46:懊悩
切り所が決められず、今話も長めです。
この所、更新遅れていてごめんなさい。
終業を告げる鐘が鳴り、ぼんやりと考え事に耽っていた清乃はのろのろと腰を上げた。
ずいぶん長い時間、一人きりで書庫に残っていたというのに、どんなに気持ちを整理しようと思っても結局落ち着くことは出来なかった。
きっと本当なら、誠英の言っていた通りもっと怖がるべきなのだろうし、復讐に巻き込んだのかと怒ってもいい事なのだと思う。
けれど話を聞き始めた最初こそ不気味に感じていたはずなのに、誠英が真っ直ぐに語るものだから恐ろしさは消えてしまって。代わりに胸に湧いたのは紛れもない喜びだった。
誠英と恋人になり、これから先も共にいられる未来を渇望していたとはいえ、あまりに恋に溺れすぎではないのか。
異世界の人間を使ってでも国を滅ぼそうという考えを喜んで受け入れるなんて、どう考えても普通じゃない自身の心の方がよほど怖いと清乃は思う。
だって、魔鬼や四神相手に戦わされているのは血の繋がった従妹なのだ。それなのに、綺羅蘭が騙されて良いように動かされてる事にも大して怒りを感じられない。仲良くないとはいえ、人としてそれはどうなのだろう。
もしこれが、清乃自身が戦っていたらまた違っていたのだろうか。たらればで考えても仕方ない事だとは思うけれど、こんなにも薄情だったろうかと自己嫌悪に陥る。
誠英の復讐についてもそうだ。皇帝に恨みがあるとしても、復讐なんてとんでもないと止めるべきなのかもしれない。でもそうは思わない所か、皇帝本人さえどうにかすればいいのではと過ぎった疑問すら誠英がそうすると決めたのだから何か意味があるのではと考え直してしまう。
他人事に感じてある種どうでもいいと思っているのかもしれない。それは清乃がこの国の人間ではないからなのか。元の世界があまりに平和だったから、それがどれだけ酷い事なのか実感が湧かないのだろうか。
いっそ悩まずに、ただ誠英のそばにいればいいと決めてしまえば良いのかもしれないけれど、それはそれで良心が咎めてくるから出来ない。
常識や良識と清乃の感情が相反していて整合性が取れないから、いくら考えても堂々巡りなのだ。
とはいえいつまでも考え続けるわけにもいかないから、広げた資料を片付け明かりも消すと書庫にしっかり鍵をかけ階段を降りた。八階にいたからただでさえ階段は長いけれど、足取りが重いからかいつもより地上が遠く感じられる。
うっかり足を滑らせないように気をつけつつたどり着いた一階では、官吏たちが帰り支度を進めていた。今日も諫莫は忙しいようで朝から一度も姿を見ていないが、この時間もまだ戻ってきていないようだ。あんな話を聞いた後ではおかしな顔をしてしまいそうだったから良かったと思う。
それでも顔見知りになった官吏に書庫の鍵を返却する時は少々緊張した。
城に妖怪はたくさんいるし、人間の仲間もいると誠英は言っていた。目の前の人はどうなのかと、視界に映る官吏達についてつい考えてしまう。
一目見ただけでは当然どうなのか分からないけれど、何となく思うのは誠英を毛嫌いしていた人たちは人間なのだろうし、仲間でもないのだろうなという事だ。
では、それ以外の人たちはどうなのだろうか。全く事情を知らない人の中で、誠英に好意的な人はどのぐらいいるのだろう? もし優しい人たちが実はみんな妖怪だったら……と思うと、誠英の孤独がより浮き彫りになるような気がして、そうではない事を願った。
「遅い。もう帰ったかと思って心配した」
「呂燦景……ごめんね」
色々と考えながら外へ出れば、燦景が待っていた。今も毎日、帰りは燦景が送ってくれている。いつもならそれなりに会話をするけれど、さすがに何も話す気にはなれなくて、いつもより少し距離を置いて燦景の後を歩いた。
(燦景はどっちなんだろう)
燦景は魄祓殿への出入りを許可されているし、清乃の事も誠英自ら頼んでいる。かなり信用されているから、誠英の計画と全くの無関係という事はないだろう。
そうなると、妖怪か人間の協力者のどちらかという事になる。清乃より少し高いその背をじっと見つめてみるけれど、どちらなのか全く予想も出来ない。
直接尋ねてしまえばいいのかもしれないけれど、実は何も知らなかったなんて事になったら目も当てられない。
計画の邪魔をするつもりならまだしも、清乃はまだどうしたらいいのか何も決められていないのだから。
