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トランジスタラジオの恋歌

作者: 新在 落花

 母方祖父の訃報が入ったのは、夏日の強い日のことだった。

 葬儀は近親者のみで滞りなく執り行われ、特に資産などはないため、遺された自宅をどうするかという話になるようだった。



「おじいちゃん家の整理に行くから、美結も付き合ってよ」


 母に声をかけられて、その週末に祖父の家に行くことになった。


 祖父の家は作曲家だった曾祖父から受け継いだものだ。決して大きくはない一軒家だが、昭和に建てられた当時としてはモダンな家だったのだろう。周りが瓦造りの家が建ち並ぶ中で、古くなってはいるが今でも一際目立っている。


 何度も訪れたことのある家だったが、主を失った今はまるで別の様相を呈している。祖父が亡くなって二週間しか経っていないが、数年空き家だったような空虚な空気が漂っていた。


「美結は奥の部屋を片付けて。とりあえず不要そうな物をゴミ袋にまとめてくれたらいいから。あとは来週姉さんと片付けるわ」


 母に言われた通り、廊下の一番奥にある部屋を担当することにした。

 普段は使用されることのない、物置ともいえる部屋だ。


 六畳の自分の部屋よりもう少し広いくらいだろうか。物置だけとして使用するのは贅沢に思える。


 手始めに積み上げられた雑誌を紐で縛る作業を始めた。雑誌を数回運び出していると、奥に段ボールがあるのが目に入った。


 ガムテープで封のされた段ボールを開けると、黒と銀の筐体が姿を現した。持ち上げてみると思ったよりも重たく、スピーカーと数字の書かれた目盛りがある。


「古いラジオかな?」


 ラジオはスマートフォンのアプリで聴く世代の美結には、そのラジオがレトロで可愛らしい物に見えた。


「お母さん、おじいちゃんのラジオがあるんだけど、高価そうでもないからもらってもいい?」

「そんなものどうするの? あんたラジオなんか聴かないでしょう。それにそれまだ使えるの?」

「学校で昭和グッズ流行ってるんだよね。壊れてるとしてもインテリアとして使うからいいの」


 ひっくり返して見ていると、どうやら乾電池を使うラジオのようだ。帰りにコンビニに寄って購入することにする。


 思いがけない拾い物にほくほくしながらスマートフォンで写真を撮る。数枚撮った中の写りのいいものをSNSに投稿すると、片付けの続きを開始した。



 ピコン。

 SNSの新規コメントを知らせる音に気づいた美結は、手を休めると音を立てたピンクの端末に手を伸ばした。


『可愛いね! どうしたの?』

『おじいちゃんの古いラジオもらった』

『いいね! でも残念。写真の腕が悪い。画面真っ黒だよ』


 そんなはずはないと思って投稿を見てみると、確かにやたらと仄暗い画像に見える。間違って失敗した画像を投稿してしまったようだ。


 日当たりのいい部屋でどうしてこんな暗い写真が撮れてしまったのか。


「私の影でも写りこんだかな?」


 母親と二人、夕方まで片付けをしたものの、それぞれが担当した二部屋しか片づけは終わらないまま、その日は帰路に就いた。



 家に帰り着いた美結は早速ラジオに乾電池を入れてみた。


 ダイヤルのような部品を回すとカチッと電源の入った音がした。そのまま選局ダイヤルを右に回すと目盛りの上を黒いバーが移動している。


 やがてザーザーと不快な音を立てていたスピーカーから、微かな音が聞こえ始めた。


「歌謡曲かな?」


 雑音に紛れて、古めかしい曲調の音楽が聞こえてくる。選曲ダイヤルを少しずつ動かしていると、音がクリアに聞こえる場所が見つかった。


「ひいおじいちゃんの曲?」


 曾祖父は知る人ぞ知るという歌謡曲作家だった。そんな曾祖父の、代表曲と呼ばれる一曲にとても似ている気がした。


「でも、曲調が違うし、歌詞も変わってる」


 曾祖父の曲は、悲しげなメロディーとそれに相まった切ない歌詞が当時人気を博したらしい。しかしラジオから流れてくるのは、ガラリと雰囲気の違う。

 明るめの曲調で、初々しい恋に心躍らせる女性の心理を歌っている、なんとも可愛らしい一曲だ。


「カバーってわけじゃなさそう」


 流れていた曲が終わると、ラジオは再び雑音を流し始めた。


