60:救いの手
威嚇するかのようなケーンという甲高い吠え声に、清乃は反射的に目を閉じた。断続的に生じる閃光のような鮮烈な光が瞼越しに視界を埋め尽くし、ブワリと動いた風に体が揺れて尻餅をつく。
何が起きたのか分からないが、いつまで経っても恐れていた痛みも死も訪れない。不思議に思って瞳を開けば、眼前には魔鬼の群れではなく美しく輝く銀色の毛並みがあった。
「清乃、無事か」
ゆらりと揺れた尻尾を辿り目線を上げると、そこには額に汗を滲ませた誠英がいた。心配そうに見下ろしてくる双眼に、清乃はホロリと涙を零した。
「誠英様……」
「すまない、遅くなった。間に合って良かった」
「誠英様……誠英様……っ!」
差し出された手に縋り付くようにして、清乃は泣いた。
夢ではないか、実は死んだのではと思ったけれど、抱きしめてくれる腕は力強く温かい。なぜここに誠英がいるのかという疑問はあるが、宥めるように背を撫でる尻尾は柔らかく、足元に感じる固く冷たい土の感触との違いは鮮明で、間違いなく本物の誠英なのだと感じられた。
先ほどの光は、誠英が神通力を使って魔鬼を倒した時のものだった。今は周囲に結界も張ったため、安全の確保も出来ている。
ひとしきり泣いてようやく清乃が落ち着くと、誠英はホッとした様子で微笑んだ。
「怪我はなさそうだな。護符があるとはいえ肝が冷えた」
「護符……?」
「これだけの魔鬼が相手では気休めにしかならなかったろうが、一応靴にな」
旅の間清乃が着ていたのは、綺羅蘭の元で渡された下級女官の服で、靴もそれ用の布靴だった。けれど馬車での旅だけならまだしも、そんな柔らかい靴では山登りなど出来ない。
そのため靴だけは、燦景から渡された丈夫な革靴を履いていたのだが、どうやらそれは誠英が用意していたものらしい。いざという時には清乃を守れるよう、護符を縫い込んであったそうだ。靴であれば万が一綺羅蘭に気付かれても奪われないだろうと、考えてくれたようだった。
「呂燦景と別行動になってると知って、どれだけ心配したか。よもやこんな場所にいるとは思わなかったが、見つけられて僥倖だった。朱雀の加護もあったようだが、勇者にも感謝せねばなるまいな」
「そうだ、風間くん……!」
ハッとして顔を上げようとした清乃の動きを、誠英はグッと抱きしめて封じてきた。
「見ない方がいい。刺激が強すぎる」
「それじゃ、やっぱり風間くんは……」
「残念だけど、息はないよ」
どうやら燦景も無事だったらしく、いつの間にかそばに駆けつけていたようだった。今は風間のそばにいるのだろう、少し離れた場所から声が響く。
見せられないほど酷い死に目だったのだと分かり、清乃は自分のせいだと、風間を死なせてしまったと再び泣き出した。
「風間くんは悪い人じゃなかったんです! ただ日本に帰りたくて、それだけのために色んな事を我慢して……。なのに、私なんかを助けるために死んじゃった……!」
「清乃……それほど勇者を救いたいのか」
「助けたかった……! 私にも力があれば良かったのに、でも何も出来なくて、私は……!」
誠英は切なげに顔を歪めつつ、泣きじゃくる清乃の肩を宥めるようにさすっていたが、ならばと清乃の耳元で囁いた。
「勇者を救えるのなら、どんな結果になっても構わぬか。清乃」
「助けられるなら助けたいです! でもそんなのは無理で……」
「無理ではない。今ならな」
「……本当ですか?」
「ああ。少し触れるぞ」
しゃくり上げながらも見上げた清乃の帯を、誠英は突然緩めだした。何をするのかと驚きつつも、清乃は慌てて肌蹴ないように衣を抑える。
すると衣と帯の隙間から、真っ赤な羽が出てきた。なぜこんな大きなものに今まで気付かなかったのだろう。手のひらよりも大きな一枚羽は、不思議と炎のように揺らめいていた。
「まさかそれって、朱雀の羽ですか……?」
「そうだ。戦いをやめるよう話しかけたのだろう? よほど気に入られたようだな」
朱雀が火口に落ちる時、火の粉のようなものがたくさん降っていたが、そのうちの一つがこの羽だったのだろうか。いつの間にか入り込んでいたようだ。
たった一枚だとしても神獣である朱雀の羽だ。そこに宿る神力を使えば、奇跡も起こせるという。
「これを使えば勇者も蘇るはずだ」
清乃が服を直している間に、誠英はその羽を手に風間の元へ向かった。損傷の激しい風間の体は、燦景がそっと仰向けに横たわらせていた。
誠英が風間の胸元に朱雀の羽を置き、両手をかざす。すると血の海に横たわる風間の身体が、真っ赤な炎に包まれた。
「風間くん!」
「大丈夫だ。もう少し待て」
朱雀の神力が炎の形を取って現れたのだろう。程なくして炎が消えると風間の体は完全に元に戻っていた。服こそボロボロで血塗れだが、どこにも傷は見当たらない。
まだ目は覚ましていないが、その胸元は僅かに上下していてきちんと呼吸しているのが分かる。恐る恐る首元に触れてみれば、きちんと脈も感じられた。清乃はホッとしてへたり込んだ。
「良かった、風間くん。良かった……」
「目覚めるまでは、まだ時間がかかるだろう。清乃も休んだ方がいい。少し移動するぞ」
「それなら一度山に戻ろう。噴火は止まったみたいだし、魔鬼もあらかた狩ったから向こうの方が安全だ。それにあそこには、洞穴もあるから」
