2:世界を渡った日
「菅原、悪いが帰る前にこいつらに声かけていってもらえるか。明日が再提出の期限だってのに、まだ出してないんだよ。残ってるやつだけでいいから」
「分かりました。……キララもなんですね」
「如月はもう帰ってるだろうが、同じ家だろう? 出さないと夏休みに補習になるから発破かけてやれ」
「……はい」
その日もクラス委員長として放課後に担任の手伝いをしていた清乃は、最後に課題を提出していないクラスメイトへの伝言を頼まれて職員室を後にした。
渡されたリストを見ながら放課後の校舎を歩き、部活で残っている者たちの元へ向かう。普段は清乃の話を聞こうとしない彼らもさすがに補習がかかっているとあれば文句も言わないから、精神的にはだいぶ楽だ。
けれど昼食を食べられなかった清乃には、初夏の暑さの中、校内を歩き回るのは少々辛かった。
小中は給食があったから良かったが、高校になると毎月叔父から渡される小遣いでどうにかするよう言われてしまった。
それも綺羅蘭に奪われる事がままあるから、清乃はほとんど昼を抜く事になる。弁当を作れたら良いのだけれど、朝晩の食事すら最低限しか食べるのを許されない清乃には無理な話だ。
年頃の女子高生だというのに、薄っぺらい少年のような体にサイズの合わないお下がりの制服と瓶底メガネ。自分で適当に切っている髪を簡単に結んでいるだけの清乃は、綺羅蘭以外のクラスメイトからも地味で貧相だと馬鹿にされる。
そんな清乃がふらつきながら歩いても、誰も手を差し伸べてはくれない。体調を考えればこんな面倒事は断るなり適当に済ませるなりすればいいかもしれないけれど、元々清乃は責任感の強いタイプだし、長年心を殺して生きているから頼み事を断るのも苦手だ。
それに何より綺羅蘭の事がある。綺羅蘭は部活に入っていないから担任はとっくに帰っていると思ったみたいだけれど、きっと綺羅蘭はまだ校内にいる。
綺羅蘭は高校に入ってからは毎日のように帰りが遅い。放課後は取り巻きの男子生徒と街に遊びに出かけたり、気になる男子の部活を見学に行ったりしているのだ。
取り巻きの一人、竹井俊は柔道部に所属しているけれど、今日の柔道部はもうすぐ始まる夏休み中の練習の打ち合わせだけだったようで、清乃と入れ替わるように顧問が職員室に戻ってきていた。恐らく綺羅蘭は竹井が終わるのを待っているのではと思う。
面倒くさがりの綺羅蘭が、課題のプリントを持ち帰っているとは思えない。ここで捕まえて持ち帰らせないと、家で伝えた所で綺羅蘭は絶対に癇癪を起こす。それだけはどうにも嫌だから、空きっ腹を抱えながらも清乃はとにかく歩き、クラスメイトに声をかけつつ綺羅蘭を探した。
「あ、清乃! 良いところに!」
北校舎と南校舎を繋ぐ外廊下に響いた綺羅蘭の声に、清乃はハッとして足を止めた。清乃の思った通り、綺羅蘭は竹井を待っていたらしい。
竹井とは中庭で待ち合わせていたのだろう。綺羅蘭は竹井ともう一人の取り巻き、日野春馬を連れてニッコリと笑っていた。
「ねえ、少しで良いからお金を貸してくれない? カラオケに誘われたんだけど、今月もうほとんど使っちゃって」
「ごめんなさい、今は私もお金がないの」
綺羅蘭は清乃と同じぐらいの身長だが、発育不良の清乃と違って女性らしい体つきをしているし、明るめに染めている髪はコテで丁寧に巻いてまとめてあり、愛らしく見えるように化粧もしている。それが清乃には通用しないと分かっていても、そばにいる取り巻き二人に見せるためだろう。可愛らしく小首を傾げて甘ったるい声で問いかけてきた。
見つけられたのは良かったけれど、向こうから呼び止められるなんて碌でもない事だろうと思ったら案の定だ。綺羅蘭の言う少しは清乃の有り金全てだし、貸した所でこれまで一度も返ってきた事なんてない。そもそも、今月の小遣いだってすでに綺羅蘭に奪われている。どうにか逃げようとする清乃に、綺羅蘭は「酷い」と目を潤ませた。
「清乃はバイトしてるんでしょ? ほんの少しで良いのに、貸してくれないの?」
「何でそれを……」
「ハルくんがこの前見たって教えてくれたの」
絶対に叔母と従妹には知られたくないと、清乃はこっそり週末にファーストフードのチェーン店でアルバイトを始めていた。先日、初めての給料をもらったばかりだけれど、日野に見られていたらしい。
日野は耳にいくつも付けているピアスを弄りながら頷いた。
「そうそう、オレ見たんだよねー。委員長は金あるのに何でないなんて嘘つくの?」
「キララが可哀想だろう。従姉なんだから貸してやれよ」
