2.『人に歴史あり、というわけね』
ジャンプの連載陣で今一番楽しみにしているのは『火ノ丸相撲』。
面白さではぶっちぎっている。
蜻蛉切が鬼丸に対して『たかが花相撲だろ?』というシーンが好き。
『聖の青春』で村山聖が弟弟子に『やる気がない。死ぬ気で将棋を指さないならやめてしまえ』と述べるシーンを思い起こさせる。
文字通り、文字通り死ぬ気でやっている人には勝てない。
「どこかに夕食を食べに行くか?」
冬が深くなり、早くも闇の帳が降りつつある空を見ながら、マイトは言った。
コーヒーをゆっくりと口に運ぶ。
「『偉人』シリーズ完結記念におごるよ」
「どうしようかな」
と遠子は丸い瞳でマイトを見上げた。
「良いの? 甘えちゃっても」
「良いよ。寿司でも、中華でも、イタリアンでも」
「なんでもいい?」
「いいとも」
そう答えながらも、マイトの喉はごくりと音を鳴らしていた。
現実問題として、徳川マイトの収入は多くはない。フリーのライターであるマイトはジャーナリスト業界においては所詮はいくらでも代替が効く存在であって、将来にはなんの保証もない身だ。
対して、板坂遠子は押しも押されもせぬ小説界の旗手である。名だたる賞に名を連ね、出版した本は残らず平積みにされる推理小説界の魔人。
同じ将来の確証がない身とは言えど、その収入はマイトの数十倍はくだらない。
つい数年前まで同じように胡乱な大学生だったのに、どうしてここまで隔絶した差がついたのか、悩んだこともないではない。
しかし、それはそれとして、板坂遠子のシリーズ完結を言祝ぎたい気持は本当だった。
「じゃあ、マイト、私、あなたの手料理が食べたいな」
板坂遠子が発した意外な言葉に、マイトは言葉を失った。
「ほら、マイト? 大学生の頃はよく私に手料理を振る舞ってくれていたじゃない。だから、同じように料理を作ってくれたら私、とても嬉しいわ」
「……気を使わせてしまって悪いな、遠子」
「別にそういうわけじゃないのよ、マイト。実はこれから仕事部屋でミーティングがあるので、仕事部屋に戻らないといけないのよ」
とことんまで、気を使われてしまっていた。
歴史上稀なまでに成功した推理小説家は人間関係のコントロールまでお手の物だ。
「ミーティングって誰と?」
「東京文芸社の編集。小比類巻さん」
遠子が口にしたのは、『偉人』シリーズの担当編集だ。
「『偉人』シリーズは完結したんだろう? 次回作か?」
「それもあるけど」
と、板坂遠子。
「担当替えがあるみたい。新しい人と一緒に来るって言っていたわ」
「ふうん。いい人だと良いな」
「ま、出版社にとっては私は金の卵だからね? 悪いようにはしないと思うわ」
遠子は胸を張る。
「私の仕事部屋、食糧がないから一旦スーパーに寄って材料を買って、それから私がミーティングをしている間に料理をしてもらい、その後食事。というプランニングでどうかしら」
「わかった。何が食べたいとかあるか?」
「和食がいいな……筑前煮、とか作ってもらえたら嬉しいかな」
口元に指先を当てて、
「筑前煮って、もうちょっと豪勢なものでもいいぞ?」
祝いと言った手前、流石に気後れしてマイトは言う。
「良いの。私が食べたいんだから」
推理小説界の女帝は既に決定事項のように言い切った。
「私のために、最高の筑前煮を作りなさい、マイト」
「はいはい。分かりましたよ女王サマ」
頷いて、マイトは立ち上がった。
話をしていた喫茶店は遠子が住んでいるマンションと仕事部屋の中間の位置にある。ついでにマイトが住むアパートからも来るのが楽な位置関係なので、二人が落ち合う時はよくそこに集まるようになっていた。
学生時代は集まる場所がいくらでもあったけど、社会人になると不便なものね、というのは遠子の弁。
マイトは遠子と連れ立ってスーパーに寄って買い物を済ませ、彼女の仕事部屋に向かった。
「今さらだけどさ、遠子。家と仕事場を分ける意味ってあるのか?」
「というと?」
遠子は横目でこちらを見上げた。
