64:父と子と
山を駆け降りて都へ入ってからも、誠英は屋根の上を走りそのまま城壁まで越えていった。
魔鬼の身体能力は高いが、空を飛べるわけではない。対応に追われる兵士や逃げ惑う民も屋根上を気にしたりはしないから、悠々と誠英は駆け抜ける。
高い城壁に阻まれて外からは分からなかったが、どうやら城の内側でも魔鬼は湧いていたらしい。かなりの混乱に陥っているようで、彼方此方から悲鳴が上がっている。
ただ、この事態にこれまで暢気に構えていた皇子たちもさすがに重い腰を上げたようだ。遠目に見ただけではあるが、怪我人はともかく死人は出ていないようで清乃はホッとした。
「このまま北陽宮まで向かうぞ」
魔鬼と戦う皇子たちの位置は、同じ神通力を使う誠英には手に取るように分かるらしい。そして城内では、魔鬼だけでなく計画に加担している者たちも動いているそうだ。
魔鬼の出現を予期していた彼らは、官吏や女官、下男下女など戦えない者たちの避難誘導を行っている。緊急時の動きを知っていた誠英は、当然人のいない道も分かる。
屋根や塀の上はもちろん時には使用人用の細い路地も走ったが、おかげで三人は何の障害に遭う事もなく城内を進み、あっさりと後宮に潜り込んだ。
後宮にも魔鬼は現れているようだが、妃嬪たちはそれぞれの宮に閉じこもっているようだ。彼女たちには何の力も無いけれど、その子である皇子皇女らには幼くとも神通力があるから、それぞれの宮で対処しているらしい。
外を行き交う兵士や皇子らは圧倒的に少ないし、宦官や女官は妃嬪と共にいるから姿も見えない。
いつもは厳重に警備されていた後宮にも、こうなってしまえば簡単に入り込めたのだろう。たどり着いた北陽宮では諫莫が出迎えた。
「少爺、お待ちしておりました。……勇者も連れてきたのですか」
「彼も清乃と同じ、巻き込まれた者だったようだ。それより陽妃は?」
「奥でお待ちです」
風間がいる事に驚きながらも、諫莫はすぐに松本の元へ案内してくれた。
寵妃の住む北陽宮に詰めていた女官や宦官は、皇帝が選んだ忠誠心の厚い者たちだ。諫莫はそんな彼らを無力化し、この非常事態を利用して後宮を出る事を松本へ先に伝えてくれていたらしい。
一体どこまでが計画のうちなのだろうと、清乃は舌を巻いた。
松本は、清乃にとっては懐かしいとすら思える最奥の寝室に篭っていた。不安げにしていた顔が、清乃たちを見てパッと笑顔に変わる。
「菅原さん! 風間君も無事だったのね……!」
「はい。先生は……」
「私も動けるわ。大丈夫よ。早く帰りましょう」
相変わらず松本は痩せ細ったままで痛々しい姿ではあったけれど、日本へ戻れる事に期待が高まっているようだ。心配そうに問いかけた風間に、松本は笑みを浮かべて立ち上がる。
とはいえ再会を喜んだのも束の間。綺羅蘭たちの姿が見えない事に松本は眉根を寄せた。
「如月さんたちは一緒じゃなかったの?」
「それが……」
「あいつらは、俺と委員長を囮にして逃げたんです。それに委員長の親父さんを殺したって言ってて」
「えぇ⁉︎」
あまり時間はないからと口籠った清乃に対して、風間は端的に何があったかを話す。松本は信じられないと驚愕しつつも痛ましげに顔を歪めた。
「菅原さん、辛かったわね……」
「はい……。だからキララたちが今どこにいるのかは分からないんです。すみません」
「謝らなくていいのよ。あなたは何も悪くないんだから。でも困ったわね」
清乃は到底綺羅蘭たちを許せないし、風間も同じく怒っている。けれど教師である松本にとって、綺羅蘭たちは腐っても生徒だ。きちんと連れ帰り、罪があるのなら正しく償ってほしいと考えているようだった。
そんな松本に、誠英が呆れたようにため息を漏らした。
「お前は元の世界へ帰りたいのだろう? どこにいるかも分からぬ聖女たちを待っていては皇帝に捕まるぞ。とりあえず移動したらどうだ。奴らとて、いちいちここへ来はしないだろう」