日野の隣から、竹井も声を挟む。竹井は柔道部に所属しているだけあって体格が良く、凄むと迫力がある。さすがに暴力を振るわれた事はないけれど、断ったら何をするか分からない怖さがあった。
「でも……お財布は家にあるから」
綺羅蘭に使わせるために稼いだお金じゃない。清乃だって、少しでも自由に出来るお金が欲しかっただけだ。
それでも断りきれなくて渋々ながらも言うと、日野が呆れたようにため息を漏らした。
「ならオレたちも一緒に家に寄ってから行けばいいだけじゃん? すぐそばなんだから、そんな理由で断るなよ。ブスが金持ってたって使い道ないんだからさぁ」
「ハルくん、あんまり清乃を悪く言わないであげて」
「さすがキララちゃん、優しいなー」
「ああ。菅原も見習うべきだと思うぞ」
何だこの茶番は、と思うけれど口には出さない。いつもチャラチャラしていて軽薄そうな日野も口数の少ない竹井も小学校からの知り合いだけれど、昔から盲目的に綺羅蘭に惚れ込んでいるから何を言っても意味がないのだ。
それより大事なのは、そもそもの目的だ。
「でもキララ、数学の課題まだ出してないんでしょ? 明日提出しないと、夏休みに補習だって先生が言ってたよ。私はそれを伝えに来たの」
「えっ! 補習⁉︎ そんなの聞いてない!」
「だから今日はカラオケなんて行かない方がいいと思うよ」
これでカラオケ代を巻き上げるのは諦めてもらえないだろうか。そんな期待を込めて清乃は話したのだけれど。
「どうしよう、すっかり忘れてた……。でもそのプリント、清乃なら簡単だよね? 答え写させてよ」
「無理だよ。私はもうとっくに提出してるから」
「それなら代わりにやってくれればいいじゃない。私が数学苦手なの、清乃も知ってるでしょ?」
「代わりにって……そんなこと出来ないよ」
これまでも宿題を写させてほしいと綺羅蘭に言われて見せた事は何度もあった。断ると何倍にも仕返しをされるから、嫌々ながらも受け入れるしかなかったのだ。
けれどさすがに代わりに書くなんて無理な話だろう。綺羅蘭の字は癖の強い丸文字で、真似して書くなんて出来ない。字体を見れば一発で担任にバレる。そうなれば二人して叱責を受ける羽目になるのだから。
けれど綺羅蘭は、どうしても今日カラオケに行きたいらしい。
「酷い……。私がシュンくんたちと遊ぶのが、そんなに嫌なの?」
「そうじゃなくて」
「シュンくんは夏休み、部活で忙しくなっちゃうから、今のうちに遊びに行こうって誘ってくれたのに……」
「委員長、ひどいなー。キララちゃん泣いちゃったじゃないか」
「見損なったぞ、菅原」
くしゃりと顔を歪めて綺羅蘭は清乃を見つめてくる。メイクで大きく見せている瞳が潤むと今にもこぼれ落ちそうで、見るからに庇護欲を唆る。これが嘘泣きだと清乃は知っているけれど、取り巻きの二人は簡単に信じてしまう。
咎めるように睨まれるけれど、泣きたいのはこちらだと清乃は思う。思っても実際泣きはしないけれど。いくら泣いても誰も助けてくれないと、身に染みて知っているから。
「あら、如月さん?」
「お前ら何やってるんだ、こんな所で」
するとそこへ女性教諭の松本涼子と、隣のクラスの風間隆平が通りかかった。
松本は新任の音楽教師で、男子生徒からは清楚系美人だと人気が高い。風間はサッカー部の特待生で、爽やかなイケメン王子だと女子に人気だ。綺羅蘭も風間を狙っているようで、何かと話しかける姿を見た事があったから、二人はそれなりに親しいのだろう。
風間は泣き真似をする綺羅蘭と庇うように立つ日野と竹井を心配げに見た後、三人に相対する清乃を不快げに見据えてきた。
「如月さん、大丈夫? 委員長が何かしたの?」
綺羅蘭の流した清乃の悪い噂を、隣のクラスの風間も信じているようだ。清乃が泣かせたと思ったのだろう。ほぼ初対面にも関わらず、清乃を見る目は冷たかった。
「風間くん、ありがとう。でも大丈夫だから」
「何かあったらいつでも言えよ?」
「うん! でも風間くんはどうしてここに? 今日はサッカー部、休みだったよね?」
「楽器の入れ替えがあったみたいでさ。松本先生一人じゃ重そうだったから、手伝ってきたんだ」
さすがに教師にまで噂は広がっていないようで、松本は不思議そうに風間と綺羅蘭の話を見守っている。そんな松本に日野と竹井が見惚れる中、綺羅蘭はキラキラと瞳を輝かせて風間を見つめていた。
傍らに立つ清乃の存在なんて、誰も気にしていない。これ以上余計な事を言われる前にと、清乃がこっそり離れようとした、その時。
「キャッ! 何⁉︎」
綺羅蘭の足元が突然輝き出して、眩い光が六人を包み込む。思わず目を瞑るとフワリとした浮遊感に襲われ、突然「オオッ!」と野太い歓声が辺りに響いた。