「僕みたいな貧乏ライターからすれば、家賃がもったいない気がするって意味だよ」
買い物をしている間にすっかり日が暮れてしまい、大した量の買い物をしたわけでもないのに息が白く染まる。
「大した意味はないんだけどね」
と遠子。
「ほら、私って大作家じゃない? 多少お金をかけてでも、執筆が捗ったほうが割に合うというわけよ」
「自分で大作家って言っちゃうのか?」
「言っておくけどね、マイト」
歩きながら、遠子は白い指を立てて言った。
「あなた、私の友達だから実感がないかもしれないけど、この年齢で私より売れている作家はそうはいないわよ」
「……だろうな」
「同じ年齢でなら、赤川次郎先生より売れていると思うわ」
「御大は遠子の年齢じゃまだデビューしてないからそりゃそうだろ」
「バレたか」
遠子はピンク色の舌を出した。
「マイトだからちゃんと説明するけど、私の売り上げだったら数十万円の投資で執筆効率が上がるなら安い買い物だと思ってるわ」
「……ま、そうなんだろうな」
明日の食費に事欠く……というわけではないにせよ、来月の家賃の工面に頭を悩ますマイトには想像もつかない世界である。
「椅子やデスクも結構お高い奴なのよん。座ってみる?」
「やっぱり違うものなのか?」
「少なくとも腰痛とは無縁ね」
「羨ましいものだ」
値段を聞こうと思ったが、聞いてもどうにもならないことに気づいて聞くのをやめた。
木っ端記者のマイトは、そもそも腰痛になるほどデスクに張り付くこともない。
足で情報を集めるか、そうでなかったら虚無からでっちあげるかのどっちかだ。
「何時から打ち合わせ?」
「ん……」
遠子は腕を捻って腕時計を確認して、
「あと二十分くらいかなー。そろそろ戻ろうか」
と言って、遠子は先に立って歩き始めた。
「待てよ、僕は荷物を持っているんだってば」
マイトは両手に持ったビニール袋を持ち直して、慌てて板坂遠子の姿を追いかけた。
遠子の仕事部屋に着いて荷物の整理を終えるのと、インターホンが鳴るのはほとんど同時だった。
「はいは~い。上がってきて頂戴」
マイトが荷物の整理をしている間に服を着替えて、仕事用のシンプルなファッションに着替えた遠子が上機嫌に言う。
「時間通りだな」
「うん。小比類巻さんはそこが好き」
小比類巻孝志。
マイトも何度か顔を合わせたことがある。
穏やかで物腰柔らか、紳士的な男性、という印象を持っていたが、遠子が以前語っていたところによるとああ見えてやり手で、編集部のエース。ゆくゆくは編集長へと目されている人物なのだそうだ。
噂によれば、本来ならばもっと早く編集長の椅子についているはずの人物だったが、『偉人』シリーズの編集を代われる人物がいなかったので一介編集者に甘んじていた……ということも耳にする。
話半分に聞くにしても、敏腕であることは事実なのであろう。
「ええと、三人分の茶を淹れればいいのか?」
お茶を淹れる都合から、遠子に質問をした。
使用人でも秘書でもないマイトには別に茶を淹れる義理はないのだが、ついつい聞いてしまうのはいつも遠子に世話になっているせいか。
「そうね。私と、小比類巻さんと、あともう一人。新しい担当の方」
そうこうしている間に、部屋のインターホンが鳴って遠子は二人を部屋へ迎え入れた。
「どうも、板坂くん」
「お世話になっております、小比類巻さん」
柔和に挨拶を交わした後から、ぴょこりと初めて見る女性が姿を現した。
「勅使河原唯です。お世話になってます」
シャープな金属フレームの眼鏡をかけた勅使河原は、落ち着いた風貌には見えるもののまだマイトや遠子とそう変わらない年齢に見える。
とはいえ、遠子の担当を引き継ぐ以上見た目通りの若いだけの人間ではないだろう。
「わ。勅使河原さんが新しい担当になるんですか」
彼女の姿を見て、遠子は表情を綻ばせた。
「そちらの男性は……?」
勅使河原がそういうのを受けて、マイトは名刺を取り出して、
「徳川マイトと申します。東京文芸さんにはいつも助かっています……といっても、僕がお世話になっているのは写真週刊誌のほうですけど」