「それもそうね……。分かったわ」
「よし。じゃあ先生の事は俺が連れて行くよ。しっかり捕まって」
「えっ、風間君⁉︎」
誠英に諭されて、松本は逡巡しつつも頷いた。
かといって、幽鬼のようにふらついてしまう松本が走れるわけもない。少々強引ながらも、松本は風間に抱き上げられた。
魔鬼たちは示し合わせたかのように城を目指している。欲望渦巻く伏魔殿ともいえる青藍城はただでさえ魔鬼が好む場所だし、皇帝一族や公卿が享楽に耽った失政の中心地でもある。
民の憎悪や苦しみ、裏切られたという神獣の怒りから生まれた魔鬼が大挙して当然だろう。国中から押し寄せる魔鬼に、守りの薄い都がそう長く保つはずもない。
だというのに、帰還の陣があるのは清乃たちが召喚された御堂だ。青藍城の一部とはいえ飛び地のようになっており、城の端にある魄祓殿よりもさらに遠い。
時が経つほどに混乱は城へと迫っているから、ここから先の移動はかなり難しくなりそうだった。
諫莫も加わり、清乃たちは少しでも早くと北陽宮を出発する。だが後宮から外朝へ出ると、城内の状況は思った以上に悪くなっていた。
「少爺、ここは私が抑えます。先に行ってください」
「すまぬ。頼んだぞ」
皇子たちの手もついに回らなくなったのか、城内へ入り込んだ魔鬼の数は増えていた。計画への協力者たちの安否も気になるのだろう。諫莫は狛犬に似た形ながらも牛のような巨体の本性を現し、額から突き出た大きな角で魔鬼を蹴散らしていく。
その勇猛な姿に、清乃たちは唖然としてしまった。
「今のうちに行くぞ」
清乃をしっかりと抱き直し、呆然としている風間に短く告げると誠英は走り出す。
目の前で見せられた変化を未だ飲み込めていないようだったが、風間はハッとした様子で足を動かし始めた。
そうして城内でも一際高い楼閣、崙雀閣の近くまで来た時だ。屋根上を走るのを諦めて地上へ降りた一行を、鋭い声が止めた。
「待て。朕の妃を連れ去るつもりか」
地を這うような低い唸り声と共に、風刃が叩きつけられる。誠英が咄嗟に弾き返したから怪我はなかったものの、一行は足を止めざるを得なかった。
風間に抱かれたまま、松本が苦々しげに顔を歪めて振り返る。
「……皇帝陛下」
「久しいな、陽妃。長らく朕を拒んでいたというに、勇者と共にいるとは。今ならまだ許す。宮へ戻れ」
「誰があんな場所に戻るものですか。私は日本へ帰るのよ!」
立ちはだかったのは、多くの兵士を引き連れた皇帝だった。誠英も近くにいるのは分かっていたものの、最短距離で駆け抜ける事を優先したため遭遇してしまったようだ。
堂々たる風格で言い渡してきた皇帝に、松本は睨み返す。まさか拒絶されるとは思わなかったのか、皇帝はほんの僅かに目を見開いたものの、すぐに表情を戻した。
「帰るなどと滅相な事を言うでない。朕にはそなたが必要だと幾度も話したであろう」
「ええ、そうね。でも私にあなたは必要ないの。あなたと違って、私は今だけ楽しめればいいわけじゃない。共に未来を望める相手が欲しいのよ!」
「勇者がそうだとでも言うつもりか」
「馬鹿な事を言わないでちょうだい! 風間君は大事な生徒よ!」
皇帝は忌々しげに風間を睨み、松本がすぐに言い返す。
痴話喧嘩かと思うような内容だが、松本に片想いをしていた風間には辛いだろう。とばっちりを受けて苦しげに顔を歪めており、清乃は思わず同情した。
松本は皇帝への愛を失くしてしまったが、皇帝はそうではなかったのだろう。
それが本当に愛なのか、ただの執着なのかは清乃には分からない。もしかしたら、ただ単にプライドを傷付けられた事が許せないのかもしれないが、とにかく諦める気はないらしい。
「祠部郎中、貴様が唆したのか」
何を言っても松本は聞かないと悟ったのか、皇帝は誠英に怒りの矛先を向けてくる。
