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セクターα 方舟

 沈まぬ宵の明星が人の形をなすようになってから、3千年の時が過ぎた暦の中で人々が季節の名残を惜しむかのように築き上げた現在。

 瞬きをする時間の隙間も無駄にせぬよう目まぐるしく紡がれる刻と刻との無限の断絶の中、私たちはある一つの目的のために生きていた。


 セクターα 方舟


 俺、私、僕、一人称などというものは、元来どうだっていい、その日の気分によって変えてもなんら差し支えないが、今日はいつもと違うものを使ってみたい気分だった。

 冒頭の描写は生きるのに疲れた男の述懐から始めよう。

 その男は自らの一人称に全てを代入しながら考え事をしている。

 

 全ては方舟で生まれた。

 

 こう書いてから、この著作の下書きを担当しているレイジ・ムラサメは苦笑いを禁じ得なかった。

 なんだこいつ、痛すぎる。

 厨二を拗らせるにも程があるだろ。

 次の行からも述懐は続くが、ムラサメはこの描写に赤を入れることに決めていた。

 なんでかって?お前はお前自身以外の何者でもない。

 俺はのっけからお前に「全て」などというものを名乗らせる気がない。

 不足な役割しか与える気がないからだ。

 

 男が歩き出した。

 再び動き出した時の中で、5秒前には存在すら認められていなかった架空の設定が世界に継ぎ接ぎされていく。

 5秒前には存在しなかったそれを男はまるで生まれた時からずっと見てきたもののように語り始める。

 このように。

 

 全ての物事は方舟の中で生まれた。

 どこまでも続く平らな地面。果てがあることが見えすいた贋物の水平線。ドーム型をした赤銅色の空に人の形をした太陽。四肢を分解され、頭部を失った巨人の残骸。

 日々薄れゆく魔法という奇跡の残滓とそれに反して高度に発展していく科学技術。

 街中とも言えぬ街を歩いている人物は平均的な地球人よりもやや規格を大きめに外れた見てくれをしていた。。

 中肉中背よりも長身、筋肉質というよりはやや痩せこけている。

 肌は鉛色、目の色は海の色より澄んだ青、髪は赤毛の短髪、全身をグレージュ色のスーツで覆った風体はある程度さまにはなっているもののこの世界では標準の域を出ない。

 あえて言い切って仕舞えば、なんの特徴もないに等しい程の情報の羅列がこの男の特徴だった。

 生きるのに疲れたように顔色が悪く、ふらふらと歩くその相貌は死神を思わせるほどに蒼白としている。

 道ゆく人も見えぬままに吹く風もなく頼る縁もなくただ1人歩いているその様はまるで目的地など持たない浮浪者のようでもある。

 男の思索は続く。

 その標はムラサメの意図しない方向に向いている。

 

 私たちの文明の素養となってきた全ての物事はこの世界に住む私たちの心そのもののようにどこかしら矯正不能の歪みを持っているように思えてならない。

 まるで、時間の経過とともに些細な瑕疵を積み重ね取り返しのつかない機能不全に陥った凡庸な家庭のように。そんな環境にあって只中に身を置いた幼子の如くの有様は、我らが故郷の情景どれを取っても一事でもって言葉もなく途方に暮れる迷妄な感じを私たちの心に想起させるのに十分だ。

 この時の吐き気を催すような感覚は、進化の過程で淘汰された胃袋という名の架空の臓器に由来する生理現象なのだと前世代最後の生き残りが言っていたのを思い出した。

 


ムラサメはため息をついた。

 「おい、エゴ。やりすぎだ。この世界はこんな形をしていない。無理に手を加えるのはやめろ。」

 返事はない。

 「言い換えるなら、そいつはそんな上等な感性を持ち合わせるべきじゃないんだ。もっっと虫ケラのように残酷に扱え。お前、こいつに自己を投影して施しを与えようとしているな。」

 タイプライターの音が聞こえる。

 誰の耳にも届くその音こそが世界を世界たらしめる福音となるはずだった。

 

 男は天を仰ぐ。この場合の天とは人の形をした光る物体のことに他ならない。

 卑小にすぎる箱庭の中で行われているのは過去から未来に渡るまで永遠に保存され、複利効果を以って強化、維持に努められた膨大な位置エネルギーが何かの拍子に0になってしまうまで終わらない綱渡り。

