6.『僕たちに全てを委ねてくれれば、その先にある真相を見つけ出すことができる』
『ジガ-ZIGA』にはちょっと期待しています。
能力バトルモノは数あれど、怪獣モノというのは新鮮に映る。
この違いを活かしていって欲しいですね。
ガンガン主人公くんに残酷な現実を突きつけていって欲しい。
ただ、スロースターター気味なのが心配なんですよねえ……。
「……それで、私のところに来たというわけか」
大久保こはくは、静かにコーヒーカップをくるくるとかき回しながら言った。
都内某所、とある個室喫茶へのことである。
「徳川マイトが急に会いたいと言い出して、何事かと思ったよ」
「忙しいところ、悪いね」
「悪いわけじゃないけど」
ふふん、と微笑んでこはくはコーヒーカップに口をつけた。
マイトは油断なく大久保こはくの様子を観察した。相手の一挙手一投足までもが手がかりになる、というのは調査の基本。
大久保こはくは敵ではないが、かといって味方というわけでもない。
事件の解決、という点では一致するものの、価値観が違う。アプローチが違う。責任感が違う。
簡単に言ってしまえば警察にとって事件の解決は仕事だが、マイトや遠子にとっては仕事ではない、ということだ。
「丁度事件が解決して、溜まりに溜まっていた代休もとれていたところだしね。この仕事をしていると、友達と休みが合わないのが悩みの種なんだよね」
ショートカットを揺らしてこはくは笑った。
「実のところ、私も丁度、暇だったんだ」
「そうですか。それで、僕なんかの誘いに乗ってくれたというわけですか」
「デートっぽいことしようか。映画でも見る?」
「それは有り難い申し出ですね。何見ます?」
「笑える作品が良いな」
ニヤニヤ笑いながらこはくは、
「最初に言っておくけれど、マイト、私はこう見えても職務に忠実な警察官なんだ。だから、情報漏洩はできない」
こはくに会おうとした意図はお見通しか。
それもそうか。
徳川マイトが名探偵・板坂遠子の手足であることなど、大久保こはくはよく知っている。
板坂遠子が頭脳なら徳川マイトが足。
板坂遠子が心臓部ならば、徳川マイトが腕だ。
「知っているよ、こはく」
マイトはすぐに答えた。
「大久保こはくが、職務に忠実な警察官ということは知っているよ。だから、僕はあなたに聞くんだ」
「……何を言っているの」
こはくは眉にしわを寄せた。
「だから、情報漏洩が問題にならないように人にばれないような場所を手配したんだ」
大久保こはくは大きくため息をついた。
「ねえ、マイト。私、結構これでもリスクを踏んでいるんだ。記者と二人で合うのはあまりいいことじゃないわけ。わかる?」
警察官と記者の癒着、というのは一番疑いをもたれてはいけないところであろう。
あるいは、疑いをもたれるというデメリットを越えるメリットを、記者側が提供できるか、だ。
フリーライターとしてのマイトは背後に何があるというわけでもないし、袖の下を渡すほどの財力があるわけでもない。
「わかるとも。そして、僕はあなたにそれ以上のリターンを提供できる」
「へえ?」
挑発するようにこはくは口元を歪めた。
「じゃあ聞くけれど、徳川マイト、あなたは私にどんなメリットを提供できるというわけ?」
「事件を解決できる」
「……ほぉ」
こはくは、息を吐くような声をもらした。
「僕たちに全てを委ねてくれれば、その先にある真相を見つけ出すことができる。充分なリターンだろ」
「なあに? それ」
じろりとこはくは視線を下ろした。
黒を基調としたファッションも相まって、得物を追いつめる黒豹のようだ。
「事件を解決することが、私にどんなメリットがになるというわけ? マイト」
「こはく」
マイトは、テーブルの下でぎゅっと拳を握りしめた。
ここからが正念場だ。
いかにして、大久保こはくから情報を引き出すのか。
そして、考えを引き出すのか。
それが僕の戦いだ。
マイトはそう考える。