 再びダイヤルを回して選局するがノイズ以外が聞こえることはなく、美結は諦めて電源を切った。





 昼休みの教室で他愛のない話をしてたところ、そういえばと思い出したように級友が美結に声をかけてきた。


「昨日駅前にいたよね? 一緒にいた人だれ?」

「いたけど、一人だったよ」

「あれ、そうなの? 隣にいた古着っぽいグリーンのワンピース着てた人。ずっと隣にいたからてっきり一緒なのかと思ってた」


 見間違いかなと言いながら去って行く級友は、なんとなく腑に落ちないような顔をしていた。


 美結よりは年上に見えるその女を、美結の知り合いだと思ったのだ。

 隣に立っていたその女は、美結をじっと見つめていたのだから。

 



 美結の両親は仕事を終えると、いつも二十時頃に帰ってくる。そのため、夕食を作るのは美結の担当だ。

 難しいメニューは作ることはまだできないが、少しずつ料理の腕は上がっているはずだ。


「茄子があるから、麻婆茄子にしようかな」


 キッチンの棚からレトルトパウチの調味料を取り出すと、裏面の材料に目を通す。材料は家にそろっているものばかりだ。


 切った野菜を炒めていると、どこからか音楽が聞こえてきたような気がして火を止めた。フライパンの温度が下がり油の弾ける音が消えると、キッチンに静寂が訪れた。


 美結が耳を澄ますと確かに音楽が聞こえている。


 音のする方に歩いて行くと、どうやら音の発生地点は美結の部屋のようだ。

 部屋のドアを開けて電気を点けると、木製のチェストの上に置かれたラジオから音楽が流れていた。


 流れているのは、曾祖父の曲に似たあの曲だ。


「電源切ってたはずだけどな」


 それにしてもこんなに短期間に何度も流されているとは、美結が知らないだけで実は有名な曲なのかも知れない。そんなことを考えていると曲はフェードアウトしていき、音楽が消えた。


 曲の紹介でもあるかと待っていたが、ラジオパーソナリティーの声が聞こえる訳でもなく、ラジオは再び沈黙している。


「どういうこと?」


 昭和の古いラジオだ。正常に動作していないのだろうと、美結は部屋の電気を消すとキッチンに戻った。


 料理の続きをしていても、あの歌謡曲が耳の奥から聞こえてくるような気がしていてなぜだか落ち着かなかった。





 美結の母朝美は日曜日の朝早くから父親の遺品整理に追われていた。今日は姉もやってきて本格的な片付けに入る予定だ。


「今日一日じゃとてもじゃないけど片付かないわね。朝美は来週も来られるの?」

「大丈夫だけど、二人だけじゃ進まないから、来週は美結も連れてこようかしら」


 朝美の祖父の代から住んでいる一軒家だ。積堆された荷物には祖父母の物すら残ったままだ。


 朝美の父親がこの家に移り住んだのは、姉妹が就職や結婚で独立し、祖父が亡くなった後のことだ。そのため、朝美自身はこの家に特段思い入れはなく、盆や正月を過ごした家という印象しかない。


「建物もだいぶガタが来てるし、処分も考えないといけないかもね。うちはまだローン残ってるし、朝美も住む気はないんでしょう?」

「うちもマンション買ってるしね。なにより職場から遠いもの。本気で住むなら修繕しないといけない箇所がたくさんあるし、現実的じゃないわね」


 天井に滲んだ雨漏りの跡を見ながら朝美が苦笑いした。

 現状のまま売れれば御の字だが、築年数も長く建築物として価値のあるものではない。


「更地にするにもお金かかるし、頭痛いわね」

「作曲家長谷部信治の家ってことで付加価値つかないかしら?」

「おじいちゃん、知られた作曲家じゃなかったじゃない」


 一通り話が済むと、二人は分かれて遺品整理を開始した。


 突然の死だったため、通帳や保険の証書、土地の権利書など探すものは山ほどある。

 基礎疾患もなく健康だけが自慢の父親だったのだ。


「耳がおかしいって言い出したのよね」


 思えばそれが前兆だった。

 耳鳴りでもするのだろうかと心配していたら、突然入院すると言い出した。


 見舞いに行くと多少憔悴したところは見られたが、至って元気そうだった。しかし本人は断固として退院を拒否し、原因の分からない病院としてもそろそろ強制的にでも退院かという時にそれは起きた。


