5.『夫の死の真相を突き止めては頂けませんでしょうか?』
『Dr.stone』は本当に凄いと思うんですよね。
言ってみれば『ジャンプ版:異世界転生』なんですけど、なんと言っても説得力がある。
説得力が違えば迫力が違う。
常に身体を蝕むサバイバル感と、新しく色んなことができるようになるワクワク感に、毎週楽しみにしてる。
『ゼロからトースターを作ってみた結果』という本が『Dr.stone』の副読本としてオススメ。
イギリス人の著者が実際に原料を採取するところからしてみた、という内容の本で、製鉄・製銅やプラスチックの抽出をやってみている。
『Dr.stone』が一マスでやっていることが、実際にやってみるとどんなに大変なのか身にしみて実感できる。
『ぼくは猟師になった』という本も、獅子王くんが一瞬でやっている『革をなめす』という作業の大変さがわかる。
「なあ遠子」
「なあに? マイト」
「今晩の食事、肉じゃがでいい?」
「ほんと!? 肉じゃが食べたい!」
「おっけー、じゃあ肉じゃがと、適当に副菜作るね」
「任せたぁ。それまで仕事してるね」
「がんばってな」
家主の了解を得たマイトは、くるくるとジャガイモの皮をむき始めた。
別に、徳川マイトはハウスキーパーとしての仕事をしているというわけではない。マイトの仕事は、あくまでフリーランスのライターだ。
かといって、徳川マイトは板坂遠子と恋仲というわけでもない。
ただの友人だ。
ただの友人に過ぎないはずだったのに、今まで腐れ縁が続くようになったのは、板坂遠子が名探偵であったことが大きい。
名探偵でなかったのならば、大学を卒業して仕事に就いて、それっきりで会うこともなくなっていたはずだ。
ただ、彼女は既に、名探偵になってしまっていた。
名探偵という宿業に、絡めとられていた。
畢竟、マイトの人生もそれに絡んできてしまう。
遠子と共に多くの事件に関わってきた。
遠子によって多くの事件が解決されるのを目の当たりにしてきた。
今回の、安達原要の事件もその一つに過ぎない。
……などと思えるはずがない。
マイトは遠子ほどには割り切れない。
目の前で人が死んだのを、事件の一つなどと割り切れるわけがない。
半狂乱になって嘆き悲しんだ安達原花恵を見ると、数ある事件の一つだとはとても思えない。
だからといって、マイトにできることなど何もない。
ただ、遠子が事件を解決するというのならば、マイトがそれを心に留めていたいと思う。
遠子の絢爛の業績を彩る事件の一つだとしても、自分が忘れずにいたい。
それが名探偵のワトソン役としての責務だと思う。
「どうしたの? マイト」
目を開けると、目の前に遠子の顔があってぎょっとした。
「うお。どうした、遠子」
「どうしたもこうしたもないよ」
狭いキッチンの中で、遠子はさらに顔をよせる。
「こっちの執筆が一段落したので様子を見に来たら、マイト、寝ちゃってるんだもの」
「う……」
マイトは言葉に詰まった。
言われてみると考え事をしていたつもりで意識を失っていたようだった。
「もう。疲れているなら言ってよね。火事になったら大変じゃないの」
遠子は腰に手を当てて、叱るようにして言った。
「うん……すまない。ちょっと疲れていたみたいだ」
慌てて、肉じゃがにおたまを突っ込んで様子を見る。弱火にしていたのが幸いして、どうやらこげついてはいなかった。ニンジンを一切れつまみあげて、堅さを確認してから火を止めた。
「先日の事件?」
壁によりかかって、遠子は聞く。
マイトがどういうわけで意識を失っていたのか、と聞いているのだ。
「まあ……そうだな」
頬を張って意識を取り戻して、マイトはほうれん草を洗って茹で始めた。
「なんていうか、僕自身は関係なかったわけだけど、どこか責任感じちゃうとこあるよね」
「バカね、マイト」
ふふん、と遠子は鼻を鳴らした。