 私たちがやらされているのはただそれだけのことに過ぎないのだ。そう教導されたのは強化セラミックで作られた無機質なゆりかごの上で寝ている間、生後間もない数秒の間のことだった。たったそれだけで私たちは何一つ無駄なことができなくなった。私たちの誰もが解きたくても解けない呪いにかかったように、その経験は我々自身の生き方を縛る重い枷や固い頸木となっていった。

 今となっては衰退した古代魔法と同じ意味を持つ文学という魔術的学問に表現を借りるなら、この紐の形をした赤い糸、私たちの存在意義の全てを担う綱渡りのために造られた運命の織り糸は機械によって生きるに足ると見做された数万単位のごく少数の遺伝因子のみで作り上げた血液の管を二重螺旋の形に何度も編み直したものであるということらしかった。

 成す術の限られている閉所で一生暮らさなければならない小動物のように、言い尽くす術のない生きづらさを有り余る技術と熱量で押し殺してきた。その痕跡の見えるこの狭い世界を真の意味で愛するには困難が伴った。

 故郷を特徴づける歴史も不要と断じられ、失われて久しい現在で哀愁めいた思い出を想起する余地もなく、不要な枝葉のない完全な直線を描く赤い樹形図には文字通りたった一つの意味しか込められていない。

 私たちの生きる意味を凄まじい速度で捨象しながら発展する科学文明。箱庭のような世界を囲む全てを内側からも外側からも制御し、支配してしまうこの恐るべき技術は隔壁の外にあるただ一つの名も知れぬ脅威に対して練り上げられてきたものだ。

 修辞の中で走るアキレウスのようにゆっくりと確実に歩みを進めるその軍勢は明らかに我らと我らの故郷に壊滅的打撃を加えるべく隔壁の付近に迫ってきている。私たちの平穏は詭弁によって守られているに過ぎないという教育にも私たちは絶えず晒されてきたのだから、それはきっと確かなことなのだろう。

 しかし、そんなこととは全く関わることなく、何らかの自分独自のものを以って生を全うできるとしたら、それは我らのような屍人には過ぎたる救済であろうなと考える機会が稀にしろあったのは否定できない。それは私だけが感じる思いではないのだと確信を持って言えるが、そのことを誰とも共有できないまま、もうすぐ人生の半分を生きることになる。

 この狂気じみた日常が私が生きている間、ずっと続いていくことを祈りながら、同時に私は様々なことを諦めていた。

 私がエゴと名乗る酔狂な女に出会うことになったのは全くの偶然と言って差し支えない。

 

 「あーあ。やりやがった。もう知らね。俺の世界に自分を登場させるんじゃねえってえの。」

 エゴは文字を打つ手を止めずに微笑んだ。

 「この世界を私に譲ったのは、間違いだったようだな。ムラサメ。どうせ滅びゆく世界だ。私の好きにさせてもらう。」

 エゴはなお男の独白を書き続ける。まるでそのことに意味があるかのように空虚な独り言を書き留める作業に没頭している。

 「賭けに勝ててよかった。これで何もかも始められる。やり直すんだ。」

 

 VR技術を駆使して作り上げられたネオヨークシャー98番地大通りにある、国内13番目の大きさの交差点とだけ設定された架空の街並みを歩く「目的地を決めずに散歩をするためにだけ」というタスクカテゴリを起動させた状態で、目的地にたどり着きざま脇見をし、正面を向くことなく故意に左折をすると、地図上は確かにそこにあるはずの壁をすり抜けることができるのだという。そのあと、引き返そうか、と言う思いを2度ほど思い直して直進すると、霞が晴れるように突如目の前に現れる廃墟のような建物があるらしい、そこに住んでいるのは神という忘れ去られた存在であると言うのだ。

 こんな眉唾な噂を聞きつけ、実際にそのように実行し、たった一回の試行でその場に辿り着けるのはごく少数の確率的勝者に違いないであろうが、その奇跡のような舟くじに当選するのは別に私でなくてもよかったはずだ。

 私はこの女の描く物語に登場した脇役に過ぎない。

 この場所を仮にイースターエッグと名付けるとするならば、生きることに祈りを捧げるだけだった私はそれ相応に型破りなことをするプレイヤーに昇格を果たしたことになるのだろう。

