12:不遇な少女(誠英視点)
清乃が倒れた時、誠英は鳳梅の庭園でのんびりと酒を飲んでいた。元々しばらくはこの庭園にいなければならないのだが、今日も皇后は茶会を開く予定だと聞いている。きっと清乃はまた宮を出て書庫へ行くだろうから、会えるのを楽しみにしていた。
清乃の事は、召喚の儀の時から気になっていた。地味で影の薄い少女は、護摩壇で倒れていた男を気にかけてくれた唯一の人間だった。
善良そうなのに召喚に巻き込まれて、けれど文句も言わずに理不尽な扱いにも耐えてしまう不遇な少女。これまで人には嫌悪しか湧かなかったが、初めてもっと近くで見てみたいと思った相手だった。
だが数日後に目を覚ました時、彼女が後宮の、それも北陽宮へ連れて行かれたと知って一度は興味が失せた。
北陽宮は、かつて誠英の母が住まわされていた宮だった。代々皇帝の寵妃が入れられるが、その寵妃たちは一様に訳ありで後ろ盾を持たないものばかりだった。
だから異界人がそこへ連れて行かれても不思議ではないが、寵妃となるわけだから皇帝のものとなる。あの娘も皇帝の寵愛を受けて変わっていくのかと思うと苦い思いが込み上げたが、あえて関わろうとは思わなかった。
それなのにひと月前、偶然にもこの鳳梅の庭園で再会した時、清乃は女官の服を着ていた。初めて見た時より顔色は少し良くなっていたが、それでもまだまだ貧相だし、何より一人で歩いている。彼女は皇帝の寵を受けていないらしいと気付いて気分が上がった。
そして誠英を不審者だと勘違いしている事に驚き、それでも逃がそうとしてくる事に呆れてしまった。その善良な性根が、誠英には眩しくも愚かで愛らしく感じられた。
もう少しこの娘と話してみたい。
そんな思いで自然と名を問うて、勘違いは正さずに自身も名前だけを名乗った。
果たして彼女は、誠英が皇子だと知ったらどんな顔をするだろうか。それもただの皇子ではなく、不良皇子と陰口を叩かれる後宮の嫌われ者だ。
これまで誠英の周りにいたのは、母譲りの美貌に惹きつけられて近づいて来ては不良皇子と知った途端に手のひらを返す者ばかりだった。彼らのように、清乃も態度を変えるのだろうか。
彼女の反応が楽しみでもあり怖くもあったが、幸いにも清乃は誠英の正体を知っても困惑するばかりで嫌悪は向けてこなかった。ただどうしてか、真っ当な皇子にするように礼儀正しくされる姿が気に障った。
誠英はきちんと皇子として扱われない事に不満を持っていたはずで、清乃の対応は喜ぶべき事なのに少しも嬉しくない。それがとても不思議だった。
初めて話した時のように、また気楽に話してほしい。あの分厚い眼鏡の奥にある嘲笑も侮蔑も嫌悪もない瞳に、もう一度自分を映してほしい。
そう思って柄にもなく清乃の行く先々に姿を現せば、清乃は実に様々な顔を見せてくれた。
突然出てくる誠英に驚き呆れ、酒の飲み過ぎだと心配して怒り、都の話を聞かせてやれば楽しげに笑う。
こんなにも表情豊かで活き活きとしているのに普段は寡黙で、女官たちに無視されても反発する事もなく、黙って受け入れているようだ。陽妃に訴えればいいだろうにそれすらしようとしない姿は実に興味深く、どうしてか歯痒くもあった。
彼女を形作る過去がどんなものなのか。話を聞いてみれば、形は違えど誠英と同じような境遇に思わず笑ってしまった。
世界が違っても、欲に塗れた人の醜さは変わらないらしい。全てを奪い理不尽な要求を突きつけ、脅して屈服させて支配する。そういう輩はどこにだっているのだ。
それでも清乃は誠英と違い、相手の行為を嫌っても存在を憎む事はなく、出し抜いてやり返してやろうという気にもならないようだ。
かといって卑屈になり諦めているわけでもなく、いずれ解放される時が来ると信じて今出来る事を積み重ねているらしい。
誠英からすれば甘過ぎる考えだと思うが、不思議と否定する気にはなれなかった。きっといつか彼女は自力で苦境を切り抜け、真っ直ぐに飛び立っていくのだろう。そう思わせる何かが、彼女の中にあるような気がした。