憎々しげに睨みつけてきた皇帝に、誠英は不敵に口角を上げた。
「さあ、どうだろうな?」
「出来損ないでも温情をかけてやったというに、仇で返すか!」
「温情? そんなもの、もらった覚えはない」
松本から興味を引き離すためだろう、誠英はあえて挑発的な態度を取っている。
だがそれに返されたあまりの言葉に、清乃は胸が痛んだ。
復讐を誓うほどに、皇帝と誠英の親子関係が破綻しているのは清乃もよく知っている。これまでも誠英の事を何とも思わない冷たい人物だと思ってはいたけれど、実際に目の前で剣呑なやり取りが交わされると落ち着いてはいられない。
それでも誠英は全く気にした様子もなくて、むしろ瞳には隠しきれない憎悪が揺らめいている。それが清乃にはより辛く思えた。
復讐に駆られる想いは痛いほど分かるが、その相手が実の父親だというのはどんなものなのだろうか。きっと葛藤もあったのではないのか。
誠英にこんな顔をさせる皇帝の事が、清乃は許せなかった。
「ええい、忌々しい! 貴様なぞ、塵としてくれるわ!」
皇帝が腕を突き出すと同時、バリバリと音を立てて稲妻が誠英に襲い掛かる。先ほどの攻撃はただの牽制だったのだと思い知るほど強烈な一撃だったが、誠英は冷静に障壁を張り弾き返した。
だが皇帝は続け様に猛攻を仕掛けてくる。怒りに任せたあまりの激しさに、風間も手を出すことは出来ないようだった。
「フハハ! 逃げても無駄だ。朕に逆らえばどうなるか、その身をもって知るがいい!」
「くっ、さすがにキツイな……」
「誠英様、私を下ろして戦ってください!」
「馬鹿を言うな。必ず守るから大人しくしていろ」
誠英はどうにかいなしているものの、清乃を抱えているからか反撃に転じるのは難しいらしい。下ろしてもらえればいいのだが、そんな暇も与えてはもらえない。どこまでも足手まといだと清乃は唇を噛んだ。
『そろそろ潮時よな。皇子よ、許せ』
そこへ不意に響いた声と共に、皇帝からの攻撃が止んだ。足元を巨大な影が覆ったのに気付いて顔を上げれば、崙雀閣が――いや、崙雀閣並に巨大な龍が清乃たちを見下ろしていた。
「黄龍……貴様が、なぜ」
『なに、簡単なことよ。そこの皇子に救ってもらっただけのこと』
「誠英! 貴様ァ!」
かつて不意打ちでどうにか封印出来た相手だ。正面からでは黄龍に手を出せないと皇帝も分かっているのだろう。
代わりに誠英へ再び攻撃を仕掛けようと皇帝は手をかざすが、先ほどまでと違って今度は何も起きはしなかった。皇帝が愕然として両手を見つめ、皇帝に付き従っていた兵たちに動揺が走る。
「なぜ、神通力が」
『その力は我が与えたもの。裏切り者にいつまでも使わせる道理はない。出来損ないは消すのだったか? ならばお前はもう要らぬなぁ』
「ヒッ、待……」
黄龍が巨大な顎を開けて、皇帝を一飲みにしてしまった。兵士たちが悲鳴を上げて逃げ去って行く。
清乃たちは唖然としてそれを見るしかなかったが、誠英だけはこうなる事を知っていたかのように静かに事の成り行きを見つめていた。
『すまぬな。其方の手で復讐を果たせてやれなんだ』
「構わない。清乃を守ることの方が私には大事だ」
『ならば疾く行くが良い』
「黄龍よ、感謝する」
どうやら誠英は黄龍を解放した際、手出し無用と約束を取り付けていたようだ。だが黄龍は、危機を感じ取って出てきてくれたらしい。
誠英は風間に改めて声をかけ、走り出す。その腕の中で、清乃はバクバクと鼓動が鳴るのを感じていた。
(誠英様は、復讐より私を取ってくれた……)
国を滅ぼしてでも、父親である皇帝に復讐しようと決めていた誠英が、最後の最後でそれを手放した。それは腕の中にいる清乃に、ほんの僅かでも傷を付けないためだ。
それがどれだけ心苦しい決断なのか、清乃にはよく分かっている。それほどまでに愛してもらえている事に、清乃はひっそりと涙を滲ませた。