そんな事を考えているうちに、あっという間に魄祓殿へたどり着いた。ありがとうと礼を言って屋敷へ入ろうする清乃に、燦景は「そういえば」と口を開いた。
「郎中は今夜帰ってこないから、食事はいらないって。明日嘉栄宮に行く時も私が送る事になってるから。迎えに来るから今度は遅れないように準備しておいて」
あんな話を聞いた後だ。誠英とどんな顔で会えばいいのかも分からないし、ちょうどいいのかもしれないけれど、清乃が魄祓殿に来てから誠英は一度も外泊なんてした事はなかった。
避けられているのかと、清乃は思わず顔を曇らせる。すると燦景は呆れたようにため息を漏らした。
「何変な顔してるのさ。あんたがゆっくり考えられるようにって、郎中は気を使ってるんだよ」
「え……。誠英様から何か聞いたの?」
「全部あんたに話すつもりだってのは聞いてたよ。今日だとは思わなかったけど、郎中もあんたも分かりやすいから。郎中が隠してた巻物、見つけたんでしょ?」
「うん……」
という事はつまり、燦景は誠英の計画を知っているということだ。それなら気になる事は聞いてしまえばいい。
「呂燦景は、その……人間なんだよね?」
「なんだ。大哥は、そこまでは教えてないのか」
さてどう切り出そうかと迷いながら口にすれば、燦景は「ここじゃ言えない」と清乃の手を引いて屋敷へ入っていった。
清乃が女官として来る前は、燦景が時折ここを訪れ誠英の世話をしていたから屋敷内も熟知している。
勝手知ったる燦景が真っ直ぐに向かったのは、清乃がいつも誠英の尻尾を触らせてもらっていた中庭の見える居室だ。当然外から見られる心配もない場所で、燦景は清乃を長椅子に座らせると中庭へ降り立った。
「これが私の正体だよ」
陽がほぼ沈み、夜闇が空を支配し始める逢魔時。まだ明かりも灯していない暗がりで燦景がくるりと宙返りすると、年若い官吏の姿はかき消え、代わりに金眼の大柄な黒猫が姿を現した。
「呂燦景って、猫だったの……?」
「そう。私は金華猫という猫の妖怪だ。どう? 恐ろしいだろう?」
「か、可愛い!」
「はぁ? あんた、喧嘩売ってんの?」
見た感じ、一番近いのは山猫だろうか。三角耳の頭部は虎のように毛の流れに癖があるけれど、体つきは豹に似ている。大きな口には鋭い牙が生えており、金の瞳は獰猛な光を宿している。
けれど、清乃からすればどこからどう見てもただの大きな猫だった。
「尻尾は一本だけなんだね。爪はちょっと長めかな」
「こら、勝手に触ろうとするな! 私には毒もあるんだぞ!」
「毒⁉︎」
思わず駆け寄って観察を始めた清乃だったけれど、尻尾を逆立てた燦景の言葉に動きを止めた。燦景は「調子が狂う」とぼやきながら、再び宙返りをして今度は下女の姿になった。
「え……それって変身してたの?」
「まあね。前は男だって言ったけどさ。本当のことを言えば、私は男でも女でもないんだよ。人型はどっちにもなれるし、元の姿は両性だし」
何らかの術でも使ったようで、燦景が手を振るのと同時に吊り行燈に火が灯った。
姿を変えても異能を見せても全く警戒心を抱かない清乃に苛立ったのか、燦景はいかに自分が恐ろしい妖怪なのかを語ってきかせた。
金華猫は人を惑わす妖怪で、男にも女にも変化出来るそうだ。年齢も体型も身長も何もかも思いのままで、近寄りたい相手の好みの姿を取り、油断させた所で毒で殺したりもするらしい。
その特性を活かして、燦景は計画のために宮廷の高官に取り入って情報を得たり流したり、場合によっては排除したりと暗躍していたのだそうだ。
「じゃあ礼部に移ったのも」
「詳しく知りたいなら教えてあげるよ。たとえば、あんたに余計な事を言った礼部侍郎がどうなったのかとか」
「……ううん、いい。遠慮しておく」
クスクスと笑いながら言う燦景は今は妖艶な美女になっている。この姿で礼部侍郎に近づいたのかもしれない。
両性というのは流石に予想外だったけれど、元々、女装も似合う男の人だと思っていたから、それほど違和感は感じない。妖怪なのだし、そういうものがいてもおかしくないのだろうと清乃は思う。
だから燦景の話を聞いても怖いとは思わなかったのだけれど。情報を引き出すにしろ毒を飲ませるにしろ、詳しい話なんて碌でもない事なのだから聞きたいとは思えない。
苦笑して頭を振った清乃の姿に溜飲が下がったのか、燦景も長椅子に腰を下ろすと優雅に足を組んだ。