「徳川さん……珍しい苗字ですね」
勅使河原は眼鏡のフレームに手を当てて言った。
「勅使河原さんだって結構レア苗字ですよ」
マイトは交換した名刺に目をやる。
「異動次第では、一緒に仕事をすることがあるかもしれませんわね」
勅使河原は口元に手をやって微笑んだ。
「あ、つい名刺交換しちゃいましたけど、僕は部外者なんで。すぐいなくなりますよ」
「存じ上げておりますとも……徳川マイトの雷名は」
勅使河原唯はうっすらと笑みを浮かべた。
「『名探偵』の板坂遠子の用心棒にして最大の相棒。現世のワトソン。徳川マイトさんの雷鳴は聞き及んでおります」
「なんですか……ソレ」
マイトは首を回して遠子を見た。
「遠子、なあ、お前、僕のことをそんな風に言い触らしているのか?」
強い口調で問いかけると、遠子はわざとらしく目線をそらした。
「ちょっと待て、ねえ、結構恥ずかしいんだけどこれ言い触らしているのか? 遠子」
「別に、そういうわけじゃないのよ」
遠子は子供のように口を尖らせた。
「ただ、ほら、マイト? 私だけ名探偵だなんて恥ずかしい名前で呼ばれるのは面白くないじゃない? だから、編集部にはそんな感じでマイトのことは伝えてあるの」
「僕に被害を拡大しただけだろ!」
「私独りが笑い者よりはいいじゃない?」
「よくはないだろ……」
遠子が受けるのは賞賛だが、ワトソン役にむけられるのは必ずしもそうではない。
実のところ、名探偵板坂遠子のパートナーとして遠子のファンからはやっかみめいた感情を向けられたことも一度や二度ではないのだ。
「ふふふ、噂に違わず仲がよろしい」
勅使河原に笑われて、マイトは言い争うのをやめた。
「すみません、仕事で見えられたのに」
いえいえ、と勅使河原はやんわりと言う。
「伝説の夫婦漫才を見られて光栄です」
夫婦漫才と言われて、マイトは複雑な気持で眉をひそめた。
「打ち合わせをするんですよね? ではごゆっくりとなさってください」
と客間を辞し、マイトは遠子の仕事場のキッチンに足を踏み入れた。
遠子には遠子の仕事をしてもらっている間に、例の祝いの食事を作るほうに取りかかろう。
うまくいけば、遠子の打ち合わせが終わったあたりでできあがるだろう。
一度、茶を淹れて三人に出した切り、料理に集中した。
ビニール袋にいれて買ってきたものは、鶏むね肉、ニンジン、レンコン、ごぼう、それにこんにゃく。
既に遠子のキッチンの勝手は把握しているので、まずはコメを洗って炊飯器をセットする。
それから、勝手に包丁を取り出して里芋の皮をむき始めた。
普段ならばざっくりと野菜を切るだけ、むしろそのゴロゴロとした質感がいい、そのぐらいに考えていたが一応今日は祝いの日である。普段はしない面取りもしっかりしておくことで、少しでも祝いの気持を伝えたい。
材料を切り終えると、まずはこんにゃく、次いで鶏むね肉を炒める。
普通なら煮物は火が通りづらいもの、出汁が出るものから加熱するのが王道だが筑前煮の場合は野菜が全て根菜なので、煮える時間にそう大した違いはない。
途中、ニンジンの堅さを確認しながら、途中砂糖、醤油、料理酒、白だしで味を整えた。
その傍ら、出汁の素を使って豆腐とワカメの味噌汁も作っておく。
しばらく、筑前煮を煮ている間に仕事のメールチェックをしていると筑前煮が煮詰まる甘い匂いが広がってきた。
「お、もうすぐできそう?」
と遠子がキッチンを覗き込んできた。
「そろそろだな……というくらい。そっちは?」
目線を向けると、勅使河原もメガネ越しにこちらを覗き込んでいるのが見えた。
「こっちも、仕事の話はだいたい終わって、雑談していたところ」
「そうか」
「ねえねえ、マイト、勅使河原さん、子供の頃、イタリアで暮らしていたんだって~」
「へえ。イタリアですか」
マイトは煮物の火を止めて、客間のほうへと向かってソファへと腰を下ろした。
小比類巻・勅使河原の二人と会釈を交わす。