「自分が関わった事件にいちいち責任を感じていたらね、マイト、私はとうに死んじゃっているわ」
「だろうな……」
板坂遠子が関わった事件は数えきれない。
「しかも、私の場合、他人がわざわざ『もっと早く解決すれば被害者は少なかったのに』なんて言ってくれるのよ。気にし出したらやっていられないわ」
「それは……」
マイトは言葉を失った。
確かに、推理小説を読んでいると『全ての殺人事件が終わったあとでしたり顔で解決する名探偵』のような例を見ると鼻白むところはあるのだが、現実にそんなことを言う人がいるのか。
「だからさ、マイト。いちいち気にしないで、おいしいご飯を作って頂戴?」
「言いたかったのはそこか」
マイトは破顔して、ゆであがったほうれん草の水を絞る。
「遠子、ほうれん草は辛子醤油と胡麻和えどっちがいい?」
「辛子醤油」
「わかった。じゃ、すぐできるからご飯にしようか」
「ありがと」
「というか、遠子、仕事はどうなんだよ」
「新シリーズなんだけどね。結構いいアイデアが思いついたと思う。バリバリ書けているわ」
遠子はガッツポーズをとってみせた。
「そうか。頑張れよ」
「マイトはもう書かないのの?」
「書いてるよ。記事を。今週末も僕が書いたコラムが載ってる写真週刊誌が出るよ」
「いや、雑誌の記事じゃなくて、小説」
きゅっと心が締め付けられるような感覚があった。
にっ、と見透かしたように遠子は笑う。
「今のマイトなら、相当面白いのが書けると思うけどな」
「馬鹿言っているぜ」
遠子の言葉を、マイトは一蹴した。
実際、馬鹿げた話だと思った。
徳川マイトが小説を書くなんて馬鹿げている。
かつて、ミステリー研究会に所属していたからといって、みんながみんな推理小説執筆を嗜むというわけではない。
まして、推理小説界の魔人、板坂遠子がかたわらにいたら尚更だ。
自分がクリエイトしようとは思わないし、思えない。
「さあ、食事としようか」
と言うことで、敢えてその話題を話題を打ち切った。
その時、ぴんぽーん、とベルが鳴る音がした。
マイトは遠子と顔を見合わせた。
「誰か、来る予定があるのか?」
「ない」
遠子は否定して、
「出てみるね」
とインターホンの通話ボタンをタップした。
「すみません。安達原花恵と申します。板坂さんのお宅でらっしゃいますでしょうか」
「花恵さん!?」
びくりと遠子は跳ね上がった。
「どうしました? とりあえず入られてください」
とエントランスを開いて招き入れた。
「……どう思う?」
通話を切ってから、遠子はこちらに視線を向けた。
先方の意図が読み切れず、不安そうに見える。
「名探偵である遠子にわからないことを僕に聞かれても困るよ」
「そうよね……」
遠子はあごに手を当てて考え込んだ。
「何かあったのかしら?」
遠子が危惧しているのは、つまり平凡な事件であった安達原要の死が平凡でない事件になった、という可能性だ。
たとえば、連続殺人に派生しただとか、だ。
「とにかく、話を聞いてみるしかないだろう?」
「そうよね……ようこそ」
玄関まで入ってきた安達原花恵を招き入れる。
「すみません……私、安達原花恵です。安達原要の妻です」
インターホン越しではなく、直接対面してぎょっとした。
安達原花恵は、別人のようにやせさばらえていた。
ふっくらとしていた頬はこけ、皮膚はかさかさに乾いてしまっている。艶のあった髪も、老婆のようにしおれてしまっていた。
数日の間にまるで、十年も二十年も一気に歳をとってしまったように見える。
「ああ……この度はどうも、御愁傷様でした。どうしてここを?」
あまりの変わりようにぎょっとしたのか、遠子は一瞬だけ言葉に詰まった。だが、流石にすぐに自分を取り戻して問いかけた。
「お住まいは、大久保さんより伺いました」
どんよりと落ち窪んだ目で花恵は遠子を見た。