「なあ、こはく。あんただって、安達原要の自殺が真相だと本気で考えているわけじゃないんだろ?」
ずい、とマイトは急所に切り込んだ。
安達原要の死が自殺として処理された、ということは既に報道されていた。
彼の死が自殺だと判断されたことについて一部では物議をかもしたものの、事件発覚から既に時間が経過していたこともあり、社会的注目は既に落ち着いてしまっていた。
「それは……」
こはくは、目線を下げて口ごもる。
手応えがあった。
「僕だって分からず屋じゃない。警察の立場としては、なんらかの形で結論を出さざるを得なかった、というのはわかる」
警察というのは、大きな組織だ。
そして、組織というのは大きければ大きいほど、感覚よりも論理が優先されるようになる。
極端な話、所属する百人が百人、直感では『明らかな殺人だ』と判断していたとしても、明確な証拠がなければ自殺として処理される、というのは無理からぬ話だ。
警察が悪い、という話ではない。
どちらが良い、悪いという話ではないのだ。
個人と比較して、組織というのはそういう性質を帯びている、という話だ。
だから、マイトとしても今回の一件でこはくを責めようというつもりはなかった。
ただ、『自殺として処理してしまった』という彼女の負い目を利用しようとしただけだ。
真相を解明するためならば、人の心を蹂躙することも厭わない。
それが探偵の、そして探偵の手足であると徳川マイトの振る舞いだった。
「でも、僕たちに協力してくれれば、僕たちはあなたの代わりに真相を見つけ出してみせる。警察の代わりに、遺族に安息をもたらしてやることができるんだ」
大久保こはくが、職務に忠実な警察官だからこそできる説得だった。
仮にこはくが職務に不真面目な警察官であったとしたら、こんな言葉だけで説得することは不可能だ。全く別のアプローチが必要なことになっただろう。
彼女が理想を抱き職務に忠実な警察官であればこそ、警察の片手落ちの結末に納得がいっているはずがない。
その代替を、名探偵が務めようという話に、協力してくれるはずだ。
「ったく……しょうがないなあ」
呆れた、という風にこはくは両手を広げるジェスチュアをした。
「何、遠子がそう言えって言っていたわけ? 私に対しては、そういう言い方をしろって」
降参、という意味合いだった。
「違う……こはくを口説くためのノウハウは、遠子からは受け取っていない」
しかし、仮に彼女の助力を求めたとしたら、同じような作戦を提案したとは思う。
人の心に付け込む……というと露悪的に過ぎるが、人から情報を聞き出すノウハウは名探偵の必須スキル。
ライターである徳川マイトが、名探偵板坂遠子の手足として働ける理由の一つでもある。
「ここだけの話だからね、マイト」
椅子に背もたれによりかかって、こはくは言う。
「それに、機密情報は漏らさない。広報の連中がマスコミにどういう伝え方をしたのかはわからないけど、私が外部に伝えていい、と判断した部分だけを話す。それ以上の情報が欲しいのならば、関係者に自分であたって。これでいい?」
こはくは目線をそらしたまま、早口にいった。
「充分だ。助かるよ、こはく」
「全く……板坂遠子と徳川マイトのコンビは厄介なものだね」
こはくはため息をついた。
「僕たちにとっては褒め言葉だな」
「ここの代金、おごって頂戴ね」
と、こはくはウェイターを呼んでチーズケーキとフルーツパフェを注文した。
「甘いもの好きなんだ? こはく」
「悪い?」
「悪くない」
むしろ、カッコイイ感じのこはくが甘いものが好き、というのは可愛らしくていいと思う。
「ギャップ萌えっぽくて良いね」
「ギャップ萌えって何」
こはくが首を傾げた。
「ほら……不良が捨て猫を助けるとか、普段は三枚目なのに仕事中は真剣、とかそういう奴。表面的なキャラクターと言動が一致しないことで、魅力が一層高まる、みたいなテクニックだよ。フィクションでキャラクターに魅力を感じさせるには定番」
「へ~。板坂遠子もそういうの使うわけ? 私、推理小説は読まないんだよね。それ以外の小説は読むんだけど」