「イタリア語、堪能なんですか? 勅使河原さん」
「いえいえ、全然。ほんの小さな子供の頃、数年過ごしただけなんですよ」
恥ずかしそうに、勅使河原は笑う。
最初はクールそうな印象を受けた勅使河原だが、笑っているところを見ると印象がぐっと変わる。
「学生時代にアメリカに留学したりはしましたけど、子供の頃以来イタリアに行ったことはないんですよ」
「なんでそんな話になったんです?」
「ほら、私が前書いた、『カエサルの杭』あるじゃない?」
板坂遠子が胸を張る。
「ああ……あれね」
『偉人』シリーズの三冊目だ。タイトル通り、海外編のエピソードだった。
「そうか。カエサルってことはローマ帝国の話ですものね」
「そうそう。あれの頃、勅使河原さんが担当だったならもっと楽に書けたかもって話をしていたのよ」
「恥ずかしながら私も勅使河原が帰国子女だったことなんて知らなくて」
小比類巻も笑いながら頭をかいた。
「編集部にそんな人材が眠っていたと知っていたら協力させたのですが」
「すみません。いざという時に役に立てなくて。でも、これからは頑張りますよ」
勅使河原はガッツポーズを作ってみせた。
「イタリアには、ご家族の都合か何かですか?」
「ええ」
勅使河原は頷いた。
「父の仕事の都合で。父が商社マンなんですよ。三か国後喋れました」
「うわ。すっご」
遠子が目を丸くした。
ちなみに遠子は語学はからっきしである。以前、二人で海外旅行に行ったことがあるが、日本語で無理矢理押し通していた。
「喋れました、っていうのは?」
「日本語と英語とイタリア語が喋れたんですけど、今は北京語も喋れます。本当にできた父です」
「勅使河原さんは? やっぱり語学得意なの?」
「いえ、私はそっちのほうはとんと」
ぱたぱたと勅使河原は手を振って否定する。
「実は、イタリアにいた頃にテロに巻き込まれちゃいまして。それ以来、すっかり海外が怖くなっちゃいまして」
「テロ?」
「そうそう、爆弾テロですよ」
勅使河原は口を尖らせた。
仮に彼女が二十代半ばと仮定すると、二十年前はアフリカ難民の流入からくる異文化とのコンフリクトで、治安の悪化が叫ばれ始めた時期であった。
そうした衝突が本格化するのはもっと後なので、そうした嚆矢に巻き込まれたのだとしたら運が悪い。
「それがきっかけで、父は私と母を日本に帰しちゃいまして。それから色々あって、今は編集者というわけです」
「ふうん……人に歴史あり、というわけね」
感心した様子で遠子は言った。
「『カエサルの杭』では機会に恵まれなかったけど、勅使河原さん、あなたのイタリア経験も何かの機会に活かしたいわね。『偉人』シリーズが完結したけれど、別の新しい作品で現代イタリアが舞台の作品は書いてみたい」
「うーん、それは力になれるかはわかりません」
照れたように、勅使河原は言う。
「今でもかなりトラウマなんですよ、海外が。イタリアどころかアジア圏、一番近い台湾や韓国ですら苦手意識があります」
「なるほどねえ。子供の頃の印象って思いのほか強かったりするものね」
そろそろ私達はおいとまを、という小比類巻の声で会話は中断された。
「あら、すみません、小比類巻さん」
その声を受けて、遠子はぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、先生には色々と話を伺いたいんですけれど、今、編集部の再編で一段と忙しくて。帰ってまた残業ですよ」
「でも、この度編集長に出世なさったのでしょう?」
遠子はちらりとマイトのほうに目配せした。
どうやら、編集長に最も近い、という話は噂だけでは済まなかったらしい。
「いや~、編集長なんて責任が増えるばっかりですよ」
と笑いながら小比類巻は立ち上がった。
「気楽な下っ端として編集をしているのが性に合っていたんですけどね、引き受けてしまった以上仕方ありません。やるからには板坂くんに負けないくらいがんばりますよ」
「残念です」
とマイト。
「時間があれば、夕食をごちそうしたかったのに」
