5:皇帝の提案
久しぶりにお腹いっぱい食べて眠れたからか、それとも信じられる大人を見つける事が出来たからだろうか。異世界に来てしまうというとんでもない目にあったというのに、翌朝の清乃の目覚めはこの数年で一番気持ちの良いものとなった。
苦労を覚悟していた着替えも、松本がいてくれたおかげで一人で悩まずに済んだ。清乃を放置して松本ばかり構う女官たちに松本は物申してくれたけれど、清乃としては自力で着替えられるようになりたいから、着方を見せてもらえるだけで充分だった。
そうして朝食は、部屋を移って取ることになった。昨夜はあくまでも夜食だから寝室で取ったが、そもそも北陽宮の部屋は用途毎に分けられているらしい。
朝食を食べる部屋は朝日が入りやすい作りになっていて、照明に頼らずとも明るく爽やかだ。部屋の中央に置かれた丸テーブルに用意されたのは海鮮味の中華粥によく似た料理で、前夜遅い時間にたくさん食べた清乃もペロリと平らげた。
昨夜出されたお茶は烏龍茶に似た茶色のお茶だったけれど、今回食後に出されたのは意外にも緑茶だった。風味は日本の物とは少し違うが、何だかホッとする。
料理が口に合う世界で良かった。何より粥が出てきたのだ。米に似た食材があるというのが嬉しい。醤油と同じような調味料もあったし、清乃が望んでも無理だろうが松本が食べたいと言えば厨房を借りて日本食に近い料理も作らせてもらえるかもしれない。
そんな事をのんびりと考えていたけれど、穏やかな朝は唐突な皇帝の訪れによって打ち切られた。
「どうだ、ゆっくり休めたか」
女官たちが両手を胸の前で組み頭を下げる拱手礼を始めるから何事かと思いきや、皇帝が部屋へ入ってきた。松本が立ち上がったのを見て、清乃も慌てて席を立つ。
昨日は遠目に見ただけだが、近くで見るとより一層迫力が増して見える。皇帝の威厳がそう感じさせるのだろう。この国の礼儀作法なんて何一つ知らないけれど、清乃は緊張して頭を下げた。
けれど皇帝は清乃を一瞥もしなかった。ただ松本に柔和な笑みを向けていた。
「はい、おかげさまで。素敵なお部屋をお貸し下さりありがとうございました」
「そうか、気に入ったか。何か不足があれば女官に遠慮なく申し付けるが良い」
「ありがとうございます」
堂々と椅子に腰を下ろした皇帝が松本に座るよう促すと、松本はあろう事か清乃にまで座るように言ってきた。
完全無視をされているのだからどう考えても清乃は邪魔者だけれど、松本は皇帝にまで許可を取り付けてしまったから仕方なしに再び席に戻る。ただでさえ緊張しているのに、同席させられるなんて心臓が飛び出そうだ。
それでも幸か不幸か、やはり皇帝は清乃を目に入れる事はしなかった。
「今日はそなたに伝えたい事があってな。涼子、そなたに陽妃の位を与えることになった」
「えっ……。妃って、私たちの世界では王や王子の妻を指す言葉なんですが、合ってますか?」
「その通りだ。朕の妻の一人という意味だ。これもそなたを守るために必要なこと。驚いただろうが、受け入れてほしい」
思いがけない話に、松本は当然ながら清乃も驚いた。
清乃たちはてっきり北陽宮とは迎賓館のような客人をもてなす館なのだと考えていたが、どうやら皇帝の妃たちが住まう後宮の一部だったらしい。
なるほど、それなら城の奥深くにある事も納得だ。案内してきたのが宦官だった事や、宮内に入ってからは女官しか見かけないのもそういった理由からだったのだ。
皇帝には現在、皇后の他に二十名の妃嬪と十名の皇子、十五名の皇女がいるという。その中でも陽妃というのは上から五番目となる妃の位だそうで、この二十年ほど空位となっていたため、松本を据えるにはちょうど良いらしい。
「城の中でも後宮は特に警備が手厚い。異界から来たそなたを利用しようとする輩が現れないとは言い切れない。ここに置くためには、名目だけでも朕の妃となる必要があるのだ」
異世界人で珍しいというのもあるけれど、不思議な力を持つ綺羅蘭たちとの繋がりもある。だというのに、松本と清乃は何の力も持たない。
そんな二人を支配下に置けば、綺羅蘭たちの事も好きに使えると考える不届き者が出るかもしれない。その点、後宮にいれば安全なのだと皇帝は話した。
「でも、そんな。私が妃だなんて」
「形式的なものだ。何も本当に妃としての務めなど求めはしない。無理強いもしないと約束する。ゆえに涼子、朕にそなたを守らせてくれまいか」
皇帝はそっと松本の手を取ると、真摯な眼差しでじっと見つめた。松本の頬がポッと赤く染まる。
皇帝は中年ではあるが美丈夫だ。顔立ちは厳ついが整っていて、鍛えているのか体つきもガッシリしている。そんな大人の魅力溢れる男に手を握られたのだから、松本の反応も致し方ないのかもしれない。
「あの、それは私だけですか? 菅原さんはまだ未成年なので、名目上でも妻というのはちょっと……」
「そなただけで充分だ。陽妃となれば、そなたの名でその者も守ることは出来よう」
「それなら……お受けします」
逡巡しながらも最終的に頷いた松本に、皇帝は満足げに微笑んだ。
けれど清乃は安心出来なかった。皇帝が松本を見る目には、ただの優しさではなく下心があるように感じられたからだ。
清乃自身が向けられた事はないけれど、可愛らしくて人気のある綺羅蘭はよくああいう目を年上の男子から向けられていたように思う。形式だけなんて言ってるけれど、本当にそうなのかは疑わしい。
それにこの場には兵士も槍もないけれど、身の安全を盾にして迫ったようなものではないか。昨日の脅しと何が違うというのだろう。松本が頷いたのは、自分の力で清乃を守れるようになるからというのが大きいのではないのか。
帰るまでの期間限定とはいえ、自分がいたために松本に無理をさせてしまったのではないかと、清乃は気が気ではなかった。
「先生、本当に良かったんですか?」
皇帝が帰った後、清乃は恐る恐る松本に問いかけた。すると松本は、苦笑して肩をすくめた。
「いいのよ。確かに私が妃になれば、誰にも手出しされなくなるもの。それにあんな風に私たちのことを考えてもらえるなんて、ありがたいじゃない」
「無理してませんか? 私のことなら気にしなくても」
「菅原さんのためだけじゃないから、本当に大丈夫よ。それに全然悪い気はしなかったの。あんな年上なんて興味はなかったけれど、なんだかドキドキしちゃったわ」
これが清乃を心配させないようにという、優しさからの言葉だとはもちろん分かっている。それでもクスリと笑った松本の表情に嫌悪はないから、清乃はようやくホッとした。
とはいえ松本が不本意な目に合わないよう、気をつけた方がいいだろう。何せ相手は皇帝で、ここは後宮だ。何をしても許される相手なのだから、警戒するに越した事はない。
そう考えれば、同じ部屋で良かったのかもしれないと思う。勉強ばかりしていた清乃も、奔放な綺羅蘭のせいで男女間の事について何となくは知っている。清乃が一緒に寝ていれば、松本に無理強いなんて出来ないだろう。
清乃はそう気を引き締めていたけれど、これはそんな簡単な事ではないのだと、その日のうちに思い知る事になった。