「大久保……大久保こはくですか?」
遠子は首を傾げた。
彼女が首を傾げるのもわかる。
大久保こはくはああ見えて、一流の刑事だ。遠子だって、それはよくよく理解している。
だからこそ、個人情報をあっさりと関係者に渡すことが解せないのだ。
遠子はちらりとこちらを見て、片手を振った。
話はわからないが、ともかく茶を淹れるよう言っているらしい。
「どうぞ。外は寒かったでしょう」
と花恵を招き入れた。
「どうなさいました?」
マイトが淹れた茶を間に挟んで、遠子と花恵は向き合った。マイトはどこに座ったものか悩んだ挙句、遠子の隣に腰を下ろした。
「突然の訪問でさぞ驚かれたことと思います」
枯れ木のような身体で、花恵はぜいぜいと細い息を整えた。
「大久保さんからの連絡がまだだったようですね」
「……というと」
「大久保さんから連絡先を教えて頂きました。大久保さんからは板坂さんに連絡をいれておくという言葉がありましたが、順番が前後してしまったようですね」
「なるほど……つまり、急を要する要件ですか」
遠子が息を吐く。
穏やかならざる事態のようだ。
「そういうわけではないのですが……私が我慢できなくて、参りました」
花恵はうつむいて、ため息をついてから切り出した。
「お話が……お願いがあります。板坂さん」
「はい。わかりました、ミセス・安達原」
こうして顔を見合わせていても仕方ない。
そう判断したのか、それとも別の思惑があるのかはわからないが、遠子は安達原花恵に先を促させた。
少なくとも、話を聞くことで安達原の気持を落ち着かせるくらいの効果は望めるだろう。
「なんでしょう? 願いというのは」
そう言いながらも、遠子の言葉はどこか頼りない。
「今になって私にできることは多くないと思いますが」
彼女の言う通り、今さら遠子にできることがあるとも思われない。
いくら多くの事件を解決した熟練の名探偵といっても警察以上の働きができる局面は多くない。
既に警察が殺人事件として大々的に動きを見せている以上、名探偵ができることは限られている。
「しかし、私にできる範囲のことならばできるだけ協力したいと考えています」
「実は、昨日、夫の死を巡る捜査本部より、解散の目処がついた……という連絡がありました」
ぽつり、ぽつりと絞り出すようにして安達原花恵は言葉をつむぐ。
「では、犯人が見つかったのですね?」
遠子はちらりとマイトへと視線を向けてきた。
マイトは首を横に振る。
仕事柄、ニュースは毎日チェックしているが、犯人が逮捕されたという報道はまだなされていない。
状況が読めない。
一体、何が起きているというのか?
「いいえ、犯人は見つかっておりません……というよりも、警察は犯人を探すことをやめました」
押し出すようにして、花恵は言う。
花恵の澱んだ瞳から、ぽたりと涙が落ちてテーブルに落ちた。
「……どういうことです? 花恵さん」
マイトも、思わず脇から口を挟んでしまった。
「警察は、犯人を探すことを諦めたっていうんですか?」
「詳しく教えてください、花恵さん。場合によっては、私が警察に圧力をかけることも考えますが」
ぎらりと光った遠子の目は本気だった。
名探偵・板坂遠子は各界に太いコネクションを持つ。
それは警察に限ったものではなく、経済界や政界でも遠子に借りがある人物は多い。
圧力をかける、という表現は大げさなものではない。
実際に、彼女が発見した証拠をもって交渉し、一度は解散しかけた捜査本部が再び動き出した、という事例もある。
「いいえ」
しかし、遠子の言葉は遮られた。
「大久保こはくさんの仰ることには……夫の死は自殺だ、というんです」
「自殺……」
遠子はぽつりと呟いた。
「大久保さんのいうことには……どこのルートを洗っても、夫を殺した人間が見つからないというんです」
殺した人間が見つからない?