そんな清乃の行く末を見届ける事が出来ないのが残念で仕方ないが、ならばせめて共に過ごせるこの時を楽しみたいと思う。たった一人の友人ともいえる存在は、誠英の思う以上に心の大きな部分を占め始めていた。
だからその日はいつまでも清乃が来ないのに焦れて、つい術を使い北陽宮の様子を探ってしまった。
そこでおかしな動きにようやく誠英は気がついた。明らかに出入りする人の数が多い。それに医官まで呼んでいるようだ。
陽妃の身に何かあったのだろうか。皇帝の寵妃がどうなっても気にもならないが、庇護者を失えば清乃の立場が危うくなってしまう。
宮内には入れないというのに何が起きているのか確認だけはしたくて北陽宮の近くへ向かうと、なぜか女官がやって来て陽妃が呼んでいると伝えてきた。どうやら陽妃が倒れたわけではないらしい。
陽妃が無事ならば、この騒ぎは何だというのだろう。まさか清乃に何か起きたのだろうか。そう思うと誠英の足は自然と駆け出していた。
北陽宮には、誠英も母が亡くなるまでの二年間共に暮らしていた。特殊な生い立ちの誠英には生まれた時からの記憶が今でもハッキリ残っており、母の苦しむ姿を思い出させられる宮内は正直に言えば見たい物ではない。
けれど今はそんな事を気にしている場合でもなく、記憶を辿って真っ直ぐにこの宮にある唯一の寝室へ向かった。
「私を呼んだか、陽妃。何があった?」
呼びにきた女官は置いてきてしまったし、なぜか部屋の周りには誰一人いなかった。不思議に思いながらも礼儀は無視して直接部屋へ乗り込む。
寝台の上では清乃がグッタリと横たわっており、その手を握っていた陽妃が涙目で振り返った。
「八の皇子、菅原さんを助けて……!」
「どういうことだ。医官に診せたのではないのか」
「それが、毒のせいだろうけど異世界の人間だから治療出来ないって言われて」
話を聞いて、誠英は思わず舌打ちした。不思議な力はあれど異界人も体の構造は同じだという説明は、召喚直後にしてあるはずだ。何せ陽妃を迎えるにあたり、皇帝の子を成せるのかと太医院から祠部に問い合わせがあったのだ。医官がそれを知らないはずもない。
きっと清乃は、皇帝の悋気に触れてしまったのだろう。陽妃の元から清乃を消すため、何かあっても治療しないよう医官たちは指示を受けているに違いない。
そうとは知らなかったにせよ、誠英を呼んだ陽妃の判断は適切だったといえよう。どんな毒を盛られたとしても、誠英ならば清乃の命を救う事は出来る。ただしそこには大きな犠牲も伴うが。
「助ける方法はあるにはあるが、それがどんな結果を起こしても構わないか?」
「菅原さんが助かるなら、何でも構いません! 私に出来る事なら何でもします。お願いですから助けてあげて!」
「ならば、少し部屋を出ていてもらえるか。悪いようにはしない」
「……分かりました。菅原さんをお願いします」
不安げにしながらも、陽妃は部屋を出て行った。扉が閉まるのを確認して誠英は短刀を取り出し、躊躇う事なく手のひらに滑らせる。
「清乃、飲め。これを介さなければ、術がかけられない」
誠英はその特殊な生い立ちから幼い頃より度々命を狙われており、様々な毒に晒されてきた。そのためあらゆる毒物に耐性があり、誠英の血からは血清を作る事も出来る。
けれど今は時間もないし、多量の血と気を使えるだけの余力も誠英にはない。今の誠英は万全とはいえず、自身を癒すために龍脈の力を多く含む鳳梅の庭園に入り浸っていたほどなのだ。
だから血をそのまま体内に入れ、少ない力でも使える術で直接働きかけて清乃を冒す毒を中和させようと思ったのだが。伝い落ちる血を指ごと清乃に咥えさせて飲み込むよう促しても、弱りきっているからかなかなかうまくいかない。
仕方なしに誠英は枕元に置かれていた水に血を溶かし、それを口移しで清乃に飲み込ませた。誠英の気を含む血が、清乃の胃の腑まで落ちた事を確認して術をかける。
