35:出来る事は
誠英が語ってくれた話は、清乃にとって衝撃的なものだった。
あの牢格子の部屋に閉じ込められていたのは誠英の母だった。残されていた暴れたような跡は、彼女が必死に付けたものだと分かって胸が痛む。
落ちていた錆びた首輪や鎖もきっと使われていたのだろう。獣のように繋がれてあんな場所に閉じ込められるなんて、どれだけ辛かっただろうか。妖怪の力がどんなものか清乃には分からないけれど、意思に反して封じられてしまうなんて悔しかったに違いない。
そんな誠英の母を皇帝が見初めて妃にしたと教えてくれたけれど、誠英は終始言葉を選んでいる様子だった。
今、松本を大事にしているように、若かりし日の皇帝も誠英の母に真摯に接したと思いたい。しかし仮にそうだったとしても、喜んで受け入れたわけではないのではないか。もし無理強いされたのだとしたらと思うと、同じ女として寒気が走った。
けれど誠英の母に同情する以上に、そんな状況で生まれた誠英の事を思うと清乃は悲しくなった。
母を早くに亡くした事や周囲から避けられ孤独である事など、誠英は清乃と似ている部分があると思ったけれど、どう考えても清乃よりずっと辛い状況だったと思うのだ。
清乃は亡くなった母を写真でしか知らないけれど、父と一緒に写る姿はどれも幸せそうなものだった。清乃は母に望まれて生まれてきたと自信を持って言えるし、父は生きている間、清乃を愛情をかけて育ててくれた。
でも誠英は、望まれずに生まれてきたのかもしれない。そして父親からも愛情を一切受ける事なく、幼いうちからたった一人でここに移された。それがどれだけの孤独だったか、清乃には想像も出来ない。
仕事を頑張って、なんて気軽に言うのではなかったと清乃は悔やむ。誠英からすれば母親をそんな目に合わせたこの国や、我が子を放置し続けた皇帝のために働くなんて、やりたくなくて当然だろう。
皇子の誠英に他の仕事なんて選べないだろうし、この屋敷に住み続ける事だって拒否出来ないのだ。いつも楽しげに笑っている胸の内には、大きな葛藤があるはずだ。
それなのに誠英は笑って何でもない事のように淡々と話す。もしかしたら、感情を塞がないと辛い日々を乗り越えられなかったのかもしれない。清乃だってそうしてやり過ごす時もあるけれど、誠英の場合は清乃の比ではないはずだ。
牢格子の部屋に入れられなくてもこの屋敷そのものに軟禁されていたようなものだろうし、それで良かったなんて思えるはずもなかった。
誠英は、不躾な願いだったにも関わらず尻尾を快く撫でさせてくれたし、辛く悲しい過去なんて話したくもなかったろうに教えてくれた。
それはきっと共に暮らす清乃に不安を与えないためだ。全てを語ってくれたわけではないと思うけれど、それでも充分だった。本当に優しい人だと思う。
それなのに、いつまで誠英は苦しい思いをしなければならないのだろう。
そう思ったら、言いようのない悲しみに襲われて涙が勝手に出てきてしまった。みっともない顔を晒してしまったと恥ずかしくなったけれど、誠英は優しく涙を拭って抱きしめてくれる。
見た目によらずしっかりした胸板に頭を預ければ、トクトクと心音が響いてくる。半妖だって間違いなく人と同じように血が通っているのだ、何も怖がる必要なんてないと改めて思う。
堪らない気持ちになって、清乃は誠英の背にそっと手を回した。
「辛い時は言ってくださいね。私に出来る事なら何でもしますから」
「清乃……」
誠英と出会ってから清乃は助けられてばかりだ。綺羅蘭たちのように何か特別な力があれば誠英に何か返せたかもしれないのに、残念ながら清乃の力は文字を読めるというだけだ。
これまでは期待外れのオマケと呼ばれても仕方ないと諦めていたけれど、初めて悔しいと思った。
こんな清乃に出来る事は何があるだろうか。掃除や料理は喜んでもらえているけれど、それも清乃がいる間しか出来ないのだと思うともどかしい。
燦景や諫莫、都の人たちなど、誠英にもそれなりに親しい人たちはいるけれど、彼らはいつも誠英と一緒にいるわけではない。これから新しい理解者を作って誠英の女官になってもらうというのは、相当難しい事だとも思う。
清乃が元の世界へ帰ってしまったら、誰がこの孤独な皇子におかえりなさいと言ってあげるのだろう。この屋敷にたった一人でいる誠英を想像すると、胸が引き絞られるようだ。
(ずっと誠英様と一緒にいられたらいいのに……)
ふと湧いて出た思いにハッとする。それは元の世界に帰らない事を意味するのに、本気でそう思っているのだろうか。
あまり深く考えてはいけないような気がして、清乃はゆっくり顔を上げた。
「涙は止まったか?」
「はい。すみません、衣を濡らしてしまって」
「構わぬよ。私が洗うわけではないし、酒よりはよほど良いだろう」
お酒、と言われて思い出す。そういえば薬酒について聞きたかったのだった。もうこの際だ。直接尋ねてしまおう。
「いつも飲んでらっしゃるのは薬酒なんですよね。どこか具合の悪い所でもあるんですか?」
「いや、そうではない。調子を整えるために飲んでいるだけだ」
「調子を? でもそれじゃ、やっぱりどこか……」
「心配性だな、お前は。体の問題ではなく力の問題なんだ。半妖の私には神通力と妖気があるからな。それの釣り合いを取るために必要なだけだから、気にするな」
どうやらちゃんと意味があったらしいと清乃は頷く。半妖だからこそ、何かと困る事もあるのだろう。とりあえず酒を切らさないようにした方が良さそうだと、清乃は心に留めておいた。
「無理はしないでくださいね」
「ああ、ありがとう」
誠英の穏やかな笑みにホッとする。一時は信頼関係が築けていないかもなんて思ったけれど、もうそんな事を悩む必要はないだろう。これ以上の秘密なんてないと思うし、もし何か気になる事があっても誠英なら問えばちゃんと答えてくれると今は分かる。
誠英との心の距離が一気に縮まったような気がして、清乃の胸にじんわりと温かな気持ちが広がっていった。




