹は、目の前のオッドアイの少年が笑うのを初めて見た。そのアンバーとライトブルーの瞳は、微笑の奥に凜々しさを、決して曲がらない意志を宿している。……吸い寄せられそうになる。

 ……彼がいれば、今までのような平穏が戻ってくる。夏樹はそう信じて疑わなかった。

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