「使うと思うよ。僕は読んでないから知らないけど」
「読んでないんだ……」
あぜんとして、こはくは言った。
「あなた、いつもこはくと一緒にいるからその辺は全て読破しているのかと思ってた」
丁度、ケーキとパフェが来たのでこはくは食べ始めながら言った。
「僕は板坂遠子が商業出版した作品は、一冊も読んでない」
「……んっ?」
こはくはどこか引っかかったような表情をした。
「『商業出版した作品は』、ということはそうじゃない作品は読んでるものもあるってこと?」
「そうだよ」
流石は刑事。
言葉の端を、正確に捉えている。
「あいつがアマチュアだった頃は、作品を読んだりはしていたよ」
「プロになってからは読んでない。なるほどね」
「なんだよ、こはく」
意味有りげに微笑むこはくに、マイトは噛み付くように言った。
「僕の意図がわかったとでも?」
「わからない」
こはくは言う。
「わからないけど、板坂遠子にあやかって推理を述べさせてもらえるのならば、きっと、あなたは板坂遠子の才能に嫉妬しているんだね」
見透かしたように、そう文字通り、見透かしたようにこはくは言った。
「きっと、マイト、あなたは板坂遠子の才能に嫉妬している。同時に、彼女の才能を愛してもいる。結果、彼女のそばに侍ってはいるし、彼女のために尽くす一方でどこか彼女に負けたくない、という思いもある。それが、彼女の小説を読まない、という形で現れている」
歌うように滑らかに、こはくは言った。
「いや。それも少し違うか。きっとあなたが板坂遠子の小説を読まない理由はもっとシンプルだ。それは」
こはくは長いスプーンでパフェのクリームを救い上げて、ゆっくりと動かして口へと運んだ。
「あなたが板坂遠子に恐怖しているんだ。畏怖しているといってもいい」
そして、とこはくは続ける。
「そこまで板坂遠子に敵愾心を抱いているということは、もしかしてマイトも小説家になりたかったのかな?」
「……流石は捜査一課だな」
マイトの声はかすれていた。
「だいたい正解だよ」
こはくが言った言葉はだいたい、どころかほぼ正解だった。
伊達に捜査一課で出世しているわけではない、というのがよくわかる。
マイトはかつて、板坂遠子と同じように小説家を志し、そして遠子の暴力的なまでの才能に膝を屈し、そして今に至るのだった。
圧倒的なセンスは暴力なのだ、というのを痛感した事態だった。
しかし、その吹き荒れるようなセンスに絡めとられて、逃れることもまた許されない。
結果、徳川マイトは名探偵・板坂遠子のワトソン役という中途半端なポジションに存在し続けている。
それが幸福なのか、不幸なのかはマイト自身にすら判然としない。
「僕は今でも、怖くて今でも遠子の小説が読めない」
「怖くて、というのは私が言った通りの意味でいいのかな?」
「意味合いとしては同じだと思う。ただ」
「ただ?」
「なんというか……本当の意味で、遠子の文章には魔力が宿っている」
魔力……というのは形容ではないのかもしれなかった。
デビューして数年で推理小説界の頂点へと駆け上がる筆力。
名探偵としてあまたの事件を解決してきた思考力。
時々マイトは、板坂遠子が一人の人間だとは思えなくなる。
あの小さな身体の中に、恐ろしいほど情報と思考が渦を巻いている。
彼女はまるで、人間の形をした呪いなのではないかと思う。
他人の人生をぐちゃぐちゃに改変してしまう、狂気の渦。
「一般には、魔力が宿るほどの文章って長所だと思うけど」
「こはくの言う通りだと思う。それは長所だよ」
マイトはこはくの意見を容れた。
事実、こはくの意見は正しい。
「僕が遠子と親し過ぎて影響を受けすぎると恥ずかしいというだけの話だよ。遠子と会いすらしない人にとってはむしろ美点なのは間違いないと思う」
うまく言葉にすることができない。
マイトは説明するのを諦めて、話をそう締めくくった。
「なるほどね」
