セクターγ エデン
セクターγ エデン
目が覚めたのは私の主観に照らすと朝の7時だった。寝ぼけ眼のまま、いい加減にスケジューラーを起動し、自分に合った速度で身支度を整える。
本当ならこのまま寝ていてもいいはずだった。実際の時刻を知るための秤はすでに壊れているからだ。
神の視点というものがあるのならば、私がそれを掌握している。完璧に。
だから、あえてこう言い切ってしまおう。
聖グレゴリウス暦4021年が現代となった今、それが当面の私に与えられた日常なのだ。
313年前、国家間戦争が起こった。原因は誰も把握していないが極めて複合的なものに違いない。口火を切ったのはご立派なICBM核弾頭42発、程なくして相互確証破壊は国際法通りに機能した。
着弾を記録した一発の核弾頭の照準が英国に向けられていたため、グリニッジ標準時は永続的な機能不全に陥った。
数年を待たず、開発途上にあった衛星軌道エレベーターの建設計画も頓挫し、未来永劫にわたって修復不能となった天文施設は星を見るのをやめてしまった、らしい。
世界は姿を変え、元には戻らないところまで来てしまった。復興は不可能。それがこの時代の全ての人間が共有する一般的な認知だ。
世界は滅びた。しかし、そんなことはどうでもいい。
私の主観に照らせば世界の崩壊、終末などさしたる意味を持たない。
たとえ世界が滅びても、タイプライターを使って別世界と交信できることが分かったからだ。
世界が滅びた。そのことは事実だが、こんなことは私の書きたいことではない以上どうでもいいことだ。
相対評価にして冒頭部分の自死に対し10分の1程度の比重で私はこれを描写した。
文字だけで描写する世界で私は正真正銘、神になった。
世界をn分の1の階乗で処理しても足りないくらい小さなスケールで存在する箱庭の中に7人もひしめいている神的存在の1柱に過ぎないが。
ものすごい出世だと思わないだろうか?
だって、私はさっき自分の息子を残して死んだばかりなのだから。
新しく得た身体、五体満足な情報体の人差し指を駆使して、電子パネルのスイッチを押す。
「おい、ムラサメ。起きてるか。」
返事が返ってくるのに1秒もかからなかった。
「お前が起きてるなら、俺も起きてるに違いないだろう。ボケてるのか。エゴ」
そりゃあ、そうだ。
私たちは寸分違わず時間感覚を同期させた同刻グループのメンバー、同じセクターγに属しているのだから。
私が起きてるのなら、ムラサメも起きてるに違いない。
それは心臓が動いているのなら、肝臓も動いている。脳が覚醒したのなら目を開くのと同じくらい分かりきったことだった。
「今日は何をして遊ぼう」
「そうだな。下位セクターの制圧状況は約8割。もう奴ら抵抗する素振りもみせやしない。」
「もう少しいじめてやろうか?お前、あいつらのこと嫌いだったろ」
私はそう言ってムラサメが昨日壊滅させたセクターのことを異常に憎悪している原因について検索にかけた。
大したことのない理由だが、ムラサメの嫌悪感情に相当するスコアは偏差80を記録している。異常な数値だ。大事と言っていい。
ムラサメの中で嫌悪の感情が膨らむのを電子パネル越しに感じた。
感情の配合を表示することで「あれはもういい。終わったことだ」と伝えようとしているのだ。
ムラサメは無口な男だがこのようにして賦活な思いを言外に標榜することに躊躇がなかった。
「上位セクターに喧嘩を売るには資材が足らん。なんとも面白くねえ状況だな」
セクターγは全部で何層あるかわからない時間感覚世界の中でも極めて圧縮率が高く、時間の流れの緩急操作について、自由度が高く設定されているセクターだ。
「調達しようか?」
ムラサメは眉を顰めた。
「いくらだ?タダじゃないだろう。」
私のニヤついた顔がムラサメに不快感を与えたことは明らかだ。
「話が早いな。500ペタも情報を積めばそれで十分。それとお前が支配しているセクターα、あれから手を引いてもらおう」
「いいだろう」
私が言葉を言い終える前に、間髪入れずムラサメは条件を飲むと意思表示をした。
驚きを隠せないのは私の方だった。
代わりにムラサメは呆れた顔をしていた。自分が生まれたセクターだというのに私には理解し難いことだ。こんな簡単に故郷を捨てられるなんて。