しかし、それでは捜査を打ち切る理由としては弱いだろう。
そもそも、誰が殺したのか、それを調べるのが警察の役目だ。
「もう少し、詳しくお教え願えますか、花恵さん」
慎重に、遠子は言った。
探偵が一番やってはいけないのは、不十分な情報に基づいた拙速な判断だ。
手が届く情報は、確実にかきあつめておかないといけない。
「警察だって、無能ではありません。その判断を下したというのならば、それなりの判断があったのだと思いますが」
というよりも、過剰に手続きを重視するのが警察という組織である。
判断を下したというのならば、判断を下したなりに理由があるはずだ。
「それは……」
ゆっくりと、花恵は言った。
言葉を発するために唾を飲み下すのにさえ苦労している様子だった。
「動機がある人間が見つからない。そう聞きました」
解しがたい、というように遠子は表情を歪めた。
「その言い方では、花恵さん、まるでご主人が……」
聖人君子か何かのようではないか。
まるで、殺されうる動機が、ひとひらもないかのような。
もちろん、殺されていい命などこの世に一つもない。
しかし、殺される理由を全く持たない人物もまた、この社会には存在しえないだろう。
「遠子」
マイトが口を挟んだ。
「なに? マイト」
「花恵さんが言っていること……というか、警察が言うことか。警察が言っていることは大げさじゃない」
野菜ソムリエ、安達原要。
癖のある人物であったことは否定しないが、それでも誰からも好かれる人物であった。
「あの人は、そういう人だよ。殺される理由がないというのもさもありなんということだ」
「そう……か」
遠子はぎゅっと目を瞑り、
「でも、マイト。あなた、取材するのに苦労したって言っていなかった?」
「それは、まあそうだな」
マイトは認める。
「だからといって殺そうとは思わない。殺そうとまでは思わせないということだよ」
「でも、強盗などに殺されるという可能性はあるでしょう?」
眉をひそめて、遠子は言った。
「そういう可能性だってあると思うけれど、どうかしら」
「加えて」
と花恵。
「オートロックを突破できる人間がいない、大久保さんはそう話してくれました」
「密室……」
まるでそれが忌まわしい呪文か何かのように、遠子は呟いた。
「密室殺人。密室を突破できる人物がいない。それが警察の根拠なのですね? 花恵さん」
「はい」
花恵が頷くのを見て、遠子は顔に手を当てて考え込むような素振りをした。
「エントランスのコンシェルジュ、それにマンション内の防犯カメラ、そしてエントランスと玄関口に設置された二重のロック。それを突破した人物が見つからないし、突破する手段がありそうもない……と仰っていました」
「そう……ですか」
ギリギリと、遠子は悔しそうに歯噛みする。
「仮にそもそも、密室自体が偶発的なものですから」
そう。
その点も無視できない。
綿密な計画を仕立てた上でなら密室を打破することが可能かもしれないが、いつ家人が帰ってくるかわからない状況で実行するとは思えない。
二人暮らしならば、もっとチャンスはいくらでもあるはずだ。
「最後に、拳銃の入手ルートからも手詰まりのようです。その三点をもって、夫は自殺したと結論づけました」
自殺。
一見突飛なようでいて、説明はつく。
状況の不自然さを別にすれば、鍵をかけた部屋の中で死んでいたというのならば、自殺したというのが自然な考えだろう。
「しかし……、しかし」
マイトはいつの間にか声を荒げていた。
まるで自分が非難されてでもいるかのように、反論が口から迸る。
「要さんにそんな、自殺しそうな予兆があったんですか? 私がインタビューした時はそうは見えませんでしたが」
第一、自殺するにしてもタイミングというものがある。
発作的に自殺するにしても、これから来客を迎える時に自殺する人間がいるか?