 来た道を引き返そうかという3度目の迷いを振り払おうとした矢先、あたりを覆う不可思議な霞が晴れていった。

 そこには、劣化した灰褐色のレンガ造の廃屋一軒。

 私は、ぎしぎしと軋む床を踏みしめながら建物の中に足を踏み入れる。

 かちゃかちゃと耳障りな音が聞こえたが、不快だと思ったのは最初のうちだけだった。

 長い髪の女の後ろ姿が見えた。気狂いじみた様子でタイプライターと向き合うただ1人の女。

 忘れ去られた廃屋にはただ1人、このような人間がいるだけで、他には何も存在している様子がなかった。

 女ははたと手を止めて振り返る。同時に時の流れが静止した。

「やあ。ヨトゥン。ヨトゥン・エトランゼ」

 その名はこの箱庭の中で慣例的に用いられ、統計的に見てもありふれた名前には違いなかったが、私は自分がなぜヨトゥンと呼ばれたのか理解できなかった。

 なぜなら、私の名前はレイスーンなのだから。

 まあ、そんなことはいまさら気にすることでも無かろう。

 私のことを知らない赤の他人が私の名前を言い当てられなかったからといってなんだというのだ。

 この世界の神にだって瑣末な不全は存在するのだろう、別に驚くべきことではない。

 それ以上に、静止した時の中でも思考が働くことに不思議な感覚に囚われたことの方が重要な事態だ。

「会いたかったよ。新しい人生はどうだい。愛しいあの人には会えた?外に出た気分はいかがかな?」

 私の思考は混乱していたが、自分の意思とは無関係に整然と答えが紡ぎ出されるのは奇妙な感じがした。

「いいえ。答えは二つとも“いいえ“です、エゴ。ここは外ではないし、私はあの人が誰を指すのかも理解できません」

 朦朧として、私は答えた。

 途端に自分の正しい名が分からなくなる、私の名前はレイスーン。私の名前はレイスーン。私の名前はレイスーン。

 三度、私は唱えた。

「ヨトゥン」

 私はその呼び名を否定しなかった。

「あの人のことはもう忘れました」

 長い髪の女は私の言葉を聞いて、微笑んだ。

「嘘をつくんじゃないよ。それじゃあ私が今書いている物語は何なんだい?終わってしまっているはずじゃないか」

 霞がかかったみたいに何も考えられなくなった私の意識は芸術的とも言える宗教画やポップアート、一面の青、さまざまに変化する平面的なイメージを紡ぎ出す。未だに自分が何を考えているのかも掴めないまま、言葉が口をついて出てきた。

「あなたが書いているのは物語ではありません。救われない自分への慰めです」

 長い髪の女の表情が一瞬強張ったのを私は見逃さなかった。「畳みかけるべきだろうか」私は逡巡した。

 女は突如、机に向き直り、カタカタとタイプライターを動かした。

 女が手を止めて、振り返る。

「じゃあ、趣向を変えてみようか。ヨトゥン。追いかけっこだ。君がここから逃げ出して、生き延びて見せた時には、この慰めも物語の形になっているかもしれないから」

 女がそういうと、廃屋の壁の一面が派手に吹き飛んだ。

 粉塵を巻いて現れた巨体を見て私は言葉を失う。

 そこに現れたのは鈍色に発色した人型の怪物、方舟を象徴する残骸の巨人と同じ神鉄という破壊不能の材質で出来た手足と体幹、その接合部は融解した魔岩によって覆われている。

 怪物は奇声を上げて白い息を吐いた。

 そして、明確な殺意を持って私の方に振り向いた。

 

 気がつけば私は路地裏で脇見をしている最中だった。皮膚に取り付けられた電子端末のいくつかがうまく起動しない状態になっていること以外は周辺に意味のある変化は見られない。砂嵐のようにチラついたタスクスケジューラーを強制的に起動し、自分の体の左側に存在する壁に向かって左折を試みる。

 どっしりとした感触が伝わってくる。壁がVR技術で作られたものであるとは到底思えないほどに私の行動を制限しているのを確認。私は知らず落胆を覚えた。

 また日常がやってくる。私の名前はレイスーン・ザムザ。この閉じられた方舟において序列34位の遺伝子配列を持って生まれてきた精鋭であるとの教導を受けている。

 同姓同名同人格の存在が78人しか存在しないということが、私自身の持つ能力の希少性を示していた。

 方舟の中にある名も知れぬ巨神兵の解析を担うのは序列50位以内のもののみに預かれた重責であり、名誉なことである。そう教えられてもいる。私は通り抜けられない壁を左手でなぞりながら、仮想世界の街並みを歩き。巨人の残骸が描き出した同心円状の窪地跡に出来た都市群に入っていった。