得心が言った様子で、こはくはパフェにスプーンを差し入れて、底にたまったシリアルをすくって食べる。
「それにしても、へえ。そうなんだ。マイト、小説家になりたかったんだ。意外」
「そんなに意外か?」
見透かされた気恥ずかしさで、マイトの言葉はぶっきらぼうなものになってしまう。
「大学のミステリサークルで知りあったんだぜ、僕と遠子は」
「だって今の仕事、フリーライターでしょ。文字を書くぐらいしか共通点ないじゃないの」
「それについてはは怪我の功名みたいなところがある」
と、マイト。
「結局僕は商業デビューすることはなかったわけだけど、それに関連して出版社のコネクションができたので、そっちから仕事をもらうようになった、という感じだよ」
創作の才能はなかったが、模倣の才能はあった、というのが編集部の自分に対する評価らしい。
今の写真週刊誌と懇意になった発端は、連載コラムのライターが原稿を書き上げないまま失踪したことによる。
代わりにマイトが文体を模倣して書き上げた。
駆け出しのライターが、連載コラムを代筆することができたというのはそれだけ現場が混乱していたということに他ならない。
『文体』の『模倣』。
他人の文体をコピーすることができる、という才能があるということは初めの頃から自覚があった。
マイトは誰でもないオンリーワンにはなれなかったが、皮肉なことに誰かの代わりにはなるセンスがあった、ということになる。
それなら、板坂遠子の文体をコピーすれば彼女に近い存在になれる、というのは自分でも考えた。いや、板坂遠子にこだわることはない。司馬遼太郎でも、アガサ・クリスティでも、シェイクスピアでも好きな人物の文体をコピーすれば誰でもないオンリーワンになれる、とは考えた。
しかし、それは不可能だった。
小説というのは文体のみで構成されているわけではない。
ストーリーがあり、キャラクターがあり、ギミックがあり、テーマがある。
ただ文体を模倣できる、そんな小器用なだけで生きていけるわけではないのだ。
それを痛感して、マイトは努力をやめた。
「小器用にそれっぽいものを書くのはなんとなくできてしまってね。今に至るというわけだ」
もっとも、内実までこはくに説明する義理はない。
マイトはそれらしい言葉で話を終えた。
「板坂遠子ほどではないにしても、まあ順風満帆だと自負しているよ」
自分の内心とは裏腹なそんな言葉が自然と口から出る。
「へえ」
そんなマイトの懊悩を感じているのかいないのか、パフェを食べ終えたこはくはチーズケーキに移行して、
「なんの話していたんだっけ?」
と話を引き戻した。
「ギャップ萌えから……遠子の作品の話をしていたんだ」
「そうだった」
こはくはチーズケーキを先端から切り崩すようにして口に運ぶ。
「そろそろ、事件の話に入ろうか」
「済まないな」
柄にもなく自分のことを語ってしまい、気恥ずかしい。
「ええと……どこから話そうか」
こはくは視線を泳がせて考え込む。
「そうだな。安達原要本人の話から始めようか」
「頼む」
ええとね、とこはくは唇についたクリームをなめとった。
「探偵的にはまず考えられるのは、遺体のすり替えトリックだと思うんだけど」
「遺体のすり替え……」
「でも、そういったトリックはなかった」
「確認はどうやって?」
「花恵さんには確認してもらったし、通っている歯科に問い合わせて歯形の照会をおこなった。上あごは損壊してはいたけれど、下あごは確認に充分なくらいには形が残っていたからね」
「じゃ、しょうがないな……」
頭部が吹き飛んでいる以上、遺体のすり替えは確かに想定していた。
たとえば、遺体はホームレスなどを殺して用意したもので、安達原要は存命中、というようなパターンだ。頭部は損壊が激しい以上、本人確認が困難ということはありえると考えていた。
流石に、警察もそこはチェック済みだったか。
もっとも遺体すり替えは机上の空論が過ぎるとも考えていたので、ただのアイデアの一つ程度だった。