 夜中にトイレにでも行こうとしたのだろうか。ベッドから落ちた際の打ち所が悪かったらしく、巡回の看護師に発見されたのだ。


 特に内臓も悪くなく、いずれ退院するだろうと高をくくっていたところの突然の事故だ。当然、人生の最期を迎える準備などしていることもなく、朝美も尋ねることもなかった。


「あさみー、ちょっと来て!」


 姉の呼ぶ声に我に返った朝美は、声のした部屋へ向かった。

 襖を開けると畳に座って眉を寄せた姉が朝美を見ていた。心なしか顔色が悪いように見える。


「どうしたの?」

「これ、読んで」


 姉の差し出したのは、父親の日記帳のようだった。故人のプライベートを覗くようで少しばかり後ろめたい気持ちになりながら、開かれたページに目を通す。


 読み終わった朝美ははっと顔を上げると、姉と顔を見合わせた。


「おじいちゃんのあの曲、盗作だったの?」


 そこには、ヒット曲に恵まれなかった作曲家長谷部信治の唯一世間に知られている一曲が、盗作だったと記されていた。


「次のページも読んでみて」


 そこには父親が調べたのであろう、あらましが記載されていた。


「これが本当ならひどい話ね」


 盗作された作曲家は何度も盗作を訴えたそうだが、祖父にも所属事務所にも聞く耳を持ってもらえなかった。


 すでに長谷部信治の作曲として発売していたため、所属事務所としても騒がれたくなかったのだろう。

 けんもほろろに追い返された青年は、失意のまま世を儚んだらしい。


 今でもあの曲は長谷部信治の代表曲として、ごく稀に昭和の歌謡曲として取り上げられることもある。


「おじいちゃんの印税ってどうなってるの?」

「元々微々たるものだし、亡くなった時に権利を売ったんじゃなかったかな? お父さんは相続してないはずよ」

「このこと言った方がいいのかしら?」

「誰に?」


 確固たる証拠と言えるものもなく、当事者は全員亡くなっている。


 名の知れた者であれば話題にもなるだろうが、盗作した側もさして有名ではなく、された側は無名の人物だ。今更、孫が騒いだところで一体誰が気にとめるだろうか。


「放っておくの?」


 朝美の問いに姉が答えることはなかった。





「美結できた?」

「あとちょっとだから先に帰ってて。バスの時間もうすぐだよね? 私もこれ提出したらすぐ帰るから大丈夫」

「ごめん。塾あるから先に帰るね」


 手を振って友人を送り出すと美結は、今日が提出期限だと忘れていたプリントに必死にシャープペンシルを走らせる。


 時間はかかるが頭を使う内容ではない。答えはほぼ教科書にあり、プリントにはヒントが書かれている。ただ、設問が多く答えを埋めるのに時間がかかるのだ。


「よし! できた」


 ようやく書き終わった美結は荷物をまとめると、プリンド持って職員室へと向かう。


 生徒のいない学校は何ともいえない静けさを湛えている。時折、部活生のかけ声が聞こえてくるが、壁を隔てた別世界からの音のように不思議な隔たりを感じさせていた。


 ブツッ。


 廊下に取り付けられたスピーカーから、マイク電源が入ったような音が聞こえた。何か放送でもあるのだろうかとスピーカーに注意を向けていたが、誰もいない廊下は静かなままだ。


 首を傾げた美結は、三階の廊下から職員室のある二階へ続く階段に足を踏み出した。


 階段を下りていると、踊り場に設置された大きな鏡に映る自分と目が合った。そのまま踊り場を素通りしていると、ふと背後から視線を感じたような気がした。


 気になって振り返った美結の視界に、鏡に映る自分の姿と明るい緑のワンピースを着た女の姿が目に入った。びくっと肩を震わせて瞠目した美結が瞬きをした後、その姿は鏡から消えていた。