「それで? 大哥から話を聞いてどう思ったわけ? 何か悩んでる割には、怖がってるようにも怒ってるようにも見えないけど」
「それが……よく分からなくて」
誠英が恋人になった今、清乃にとって燦景はこの世界で唯一といえる友人だ。計画も知っているのだし、他に相談出来る相手もいない。誠英には言えなかった複雑な気持ちを吐露しても良いかなと思い、清乃は訥々と話し始めた。
「真面目なあんたらしいね。巻き込まれただけなんだから、そんな深く考えなくたっていいのに。止めたいと思えないからって、自分を責めるなんて馬鹿だよ」
「そうだよね……」
「私は人間じゃないしこの国を滅ぼす側だし。あんたが悩もうがどうしようが、やる事は変わりないんだけどさ。大哥のためにも、このぐらいは教えておいてあげようか」
燦景は呆れたように言ったけれど、その声音は穏やかなものだった。
「あんたはさ、罪悪感なんて感じる必要はないんだ。国を滅ぼすのは、大哥というより員外郎の願いだしね」
「そうなの?」
「睿諫莫は獬豸だからさ。敵討ちってだけじゃなく、歪んでるこの国の民も放置出来ないんだよ。都ぐらいしか知らない大哥は、どちらかといえば民の事なんてどうでもいいと思ってるから」
神獣たちが作り上げた龍脈のおかげで、瑞雲国は長らく平和を謳歌してきた。しかしそれがあまりにも長過ぎたから、何の苦労もない日々が当たり前になってしまった人々は感謝を忘れてしまったという。
限りを知らずより貪欲に富を集めようとする者が出始めて、皆が平等に幸せだった桃源郷のような国は少しずつ変わっていった。声の大きい者、力の強い者が上に立ち、弱者は虐げられていく。それは人に留まらず、野山の獣や迷い込んだ妖怪たちにも向けられていった。
「いくら九尾狐の姫が捕まって殺されたっていってもさ、これだけ多くの妖怪が一国を滅ぼすのに手を貸すなんて事は普通しないんだよ。それだけこの国が問題視されてるんだ」
結界の外側、瑞雲国以外の国々では長らく戦乱の世が続いていたそうだけれど、それも昔の話だ。ある程度国の形がまとまった後、人だけでなく妖怪も共存して繁栄している。
その国々から度々、弱い妖怪たちの行方が分からなくなっていた。誠英の母の一件でそれにも瑞雲国が関わっていたと分かったらしい。
正義感の強い諫莫は当然それを良しとはせず、周辺各国に伝えた。その結果、結界の解除と瑞雲国の解体は他の国々からも望まれる事になった。
「放っておいても魔鬼はどんどん増え続ける。そうなったら、性根の悪い民は我先にと逃げ出して、他の国で問題を起こすようになる。いずれ魔鬼も溢れかえって、周りの国も一つや二つ滅ぼされるかもしれない。荒療治でも先に対策したほうがいいと思わない?」
守りたいのは妖怪だけではないのだと燦景は話す。最下層でも生きていられた人々も龍脈が乱れ始めてからは次々と倒れたし、善良な民も蓄えを奪われて命を落としている。彼らを救うためにも国を倒すのだ、と。
「四神のことだって、殺すわけじゃない。力を弱めてこちらの話を聞いてもらうだけなんだ」
現皇帝は、初代皇帝から続く黄龍との盟約を違えた。本来、それをもって四神も解放されるはずで、何も知らずに盟約に縛られているのは妖怪の常識ではあり得ない事態らしい。
これまで綺羅蘭たちが倒した三体の神獣も、死んだわけではなく弱体化して眠っているだけだという。
「だからあんたは、大哥がしようとしている事がこの国にとって正しいかどうかなんて気にしなくていい。あんたがどうしたいのかを考えな」
燦景は一通り話を終えると「考えすぎて明日遅刻しないでよ」と言い残して帰っていった。清乃は一人、ぼんやりと大きな月を眺める。
燦景は、誠英の計画に協力している妖怪だ。だからその言い分は偏っているのだろうし、納得出来そうな理由をどんなに並べても結局はこの国を他国に明け渡すという話になるわけで、それが正しいのかどうか清乃には判断がつかない。
だから燦景の言うように、何が正しいか考えるのは無意味なのだろう。そして自分がどうしたいのかを考えるのは大事だと思えた。
(私は、誠英様と一緒にいたい。ただ……)
気になるのは松本の事だ。松本は皇帝を愛しているし、もしかしたらこちらに残る事も考えているかもしれない。このまま黙っていていいものなのかと悩むけれど、話してしまえば誠英の計画が皇帝に伝わってしまうかもしれない。
また新しく出てきた悩みに、清乃はため息を漏らした。