冷静に考えて、いくら動揺しているといっても妻が胴体を確認して、夫と別人を取り違えるとは思われない。
「僕としてもそんなに簡単に答えが出るとは思っていないよ」
「次に、拳銃の入手ルートだけど、それはまだ、一応捜査が続いている。そっちに関しては捜査一課の管轄じゃないから、調査チームがまだ動いている」
「それって、判明したら僕に教えてもらうことってできるのか?」
「どうかな。難しいと思うけど、やってみる」
「助かるよ」
「あとは……そうだな。マンションの監視カメラに犯人らしい姿はなかったし、マンションコンシェルジュも怪しい人影は見ていない。これは花恵さんからも聞いているよね」
「……そうか」
「結局、ここが分岐点になったようなところがある。結局、マンションの正面玄関から人が侵入した形跡が見つからないんだよね」
こはくは眉にしわをよせた。
「エントランス以外から入った可能性は?」
「本気で言っている? 地上三十階の部屋だよ」
「三十階……」
エレベーターのボタンの数を思い出しながら言った。
「それはね、もちろん、理論上の話でいえば、鉤縄で隣のマンションから渡るとか、大型ドローンにぶら下がって空中から侵入するとか、不可能ではない。けれど、やっぱり人に気取られずにそれを実行するのは不可能でしょうよ」
コンシェルジュにも監視カメラにも怪しい人物がいなかったとなると、密室を突破する方法は相当限られる。
ただでさえ、いつ安達原花恵が戻ってくるか分からない、数十分の間に、だ。
よほど入念な準備がいるし、そこまで準備を極めるのならば別のタイミングのほうがよっぽど容易に侵入できる。
「そういった点を踏まえた上で、警察の中で他に有力だった説は」
「……安達原花恵犯人説、か?」
「その通り」
マイトが引き取った言葉を、こはくは肯定した。
「密室問題を一番簡単に解決するのは、それなんだよね」
「確かに、密室問題は解決するけど、自殺説と同じで解決する、というだけだよな」
なにしろ安達原花恵ならば鍵を持っているのだから、一番簡単なアンサーだ。
「でも、それなら僕たちに解決を依頼しないよな……」
「それは……まあ、そうなんだけど」
チーズケーキを食べ終えたこはくが、またウェイターを呼んで今度は紅茶を注文した。
「そうだな、マイト。花恵さんが二重人格で、貞淑な妻の顔とは別に、殺人鬼の顔がある。これならどう?」
「こはく、それ、こはく自身が本気で信じてないよね」
「うん。言ってみただけだよ」
聞けば聞くほど、真相が思いつかない。
一体、何がどうなれば安達原要が死ぬというのだ。
「別の視点からのことも聞いておきたい」
「人間関係のトラブルなどは見つかっていない。あるとしたら、仕事関連だけど、これは普通に仕事をしていたら発生しうる程度の範疇で、決定打に欠ける……嫌というほど聞き込みしたんだけどね。マンション住人同士のトラブルもない」
「隙がないな」
「こんなことを言うのもなんだけどね……本当に、順風満帆な人生に見える。殺される理由があるとしたら、あまりにも順調な人生過ぎて、逆恨みされたんじゃないかってくらい」
本当にそんな動機だったら調べようもないけどね、とこはくは力なく微笑んだ。
「僕には想像もつかない世界だな」
「私にも想像がつかないよ」
「遠子なら、想像がつくのかもしれない。彼女の人生は成功を絵に描いたようだからな」
「かもね」
ふっとこはくはうっすらと笑みを浮かべた。
「確かに……遠子ならば、同じようにスムースな人生だから、理解を示せるかも。そうだ」
と、唐突にこはくは両手を打ち合わせた。
「これは報道してないんだけど、マイトには言っておいたほうが良さそうなことがあった」
「何それ。僕には言っていいのか?」
「いい。与太話だから」
どういうわけか、こはくはもったいぶるような笑みを浮かべた。
「なんだよ、どうしたんだ? こはく」
「実は、マイト、あなたが犯人という説がある」
「はあ?」
思わず間抜けな声を出してしまった。
僕が?