 現実と仮想世界の境界に位置するこの都市を移動する時に、反重力の魔法術式を起動させる。太古の昔、巨神兵が作り出した地形的変化により、長い時を経ても、この都市部では急峻な斜面が至る所に存在し、舗装もままならない状態が続いていた。   

 私は重力に対する反作用によって、通常の6分の1の速度で落下する自分の体をマンマシーンインターフェイスによる自動制御に切り替えた。すぐさま脳の機能領域の4割をネオイェルムと呼ばれるVR空間と同期させる。

 元々は前イェルム帝国と呼ばれ、別の世界で栄華を極めたとされる彼の国も今となっては我らが故郷、ドルファルク永世帝立国が建国されてから、VR空間に版図を移し仮想空間上に存在する博覧会的な概念に過ぎないものとなってしまった。

 ネオイェルムにおいて、先ほど私が通ったネオヨークシャー大通りという場所も元々はイェルム帝国に存在したヨークシャー通りを忠実に再現し、さらに再開発を加えたものである。

 もはや我々の生活に不可欠な拡張機能となっている仮想空間ネオイェルムには大きく分けて3つの勢力が存在していた。

 現実の空間を生きる私たちに対して将来的な受肉という夢を託し、対価として様々な商品を開発、提供する種族、Glossary

 私たちにより優秀な遺伝子を提供するために自らの遺伝子改良を絶え間なく行う種族、Bleed

 この2つのどちらにも属さず、私たちに攻撃を加え、仮想空間からの脱出を図ろうと画策する勢力、Resistance

 この3つの種族各々が独自の政治色を持ち、その色に準えた旗章として掲げていた。

 

 斜面を下ると七芒星の魔法陣の中央に数字やアルファベットが刻まれた模造神鉄の円盤が見える。

 今、たまたま目にすることが出来た刻印付きの円盤に書かれていたのは数字ではなくアルファベットのPだ。Pは“PRIME NUMBER“、すなわち素数を表している。

 この蓋を開けられるのは遺伝子配列の序列が素数になっているものだけであると決められているので、私にはどうしても通り抜けることができない狭き門には違いない。円盤を越えた一歩先は国内に108ある巨人の研究施設のうち最大の規模を誇る建造物に通じるトンネルの入り口になっている。

 施設の名前はヘルヘイム。私は2と17の倍数の円盤しか通り抜けることができないため一度も入ったことがないが、情報収集に特化したマスメディア系の人工知能が発行するクォリティペーパーによると2週間前、ついに巨人の脳の構造についての解析を99.9999997%完了させたとのことだった。

 最初の1%を解析するのに7000年かかったという事実は、私たちの科学技術が指数関数的に発達することに加えて、私たちの過ごす時間の流れが指数関数的に加速していくことから考えると、なんの障害にもならなかったと思う。

 架空の世界の、こことは別の場所にいるカーツ・ワイルという人物の言った通り、私たちは至極順当にやってのけたのだ。

 私は、ただ「34」とだけ書かれているに違いないとわかりきっている左手首の電子端末を目視する。

 先ほど見舞われた奇妙な体験の前後から、文字盤上の有機ELのチラつきが収まっていない。文字盤に書かれている数字は明らかに1桁に変化していた。

 不思議な感覚に囚われた私は目を凝らして、端末に記載された文字のデータを確認しようとしたが、図らずもそれがわき見の形になってしまった。

 気がつけば私の体は、解けかけの魔法術式による半浮遊状態のままPと書かれた魔法陣の近くにまで迫っていた。

 その時の寂寞とした感情を私は生涯忘れることがないであろう。

 私の目の前で半径5mほどの巨大な通り道を塞ぐ円盤が私を迎え入れるように音を立てて開いたのだ。

 初めてみるその特別な扉の開閉は途中で七芒星の形の空洞を形作り、カメラのシャッターが開いた時のようにただの扉にしては無駄に手が込んだ作りになっていた。

 私は再度、左腕に埋め込まれている生体端末を確認した。文字盤にはただ1字だけの文字が刻まれていた。

 それは数字の「1」で間違いなかった。

 私はトンネルを抜けてヘルヘイムの最奥へと足を踏み入れていった。

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