「なんだそんなことでいいのか。」
「ああ」
私は感情は歓喜と疑心の配合で混沌としていたが、公開設定は極めて狭い範囲に抑えられている。
ムラサメはあの世界に対する私の思いについて一生理解できないだろう。
このセクターでは時間の圧縮によって不死が確約されているので一生というのは「永遠に」ということだ。
ムラサメには永遠に分からないだろう。あそこには私の息子がまだ生きていて、機械化された私の亡骸の前で泣いているかもしれない。
体感にして、私がこのセクターγで暮らした時間は300年くらいだ。
あの世界では3秒と言ったところだろう。まだ十分に間に合う。
お気づきであろうか、私はすでに精神の統合を失っている。
私の中にある精神は分裂による崩壊をきたしていている、この世界と同じ状況が私にも起きていると言って差し支えない。
神としての私、死者としての私、母としての私、それぞれに志す目的が違うのだ。
一つは我が子に夢を見せてやりたい。
死者はものを言わず永遠の中に身を埋め倒れ伏すだけだ。
そして、母としての私はただただ、帰りたがっている。あの世界に。
ムラサメの前にエゴとして向かい合っている私は虚妄の生を生き、タイプライターを打つことだけを心の支えにしている壊れた機械に過ぎない。
ムラサメのアバターが色濃い疑念の色を示した。
「それにしても、500ペタとはな。世界をあと6つ作れるだけの情報量。どこからぴっぱってくるつもりだ?」
私はムラサメの言葉を聴きながら手元に人に似た構造体を出現させた。
12枚の翼を持つその神的な存在は神である私が作り出した異世界の使者だ。
私の心は甘美な全能感に満たされていった。
「ああ、私にはツテがある。実は最近面白い世界を見つけたんだ。箱の形をしているんだが。やりようによっては……。まあ見ていてくれ。」」
「?」
怪訝な顔をするムラサメへの説明を省略するために、私たちは思念の一部を共有した。
「この構造物を見てくれ。この箱の中の世界では、私の手のひらに乗ってる電子妖精と同じ姿をした情報体は神の使いに見えるらしいんだ。私はこの箱の中の世界の2層目に神の使いを送り込み、この世界を収奪することを目指したのだが、2年でやられてしまったよ」
そう言って、私は再び箱に触れ、異世界の記憶をムラサメの思考と同期させた。
箱の中の記憶がムラサメの中に流れ込んだ。
刃物で刺したように痛烈な痛みの感覚。人が死のうとしている恐怖。無力に全てを蹂躙されてもなお、声を発しなければならない。
記憶の持ち主はそんな男だ。
「よせ!!」
男の名をヨトゥン・エトランゼという。
ヨトゥンの声が闇に響く。運命を左右する力もないその声が胸を打つのは、その言葉の向かう先が世界の不条理全体に対してであったせいかもしれない。
同期が中断された。
「うわ!」
ムラサメが間抜けを絵に描いたような叫び声をあげた。
その目には向こう300年は流したことはないであろう涙の粒が生まれ、流れ落ちる寸前だった。私も最初この記憶に触れた時にそうなったから分かる。
そう、この世界を形作る記憶に触れると長らく忘れていた悲痛な感情に打たれて涙が溢れてくるのだ。
「なんだこりゃ」
ムラサメの様子に私は肩をすくめる。
「他人の記憶だよ。これは。それもこいつの記憶はただ事じゃない。とてつもない情報量だ。」
ムラサメは私の説明を聞いているのかいないのか、初めて晒される感情の渦に晒されている。
「とにかく、お前はこの世界ではヨトゥンということになっている。こいつがまた可哀想なやつでなあ。私にもどうしようもない。ひとつしかない世界でもっと圧縮率の高い世界にどんどん深く潜っていって帰ってくる気配がないんだ。情報を得るには救ってやらねばならない。」
ムラサメは無言で私の言葉を聞いてか聞かずか、箱に触れるのを躊躇した。
「神のように。やっぱり、私がやるしかないのかな?」
私が肩をすくめると、ムラサメは意を結した顔をした。
「いや、俺がやるよ。面白そうじゃないか。まるで生き返ったみたいな心地がするぜ」
「何年くらいかかると思う?」
私は明後日の方を向きながらいい加減に言った。
「わからん。200年くらいで帰って来れるかな」
私が言い終わる前に、ムラサメは箱に触れ、深く深く潜っていった。