犯人?
そんなわけがあるか?
「おかしな話だな、こはく。僕は安達原要と一度しか会ってないんだぜ」
「動機からの話じゃない。どうやって殺したのか? という話」
笑いをこらえて、おかしそうにこはくは言う。
「何しろ、どこをどう調べても実行可能な犯人がいないのだから、一番怪しいのは第一発見者でしょう?」
「な……っ」
思わず言葉が詰まった。
それだけの理由で、僕を疑うのか?
「そんなことを言っても、僕には殺害が不可能だろう?」
どうやって密室を抜けるというのだ?
「例えばの話。エントランスのインターホンは鳴らす振りをして押していなかった。それから、帰ってきた安達原夫人と合流、部屋の玄関へ行き、異臭を発生させる。そして『自分一人で入ってみる』と言い出して部屋に侵入、安達原要を殺害。最低限の説明はつく」
「待てよ、待てって! おかしいだろ!」
慌ててマイトは言い募った。
「おかしいだろ。安達原花恵が外出していたのは偶然だ。それなのに、彼女が外出していることを前提にした計画は間違っているだろう? それに、安達原要の死因は銃撃なのに、遠子や花恵さんが発砲音を聞いていないのはおかしい。それに……」
「大声を出さないで。わかっているわ」
こはくは手を伸ばして人差し指でマイトの唇に触れた。
「本気にしていたら、あなたを逮捕しているでしょ」
「そうだったな」
安心して息を吐き出した。
「じゃあ、その案は取り下げられたわけか」
「もちろん。一部には最後まであなたを疑っていた向きもあったけど、結局は決め手にかけて自殺ということに落ち着いた」
これで話は終わり、とこはくは紅茶のカップを置いた。
「何か閃いたところはある? ワトスンくん」
「まだ、わからない」
マイトは、正直に今の思うところを告げた。
「容疑者が多すぎる事件っていうのはあるけれど、容疑者らしい人物が全く浮かばないというのはどうしたら良いのか、困るね」
「各方面に顔が利く人だから、人間関係は広いんだけど、基本的にはみんな評判が良いんだよね……こんなに立派な方は珍しいってくらい。恐ろしいことに、商売敵からも褒められているよ」
どうするつもり? とこはくは空になった食器を横にのけた。
「とりあえず持ち帰って、遠子の意見を仰ぐんだけど……とりあえずは、あんたたちと同じように一人ずつ人間関係を洗おうかと思っている」
「基本だね、マイト。ご苦労なこと」
しかし、それも有望な案とはいえない。
なにしろ、警察というプロ中のプロが関係者に一人ずつあたっているのだから、アマチュアの自分が一人きりで捜査を行って結果が出るかは疑わしい。
「あとは、密室の解決だな……」
マンションの二重密室。
これに対する警察のアンサーは、『自殺』だったわけだが、警察と探偵では別のアプローチができるかもしれない。
「ありがとう、こはく。大変参考になった」
「いえいえ」
伝票を手に立ち上がったマイトに、こはくは手を振った。
「私達としても、現状の、奥歯にものの挟まったような結論は望んだものじゃない。あなたたちが、私達とは違った全てを丸く治める解決をしてくれるというのならば、願ってもないこと。がんばってね」