といったのはただのリップサービスだ。
遠子のリクエストとはいえ、筑前煮ではちょっと格好がつかない。
人様をディナーに招待するのならば、もうちょっと豪勢な見た目の料理をチョイスしたい。
「徳川さんの料理の腕前は聞き及んでおります」
勅使河原が微笑んだ。
「またの機会にご一緒させて欲しいです」
それでは、と勅使河原は遠子に向き直った。
「原稿、今月中によしなにお願いしますね」
「はいはい。任せてくださいな」
遠子は手を振って応じる。
「大丈夫だよ、勅使河原」
横から小比類巻が肩を叩いた。
「板坂先生の一番凄いところは、絶対に原稿を落とさないところだ」
「小比類巻さん、それ、褒めてないですね……」
笑い合ってから、二人の編集者はばたばたと慌ただしくこの部屋を後にした。
「担当編集の交代か」
二人に出した茶を片付けながらマイトは言った。
「担当編集の変更ってよくあるのか」
「たまに」
「たまに、か」
「さ、ご飯にしましょ」
「だな」
茶碗や湯のみを片付けて、食卓を整える。
「うーん、やっぱりマイトの筑前煮、美味しそう。てりってりだねっ」
「こんなんで良ければいつでも作ってやるよ」
実際、料理をするのは好きだし、大した手間というわけでもない。
「いっただっきまーす」
上機嫌の様子で、遠子は食事を始めた。
「うん。美味しい。野菜の絶妙な火の通り加減がいいね!」
「そんなに無理して褒めないでもいいよ……」
大したことをしたわけでもないのに、あまり褒められると逆に照れくさい。
「いやいや、本当にね。私はマイトの料理大好きだから」
「なら、まあ良いんだけどさ」
褒められて悪い気はしない。
板坂遠子は日頃から褒められなれているのだろうが、マイトはそうではないわけだし。
「やっぱり私としては、感謝とか応援とか、そういうのはちゃんと伝えるのが大切だと思っているわけよ」
「そうなの?」
マイトは首を傾げる。
「遠子の立場なら、そういうのは言われ慣れているのかと思っていたけど」
「慣れているけどね」
遠子はポーズをとって、ちょっとだけ胸を張った。
「それでも、そういうのはちゃんと伝えないと伝わらないわ」
「そういうものなのか?」
「そういうものなの」
断言して、ねえ、と遠子は問いかけた。
「私のこと、凄く褒められているって思っているでしょ?」
「……そりゃ、まあな」
思っていたことを言い当てられた格好になり、言いよどむ。
「当然じゃないのか? 遠子、君ほど賞賛を浴びている推理小説家はいない。少なくとも現代には」
「大げさね」
遠子は微笑むが、マイトは大げさだとは思わない。
推理小説、という娯楽性の強いカテゴリから重みのある賞からは縁遠いが、それでも売り上げにおいて板坂遠子を大きく上回る作者はそう多くはないはずだ。
「ねえ、マイト」
ゆっくりと、問いかけるようにして遠子は言う。
「マイトは通販サイトって使うわよね?」
「……もちろん」
マイトは遠子が何を意図して喋っているのか考えながら答えた。
一人暮らしのマイトにとっては、大手通販サイトには何かと世話になっている。
ほとんどアパートにいないマイトでも、コンビニや郵便局留で受け取れるのが便利だった。
「マイトは、私の本を通販で買ったことは……」
あるわけないか。
と、遠子は自分の言葉を途中で引き取った。
「すまないな」
「責めているわけじゃないけど」
マイトは板坂遠子の著書を読んだことが一度もない。
正確にいうのならば、デビュー前に一度か二度か、そのぐらい読んでそれきりでやめてしまった。
「それで、通販サイトがどうしたんだ? 遠子」
「あれで私の作品の評価を読んでみて欲しいんだけど、まあ、なかなかひどい言われようよ、私も」
ふん? と曖昧な感じにマイトは頷いた。
確かに、ネット上の書評は批判的な内容も多い。
誤解を恐れずに言えば、批判するために批判しているようなレビューもよくある。
感覚的には、評価するよりも批判するほうが強く印象に残るとか、そういった説明もつくのだろうがそれでもダメージを受ける作者も少なくないだろう。