「あれ? 気のせいかな」


 気のせいだろうと自分に言い聞かせてはいるが、心臓はかつてないほど早鐘を打っていた。


 一瞬のことで相手の顔を見る暇などなかったはずだが、どうしてだかその視線が確かな怒りを含んでいたのが伝わってきた。


 急いで踊り場から駆け出した美結だったが、背中にはまだあの視線が絡みついているような気がしている。


 どれだけ踊り場から離れても、その嫌な感覚から逃れることはできなかった。





 翌週の日曜日、朝美達姉妹は再び父親の家に集まっていた。


 朝美の姉は病院から持ち帰った父親の荷物を片付けていた。体調や体温が書かれたノート、お薬手帳を見ると、常備薬もなく健康であったことが読みとれた。


 バックの底を漁ると先日見た日記と同じ手帳が出てきた。父親は同じ手帳を毎年購入して、日記をつけていたらしい。


 ぱらぱらとめくるが、日々の何気ない日常が記されていた。

 庭の朝顔が咲いた。トマトの苗が枯れた。炊いたご飯が柔らかかった。


 懐かしい父の字と言い回しに思わず口元が緩んでいたが、次のページをめくったところで手が止まった。読み終わるとすぐさま妹を呼んだ。


「朝美、読んで!」


 朝美は姉の差し出した父親の日記を受け取ると、指さされた箇所を読む。


『誰もいない部屋から音楽が聞こえてくる』


「何これ?」

「続けて読んでよ」


『聞こえてくる曲は父の曲に似ている。父の曲よりテンポが速く明るい音調だが、素人が聞いても酷似していると分かる。きっと元になった曲だ』


「……お父さん、どこで聞いたんだと思う?」

「盗作元の曲って発売とかされてないよね?」

「最後の方はもっと支離滅裂なの」


 姉に言われて朝美は再び日記に目を落とした。この頃から父親の几帳面な文字が所々乱れるようになってきた。


『誰もいない家が恐ろしく病院に入ったが、まだあの曲が追いかけてくる。病院のスピーカー、誰もいないテレビ室。彼女がどこまでも追いかけてくる』


 朝美の背中に冷たいものが走った。

 姉の顔を見ると、白い顔をした姉が能面のような顔をして朝美を見つめていた。


「……彼女って誰?」


 ピンポーン。

 昼に近付いた頃、来客を知らせる玄関の呼び出し音が鳴った。


 驚いた二人は身を震わせるが、玄関の外からすみませんと呼びかける男の声が聞こえて肩の力を抜く。


 誰だろうかといぶかしみながら玄関扉を開けると、父親の生前からつき合いのある老紳士が立っていた。


「突然で申し訳ない。近くまで来たら車があったのでどなたかいるかと思って。お線香だけでもあげさせてもらえませんかね?」

「お久しぶりです。片付け途中なので随分と散らかっていますが、どうぞ」


 幼い頃からよく知った相手だ。互いにマナー違反には目を瞑ることにする。


 老紳士は仏壇に線香をあげると早々に引き上げようとしたが、お茶だけでもと引き止めて、生前の父親の話に花を咲かせた。


「涼しくなったら、ゴルフにでも行こうかと話してたところだったのに残念です」

「そうなんですね。本当に突然のことでしたから」

「入院したと連絡があった時も、大病ではないと聞いて安心してたんですがね」


「……父から連絡あった時、どんな様子でしたか?」


 父親を懐かしむ娘の質問に聞こえたのだろう。老紳士は痛ましげに目を細めながら父親との会話の内容を話して聞かせた。


 他愛のない内容が続いた後、そういえばと老紳士が言葉を途切らせた。


「あれは何だったのかな? 少し変なことを言っていたような」

「変なこと?」


「聞こえるはずのない音楽が聞こえると言っていたな。何のことかと思って聞き返したら、なんでもないと言われて」

「……なんでしょうね」


 姉妹は平静を装いながら、ちらっと視線を交わした。


「ああ、長谷部信治さんのあの曲。あれがなんとか言ってたような」


 その後すぐに老紳士は席を立つと、突然の来訪を詫びて家を立ち去った。


 片付け途中だったにも関わらず、二人はもう片付けを続ける気になれなかった。





 両親不在の自宅で、美結はリビングのソファに座って音楽番組を見ていた。さっきまではまだ明るさのあった空が、そろそろ夜を迎えようとしている。