「自殺する動機など、ありません。あるはずがないんです」
花恵はかぶりをふる。
「仕事も順調でしたし、人間関係にも問題はなかった……と思います。ですので、私は腑に落ちないんです。夫が死ぬはずがないんです」
安達原花恵の声は切実だった。
「にも関わらず、警察は彼の死を自殺と断じた」
マイトが興奮しているのとは対照的に、板坂遠子の声は氷のように冷えきっていた。
冷静というよりも、いっそ非情と言ってもいいかのような冷たさだった。
「それで、花恵さん。私にそれを話した理由はなんですか?」
と直截に聞いた。
板坂遠子は、事件の解決を以来された時はこんな口の利き方をする。
つまり、当事者に決断を促すのだ。
遠子自身に危険が迫っているようなケースは別にしても、あくまで決定を下すのは当事者本人。
名探偵はそのための道具に過ぎない。
それが、板坂遠子の探偵哲学だった。
彼女自身は感情で動くことの多い暖かみのある人物ではあるが、彼女は探偵が必ずしも人を幸福にしないことを知っている。
当事者に後悔があってはならない。
いや、どんな決断をしたとしても後悔は残るものであろうが、それでも、本人が決断するべきだ。
「はい……わかっております」
遠子の意図を汲み取ってか、花恵は頻りに頷く仕草をした。
「その上でお願いします。板坂さん。どうか、夫の死の真相を突き止めては頂けませんでしょうか?」
「わかりました」
遠子は即答した。
「請け負いましょう、花恵さん。この名探偵、板坂遠子が徹頭徹尾、余すところなく詳らかに真実を解き明かしてみせましょう」
超越者の自信と慈母のような優しさをもって、板坂遠子は事件を解決すると断言した。
「大船に乗ったつもりで、安心なさってください」
「ありがとうございます……っ」
感極まった様子で泣き出す花恵を、マイトはどこか冷めた目で見ていた。
板坂遠子が仕事を請け負うのはいい。
小説家にして名探偵。板坂遠子にとってはどちらも欠けることができない両輪だ。その役目を果たすのは、彼女のレゾンデートルといってもいい。
だが、しかし、この事件は彼女が今まで解決してきた事件とは意味が違う。
容疑者が多いという事件なら経験がある。
板坂遠子は数千人の密室殺人を半日で紐解いたこともあるのだから、人数の多さというのは問題にならない。
だが、容疑者がいない事件というのはどういうことだ?
日本の警察は有能だ。大久保こはくは板坂遠子のライバルといってもいいほど優秀な警察官だ。
足を棒にして、砂を積むようにして聞き込みを行ったはずだ。
そこまでして容疑者がない。
その意味合いを、板坂遠子はどこまで理解しているのだろうか?
「……どう思う? マイト」
遠子の声に、ハッとマイトは自分を取り戻した。
板坂遠子は泣き出した花恵の背中をなでながら、マイトに視線を向けていた。
「あなたの意見を聞かせて? マイト」
「僕の意見か?」
「だって、私は件の……仮に被害者とするけれど、その安達原要さんと顔を合わせたことすらないんだもの。あなたは少なくとも面識はあったわけでしょ。それを前提に今の花恵さんの話を聞いて、どう思う?」
「そうだな……」
マイトは、慎重に口を開いた。
自分の一言が、名探偵板坂遠子の行動を大きく左右する可能性がある、と思うといつものように無責任なことは言えない。
「確かに、こはくが……警察が下した、自殺という結論には違和感があるとは思う」
「具体的には?」
打てば響くように、すぐに板坂遠子はレスポンスを返した。
「自殺というには状況がおかしすぎる。花恵さんの言う通り自殺の動機がないというのもあるし、僕たちが尋ねる直前、それに花恵さんが外出したわずかな時間。そのタイミングで自殺するなんて異様という他ない。自殺ならば、いくらでもタイミングがあったはずだ」
自分が尋ねる直前に自殺するなんて、まるで自殺した後、すぐに発見して欲しかったみたいじゃないか?
いや、発見されるよりも前に、自殺しようとしたところを発見されてしまう可能性だってある。
もっと確実に自殺する方法はいくらでもある。入水だろうが感電だろうが投身だろうが、もっと簡単で確実な方法がいくらでもあるのに、家族がいつ帰ってくるかもしれない状況で頭蓋を撃ち抜くのは、腑に落ちない。座りが悪い。すっきりしない。
拳銃の入手経路も気にかかる。
自殺だとしたら、自殺のために拳銃を入手したのか? そんなことをしなくても首を吊れば済む話なのに?