ちなみに、同じライター業でもマイトにそういった経験はほぼない。
表立った反応はないのが常だからだ。
たまに編集に褒められたりはするが、社交辞令だと思って受け取っている。
「遠子でもそういうの、気にするのか?」
「私をなんだと思っているのよ」
遠子はじとりとした目でマイトを見た。
「人間ですからね。傷つきもするわ」
「そのぶん、褒められることも多いだろう?」
「まあね。褒められてるほうだとは自覚している」
この話がどこに着地するのかわからず、マイトは言った。
「どういうことだよ、遠子」
「つまりね、マイト」
静かに味噌汁を傾けて、遠子は言った。
「ポジティブな声よりも、ネガティブな声のほうがよく届く。だから、ポジティブな声はことさらに大きくあげなければならないのよ」
「……なるほど」
それで、しきりに料理を褒めているというわけか。
腑に落ちて、マイトは少しだけ心が温かくなった。
「『偉人』シリーズも褒めてもらえるといいな」
「そうだねえ」
「次は何を書くんだ?」
「それなんだけどね」
遠子は考え込む様子を見せて、
「デビュー作はクローズドサークルミステリで、次にやったのがSFミステリ、それに今回の歴史ミステリだから……次はなにがいいんだろうね、というのは考えているところ」
「本格は? 遠子の作品は今まで変格が中心じゃん」
「あー、本格か」
遠子は困ったように眉を下げた。
「悪くはないけどね。今までとは違った層のファンを掘り起こせそうだし」
「気が進まないのか?」
「私が、あまり好きじゃない」
あっさりと遠子は言い捨てた。
「そうなのか? 書評などでは既に本格扱いもされていると思うけど」
「私としてはね。トリックでびっくりさせるのがミステリのキモで、緻密に積み上げたトリックでロジカルに説明するのはカタルシスに欠けると思っちゃうんだよね。ミステリの本質はカタルシスだよ」
遠子のいうことはわからないでもない。
もっと言えば、本格だ変格だというのは本質的な議論ではなく、いかに読者を楽しませるのか、というのが推理小説の骨子であるのだろう。
「だから、もっとえげつない方向にいきたいんだよね」
「例えば?」
「読者が被害者」
「意味がわからないだろ」
「うん。どうやったらできるのかな?」
「無理だろ……」
探偵が被害者、あるいは読者が犯人、というようなパターンは読んだことがあるが、読者が被害者は意味がわからない。
「私の小説を読んだら、脳みそが爆発するとかどう」
「テロだろ」
確かに、マイトもそのぐらい影響力が強い文章を書いてみたいと思ったことはあるが。
「ああ、美味しかった。ごちそうさま」
かなり多めに筑前煮を作ったつもりだったが、小さな身体で遠子はぺろりと平らげてしまった。
遠子の少女のような体格のどこにこんな食欲が眠っているのか、想像もつかない。
それを言ったら、遠子の華奢な容姿はとてもあんな文章量を捻出できるようには見えないか。
クオリティこそ人を選ぶものの、業界でも指折りの執筆速度を誇っている。
「ありがとうね、マイト」
食器を片付けながら遠子は言う。
「僕も、遠子が喜んでくれて嬉しいよ」
「ウィンウィンの関係だねっ」
シンクに食器を移動させたマイトは、遠子と二人で並んで洗い物を開始した。
「それでさ、遠子」
食べながら、マイトは切り出した。
「ウィンウィンのとこ、もう一つ頼まれてくれないか?」
「ん」
遠子は眉をひそめた。
「何? 私の手腕を振るえそうな探偵案件?」
瞳をキラキラさせて遠子はこちらを見上げた。
「どんな事件なのか、心ときめくわ」
「いや」
マイトは遠子の言葉を否定した。
「悪いんだが、そういう探偵としての活躍が期待できそうな話じゃないんだ」
「そう」
遠子は途端に興味を失ってしまったようで、再びスポンジで茶碗を洗い始めた。
「一応聞いたげる。それで? なんの案件?」
「それがな……」
単刀直入に切り込まれて、マイトは言葉を濁らせた。