清乃はひょいと誠英に横抱きにされて、風間は燦景が荷物のように肩に担いだ。妖怪の力なのか、そのまま二人は驚くような速度で神山へ駆け戻る。
山腹にある洞穴の奥に風間を寝かせると、清乃も休むように言われたが到底そんな気にはなれない。風間が生き返ったのは確かだけれど、無事に目を覚ますまでは気にかかるし、あまりに色んな事があり過ぎた。
ソワソワしている清乃を見かねたのか、誠英が清乃を抱き込むようにして腰を下ろす。尻尾と戯れていた時にはよくしていた事だけれど、この場には燦景もいるから少々気恥ずかしい。
とはいえ、しばらくぶりに背中に感じる慣れた体温に、清乃は自然と詰めていた息を吐いた。
「そういえば、誠英様はどうやってここへ?」
「結界が解けたからな。召喚の応用で飛んできた」
緊張が解れれば、流していた事が気にかかる。素朴な疑問を投げてみると、意外な答えが返ってきた。
異界から人を呼べる召喚術を少し変えれば、テレポーテーションのような事も出来るらしい。ただ、召喚ほどではないにせよかなりの力が必要となるから、そう簡単に使えるものではないようだ。
今回は諫莫に送ってもらったのだと誠英は話した。
「ここへ来て良かったんですか。誠英様には、もっとやらなければならないことがあったんじゃ」
「最低限必要なことは済ませてきた。それに、清乃の安全に優るものはない。お前がいなければ心配で何も手につかぬよ。……来るのが遅くなってすまなかったな。旅に出るのも止められなかった」
「いいんです。来てくれただけで、嬉しいですから」
誠英たちの計画の全てを知っているわけではないが、四神を倒した後は皇帝をどうにかしないといけないはずで、本来なら誠英がこんな所にいていいわけがない。
それでも清乃を助けに来てくれたのだ。その気持ちが何より嬉しかった。
笑みを零した清乃を見て、安心したのだろう。誠英は清乃の腹に尻尾を巻き付け、問いかけてきた。
「私も聞いていいか」
「はい、何ですか」
「聖女たちはどうしたのだ。よもや、お前たちを守って先に倒れたわけであるまい?」
綺羅蘭たちの事を思い出すと、一度は落ち着いたはずの憎悪が再び込み上がってくる。その影響はどうしても出てしまうようで、近場で魔鬼が湧き出した気配に誠英と燦景が驚いた。
「清乃……。話すのが辛いなら、聞かぬ方がいいか?」
「いいえ。誠英様にも聞いてもらいたいです。こんなの私一人じゃ、抱え切れない……!」
洞穴には誠英が結界を張ってくれているから、魔鬼に襲われる心配はもうない。清乃は涙を滲ませながら、父親が殺されていた事を打ち明けた。
「許せなくて、絶対に許せなくて! でも、私にはどうにも出来なくて、結局風間くんも巻き込んでしまって……。私にもっと力があったら良かったのに、私は……!」
「清乃は悪くない。そう自分を責めるな」
「違う。違うんです、誠英様。私は弱くて、色んなことを諦めてきたんです。もっと出来ることだって、あったはずだった……!」
グルグルと胸の内を巡る想いが、涙となって溢れてくる。
後悔なんていくらしても足りない。この八年は何だったのかと、思い出す事全てが苦しい。
なぜあの時、清乃は風邪を引いてしまったのか。父に看病させなければ、叔父に運転させる事もなく死ぬ事もなかったのではないか。清乃も法事に同行していたら、叔父の凶行だって止められたかもしれない。
もっと早くに気づいていれば、敵討ちだって出来ただろう。叔母や綺羅蘭に虐げられても恩があるからと我慢せず、さっさと公的機関に逃げ込んでいたら叔父たちを裁けただろうか。
今からでも遅くない、まだ八年しか経っていないのだから時効には至っていない。風間も言っていたじゃないか。帰って父の無念を晴らすんだろう、と。そのために風間は命を懸けてくれた。そこまでして清乃を守ってくれたのだ。
今なら清乃はいくらでも復讐の鬼になれる。この世界では不思議な力を持つ綺羅蘭だって、日本に戻ればただの人だ。彼女たちを断罪する事は清乃にだって出来るはずだ。
けれど帰ったら誠英に会えない。その事実もまた清乃を苦しめる。
本当なら、誠英の元へ帰れたら答えを言うつもりだった。ずっと一緒にいたいと、元の世界には帰らないというつもりだったし、今だってその気持ちは変わっていない。
けれど、それを告げる勇気は持てなくなってしまった。父の死の真実を、まだ完全には飲み込めていないから。
「ごめんなさい。ごめんなさい……!」
「清乃……」
心の内を全て言葉にしたわけではないから、何を謝られているのか誠英には分からないだろう。それでも清乃は、それしか言えなかった。
憎悪は止めどなく溢れてくるし、復讐にも心は駆られる。けれど清乃を抱きしめて涙を拭ってくれる優しい手を、清乃はもう失いたくない。
好きなのだ、誠英のことが。どんなに綺羅蘭たちが憎くても、それより大切にしたい想いがある。
過去の断罪ではなく、未来を選ぶ清乃を死んだ父は許してくれるだろうか。まだもう少しだけ返事を待たせてしまう事を、誠英は許してくれるだろうか。命を賭して清乃を守ってくれた風間は、清乃の決断を許してくれるだろうか。
今だけは、包み込んでくれる誠英の優しさに縋っていたい。ちゃんと最後には、終わりのない憎しみに決着を付けて誠英を選ぶから、と。