 美結お目当てのバンドの出番はそろそろのはずだ。

 騒がしいCMが終わり、進行役のアナウンサーが次に演奏するバンドの名前を口にした。


「お、トレンドに入った!」


 スマートフォンの画面を見ながら、美結は自分でも驚くくらいの明るい声を出していた。楽しくて声を出した訳ではない。

 独り言を言う癖などないはずだが、なぜだか今日は少しの無音すら耐え難いのだ。


 その時ベランダからカタンと音が聞こえた。


 音に驚いた美結だったが、取り込み忘れた洗濯物でもあったかとカーテンを開くと、窓ガラスに美結と緑色のワンピースを着た女が映っていた。


 血走った目をした恐ろしい形相の女は、座り込んだ美結を上から見下ろしている。


――カエシテ


 そう女の口が動いたように見えた。


「きゃああああ!」


 美結は悲鳴をあげて後ずさると、カウンターキッチンの台に背をつけた。


「……いやだ……、何あれ……?」


 震える体を両手で抱きしめて、恐る恐る顔をあげたが窓ガラスにはリビングのソファだけが映っている。


「錯覚? 違う、またあの人だ」


 学校の踊り場で見たあの女。

 そう言えば級友も美結の隣にグリーンのワンピースを着た女を見たと言っていた。いつからあの女は美結の側にいたのだろうか。


「私、何かした?」


 心当たりなど全くない。いつも通り学校へ行って、普段通りの生活をしていたはずだ。

 普段と変わったところなど何もない。


「誰か! お母さん!」


 美結はリビングのテーブルにあるスマートフォンに手を伸ばすと急いで朝美へと電話をかけた。


「お母さん! 早く出て!」


 プルルル、プルルル。

 何度目かの呼び出し音が流れた後、プツッと途切れるような音が聞こえたかと思うと、別の音が聞こえ始めた。


 あの曲だ。


 美結は悲鳴をあげてスマートフォンを放り投げると、その場に座り込んで耳を塞いだ。しかし耳を押さえた指の隙間からかすかな音楽が漏れ聞こえ始める。

 音は美結の部屋の方から聞こえてきている。きっとチェストの上にあるあのラジオだろう。


 かすかに聞こえていた音楽は、やがてはっきりと歌詞が分かるほどの音量にまで上がっていった。


 しばらくすると、耳鳴りのように響いていた音楽はぴたっと音を止め、部屋の中に沈黙が戻ってきた。


 下を向いて膝を抱えていた美結はゆっくりと顔を上げると、女のいた場所を薄目で見た。しかし、カーテンの開いた窓ガラスに女の姿は映ってはいない。


 どうやら終わったようだと息を吐いて立ち上がった美結の視界の隅に、ちらりと動くものが見えた。


 恐る恐る顔の向きを変えると、リビングドアの縦長いガラス部から半分だけ覗く女の顔がこちらを見ていた。





 朝美は駅の改札を出たところで、スマートフォンに不在着信があることに気づいた。


 不在着信の相手は美結だ。


 食材の買い忘れでもあったかと折り返してみるが、呼び出し音が流れるばかりで美結は電話に出ない。


「お風呂に入ったのかしら?」


 電話を切って画面を見ると、もう一件不在着信が残っていた。相手は姉だ。


 かけ直すと姉はすぐに電話に出た。


「電車の中で気づかなかったわ。何かあった?」

『お父さんの日記を持って帰って読んでるんだけど、彼女が何者か分かったかもしれない』


「……誰?」

『盗作されて亡くなった作曲家に恋人がいたみたいなの。彼女おじいちゃんのところに来て、絶対に許さないと言った後、恋人の後を追ったと書いてあった』


 父の日記を遡ると、祖父の長谷部信治の日記を読んだことが記されていた。


 祖父の懺悔ともいえるその日記には、売れない作曲家だった祖父が事務所に契約解除をほのめかされて、知人の男から盗作をしたことが書かれていた。


 盗作した楽曲は歌詞との調和が良かったのか、思った以上に反響があり、ヒットとまではいかないが首を免れるくらいの実績を出すことができた。


 盗作された青年は、あの曲は自分を支えてくれた恋人に作った渾身の作で曲の持ち込み先も決まっている、盗作を認めて自分に返して欲しいと、何度も祖父と事務所に談判に来たが相手にされなかった。