何か、もっと別の誰かの手引きがあったと考えたほうが理にかなうというものだ。
自殺、という結論はただ整合性を合わせられなくもない、というだけのことで説得力という言葉からはほど遠い。
一つ二つなら見逃せても、そうした事実が積み重なれば不自然という他ない。
「そうね。この事件のおかしな点をうまく言葉にしたわね。『状況がおかしすぎる』、それに尽きる」
満足げに、遠子は頷く。
「お金は、可能な限りお支払いしますので……」
がさがさに乾いた唇で花恵は言った。
「お代は結構です、花恵さん。自殺扱いということは、保険金も受け取れていないのでしょう。ここで出会ったのも一つの縁。この一件については、私に預けてください」
「しかし、それではあまりにも……」
あっさりと請け負った遠子に、戸惑った様子で花恵は言う。
「いいえ。これは私にとっても取材のようなものです。気になさらないで」
遠子はぴしりと指を一本立てた。
「一週間。そうですね、とりあえず一週間以内に連絡をいれます。ですので、どうか、気に病まれないでください」
そう告げて、あとはゆっくり休むように伝えて、花恵を帰らせた。
「珍しいな。積極的に事件を請け負うだなんて」
花恵をエントランスまで見送ってから、夕飯にしよう、とマイトと遠子は部屋に戻った。
「自分の命に関わりそうな事態はともかく、ああいう手合いは断ることも多いのに」
「……まあね」
歯切れ悪く、遠子は答えた。
「一度関わった相手だしね……色々考えていることはあるけれど、結局、困っている人を見捨てられない、というところがあるのかも」
「それだけじゃないだろ」
「うん……今回は、あまりにも不可解な点が多過ぎて、それが気になっている。花恵さんに告げた、取材になる、というのも嘘じゃないし」
口元に手を当てて、遠子は考え込む。
「こはくはあまり気に留めていなかったけど……探偵としては、やっぱり密室が気になる」
「その点は、確かにな。あのマンションはエントランスのオートロックに加えて、玄関の施錠された扉。二重の密室で、そう簡単に突破できるものじゃない」
「誰があの鉄壁の密室を突破できるのか。そこから当たるのか」
肉じゃが、ほうれん草の辛子醤油和え、それに大根の味噌汁という食事を盆に乗せて、食卓へと運びながら言う。
密室をクリアする方法が限られているということは、密室をクリアする方法さえわかれば実行できる人物は限定される。
「それは理屈だけどね……」
頂きます、と手を合わせて食事を開始した。
「実際、どう思っている? 遠子」
「どうって?」
「こはくだってお手上げってことだろ。話を聞く限りは」
今日の肉じゃが美味しいわね、と遠子は一呼吸置いて、
「こはくがお手上げとは限らないわ。警察としてはそう判断せざるをえない……という可能性もある」
「うん?」
「警察の判断と、こはくの判断は必ずしもイコールではない」
警察という組織としてはそう判断せざるを得ないにしろ、大久保こはく個人として考えていることはまた別にあるかもしれない、ということか。
「こはくとしてはまだ疑念を持っているポイントはあるけれど、警察としてはこれ以上労力を避けない……とかね。ともかく、まずはこはくから、直接話を聞きたいな」
「そう。最初はそこからね」
「忙しいだろうけれど、がんばってな、遠子」
「え?」
ほうれん草の胡麻和えを箸の先でつまんだまま、遠子は動きを止めた。
「え?」
「えっ、ってなんだよ遠子……」
「ごめん、マイトも協力してくれる前提で考えてた」
「ええ……」
戸惑って、マイトは声を漏らした。
遠子の箸先から、ぽとりとほうれん草が皿に落ちる。
「そういうのは先に言ってくれよ。僕だって暇を持て余しているわけじゃない」
遠子からしたらいつも遊びに来ているように見えるかもしれないが、こちらの仕事もそれなりに忙しい。
第一、遠子のように唸るほど金があるというわけではない。
常に尻に火がついているといってもいい。
「ダメ?」
上目遣いに、遠子は言う。
「ダメならダメで良いんだけど。私は忙しいけど、なんとかして時間は工面する。一週間って区切ってしまったし」
「ぐ……っ」
マイトは言葉に詰まった。
自分だって、文壇のトップランナーである遠子の忙しさはよく知っている。
それに、安達原要との接点を作ったのはマイト自身であるし、彼の死に不審な点があるのは疑う余地がないことだ。
「しょうがないな」
いつも、こんなことばかりだ。
板坂遠子との付き合いでは、自分がやり込められてばかりだ。
「一般的な調査費用ぐらいは払ってくれないか?」
だが、まあいい。
「オーケイ、それで手を打ちましょう」
板坂遠子は我が意を得たり、と手を打ち合わせる。
こうして遠子に手玉にとられるのも、学生時代を思い出すようで、悪い気持ではなかった。