陽妃が席を外してくれたから、精度を上げるために本性を現す事が出来る。何も隠していない頭から銀色の狐耳がピョコリと出てきて、深衣の裾の中で長い尾が膨らんだ。
この力と血を分けてくれた母に、今日ほど感謝したいと思った事はない。おかげで清乃を助ける事が出来る。
もっとも誠英がこの世に生まれていなければ、清乃たちが召喚される事もなかっただろうが。
「どうにか落ち着いたか」
寝台に寝かせる際に陽妃が外したのだろう。眼鏡のない清乃の顔は苦悶の表情から穏やかなものに変わっている。頬に血色も戻りつつあり呼吸も整ってきた。間一髪間に合った、という所だろう。
「お前はこんな綺麗な顔をしていたのだな」
誠英の血を飲んだのだ。もう清乃には、この無粋な眼鏡は必要ないだろう。けれどこの顔を自分以外の者に見られるのも何だか癪に触る。
残り僅かな力を使って、誠英は枕元に置かれている清乃の眼鏡にいくつか術をかけた。
「待たせたな。治療は終わったぞ」
変化を解いて清乃の頬をひと撫でしてから、誠英は扉の外で待っていた陽妃に声をかけた。
眠る清乃の様子を確認すると、陽妃はホッとした様子で涙を流した。
「数日は眠り続けるだろうが、命の心配はない。ゆっくり休ませてやってくれ」
「ありがとうございます。助けてくださって」
「今回は助ける事は出来たが、次も出来るとは限らない。清乃のためを思うなら、身の振り方を考え直した方がいいのではないか?」
残念ながら、清乃が倒れた毒がどんな経緯で盛られたのかは分からない。
もしかすると清乃を排除しようと皇帝が指示したのかもしれないが、本当の狙いは陽妃で清乃は巻き込まれただけという可能性もある。後宮は女同士の陰湿な戦いが繰り広げられる場所なのだ。
ただどちらにせよ、ここにいる限り身の危険は今後も付き纏うだろう。
とはいえ北陽宮に入れられたのだ。陽妃が逃げられるとは思えないが、清乃と陽妃が召喚されてしまった責任の一部は誠英にある。
二人が望むなら、誠英の伝手を使って帰還の陣が開くまで匿う事も出来る。そう思って、誠英は口にしたのだが。
「ここで何をしている! 陽妃に手を出したのか!」
全てを話し終える前に、皇帝が北陽宮へ乗り込んできた。涙に濡れる陽妃の姿と、共に寝室にいる誠英を見て皇帝は怒りを露わにし誠英を殴り飛ばした。
そのまま剣も抜きそうな皇帝の腕に、陽妃が縋り付く。
「やめてください! 八の皇子は菅原さんを助けてくれただけなんです!」
「何?」
「それに陛下の大事な息子さんでしょう? そんな事あるわけないじゃないですか。ご自分の子に手を挙げたりしないでください!」
なんと真っ当で真っ直ぐな訴えなのか。綺麗過ぎて反吐が出そうだ。
確かにこれまで皇帝の温情を受けて生き永らえてきたが、それは母の血を引く誠英には利用価値があると思われていたからだ。息子だと思われた事など一度もないし、大切にされた事もない。
誠英とて、皇帝を父と思った事など生まれた時から一度もなかった。皇帝は母から全てを奪った憎い相手でしかない。半分でもこの男の血が流れているのかと思うと吐き気がしてくる。
それでもそんな事はおくびにも出さず、誠英は血の滲んだ口元を拭いながら身を起こし、薄らと笑みを浮かべて首を垂れた。
「陛下の宝に私なぞが触れられましょうか。とんだ勘違いですよ」
「ならば早々に出て行くがいい」
「御意に」
ふらつく体を気力だけで支えて背を伸ばし、歩き出す。流石に力を使いすぎた。次に動けるようになるのはいつだろうか。
それまで清乃が無事であればいい。誠英の血を馴染ませたからそう簡単には死なないと思うが、これからしばらく会えなくなると思うと気が滅入る。万が一に備えて仲間にも頼んではおくが、彼らがどこまで協力してくれるかは正直分からない。
何せ清乃は異界人だ。召喚に巻き込まれただけとはいえ、彼らの信を得るには直接的な関わりが必要だろう。
少しでも早く回復して、清乃を近くに置けるよう整えなければ。そんな事を考えながら、誠英は北陽宮を後にした。