 大きな事務所相手では勝ち目がないことを悟った青年は、自ら命を絶った。


『……お父さんがおかしな目に遭うようになったのって、おじいちゃんの日記を読んだ後かららしいの』


 朝美達は父の日記を読んで事実を知った。

 それはまるで、祖父の日記を読んだ父と同じことを繰り返しているようだ。


「私達には何もないわよね?」

『……今はね』


 姉が意味深な言葉を発したが、朝美はそのまま電話を切ると家までの道を急いだ。


 気のせいかもしれないが、背後が気になって朝美は何度も後ろを振り返っていた。


 エレベーターを降りて玄関の鍵を回したところで、涙でぐちゃぐちゃの美結が転げるように飛び出してきた。





『もしもし、姉さん。彼女は美結のところに来てた。美結にはあの曲が聞こえて、彼女は美結の前にいたの。今からそっちに行くから、お父さんの日記を読ませて! 何かヒントがあるかもしれない。このままじゃ美結が危ないの!』


 髪を乾かして脱衣所からでると、悲鳴のような朝美の声がスマートフォンの留守番電話に残されていた。


 着信の時刻からはとっくに一時間は経っている。夜の交通量ならとっくに着いている頃合いだ。


 風呂から上がったばかりで火照っていたはずの体には、全身鳥肌が立っていた。


 運転中の相手に電話をかけるのは少し躊躇したが、出られないなら美結が出るはずだと、朝美に電話をかけた。

 呼び出し音は鳴るが一向に電話には出ない。一度切って、再び朝美へと発信する。


 その時、自宅の固定電話がけたたましく鳴り始めた。急いでスマートフォンを切って電話に出ると、朝美の夫が興奮気味に何かをまくし立てている。


 朝美の夫に何度も落ち着くように言って、ようやく内容が理解できた時には受話器を床に落としていた。


『朝美と美結が、事故で亡くなりました』





 姉である自分が、何歳も離れた妹の葬儀に参列するとは思ってもいなかった。送られる側にはなると思っていたが、送る側になるとは予想だにもしなかった。


 並んだ二人の遺影を眺めていると、消沈した朝美の夫が腫らした目のまま近付いてきた。


「お義姉さん」


 声をかけられたものの、何と言っていいか分からずに互いに黙ったままだ。

 片や妻と娘を亡くし、片や妹を亡くしたのだ。親族同士でお悔やみの言葉をかけ合っても仕方がない。


 しばらくすると朝美の夫がぽつりぽつりと話を始めた。朝美の話、美結の話、堪えられず思わず涙を流すこともあった。


 少し落ち着くと、朝美の夫が気になることを話し始めた。


「事故の動画を見たのですが、どうにも納得がいかないことがあるんです」

「単独事故だったのよね?」

「はい。交差点の定点カメラには確かに朝美の車しか映っていませんでした。でもドライブレコーダーには、前に女の人がいると叫ぶ美結と朝美の声が入っていたんです」


「……ドライブレコーダーには何か映っていたの?」

「いいえ。誰もいませんでした」

「……そう」


 事故の後に訪れた美結の部屋にあった古いラジオ。同じ物を父親の部屋で見たことがあった。


 美結は形見分けとしてあのラジオをもらったのだろうが、同時に彼女の恨みも引き継いでしまった。それは本来は孫である自分と朝美が先に引き継ぐはずだったものだ。





 マナーモードにしているはずのスマートフォンから聞いたことのない呼び出し音が鳴っている。

 聞いたことはないが、聞けばそれだと分かる曲だ。


 その意味はとうに知っていた。

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