「すまない。案件というか、これは友人としての頼みだ」
「ふぅん……?」
なんとなく流れを察したのか、遠子は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「構わないけど。学生時代の友人であるマイトの頼みだもの。できるだけは請け負ってあげる」
できるだけ、か。
嫌な響きだ。
内心でマイトはため息をついた。
遠子は気の置けない友人だが、だからといってなんでも頼めるというわけではない。
むしろ、利害関係にとらわれない人間関係であるからこそ、一層に気を使わないといけない。
「安達原要、って知っているか? 遠子」
「あだちはら……ちょっと待って」
遠子は額に手をあてて考え込んで、
「あ、わかった。野菜ソムリエだ。著書を見たことある」
「詳しいな」
安達原要。四十五歳。品のある顔立ちとキレのあるコメントで人気の野菜ソムリエだ。その著書は若い女性~主婦層に人気が高く、単に味覚や調理法のみならず栄養学の観点からも質の高いコメントをすることでも知られている。
「私だってそのくらい知っているよ。作家は情報収集が命だから」
遠子は口を尖らせる。
「そうか。そうだったな」
「それで? マイト。そのミスター安達原がどうかしたの?」
「僕は先週、仕事で安達原さんから話を伺う機会があったんだ」
より詳しく言うのであれば、マイトが今行っている仕事の一つにインタビューがあり、その一つとして野菜ソムリエの安達原に取材を行うことがあったのだ。
「よく取材できたわね、マイト。確か、安達原さんってインタビュー嫌いなんじゃないんだっけ?」
遠子は可愛らしく首を傾げた。
「自分が文章を書くのは得意だけど人に書かれるのは嫌いなタイプの方、いるわよね」
「そう。そうなんだよな」
マイトはため息をつく。
「取材の約束を取り付けるのには苦労した」
「でも、やり遂げたんでしょ。大金星じゃないの?」
「……それが」
マイトは目線を泳がせた。
「取材を取り付ける代償として、遠子、お前と会いたいって言うんだよ。お前の作品のファンなんだ」
「……ええ……」
唖然とした様子で、遠子が声を漏らした。
「ねえ、まさかと思うんだけど、マイト、その条件でオーケー出したわけ?」
「しょうがないだろ! そのタイミングを失うと二度と約束が取り付けられそうになかったんだから!」
対人交渉はタイミングが命だ。
いちいち確認をとっていたら機会を逃すことなど珍しくもない。
権限外の約束を事後承認するなど、よくある話だ。
しかし、もちろん、だからといって遠子がそれを請ける道理がないこともまた事実だった。
「しょうがないってあなた……マイト、それはあなたの都合でしょ。あきれた」
ため息をついて、遠子はかちゃかちゃと茶碗をゆすぐ。
「たまたま、僕が遠子と面識があることに触れたら食いついて来てさ……なんとかならないか? 遠子」
「せめて、私に一本連絡をいれるぐらいが筋でしょ」
「だから、今謝っている」
「今さら、謝られても困るな……というか」
遠子は天井を見上げた。
「安達原さんが推理小説を読むのが意外だわ。確か、元々の仕事は栄養学者じゃなかった?」
「推理小説というよりも、歴史小説として楽しんでいる風だったな。今度完結した『偉人シリーズ』はそんな感じだろ?」
「あー。そういうことか。それはあるかもね」
「『坂本龍馬の檻』が一番好きだって言っていたよ」
「大人の男性にはあれが一番受けがいいわね」
「それでさ、遠子。どうにか、頼めないか?」
「んー……」
板坂遠子は天井を見上げたまま考え込む仕草をして、
「またご飯作ってくれたらいいよ」
とだけ言った。
「すまん……恩に着る」
「ほんとに恩に着てよー」
けらけらと笑いながら遠子は言う。
「私は結構時間の融通が効く仕事をしているから、スケジュールは適当に調整して頂戴」
「すまないな。この恩は必ず返す」
「楽しみにしているわ」
ふふっと遠子は面白がるようにして微笑んだ。