1.『ねえ、人生を変えた小説ってある?』
最近のジャンプは、新連載の現代ファンタジーが色々増えてきて楽しい。
ワールドトリガー、身体に気をつけてもどってきて。
「ねえ、マイト、人生を変えた小説ってある?」
板坂遠子にそう問いかけられて、徳川マイトは原稿をタイプしていたノートパソコンから顔を上げた。
「どうしたんだよ、名探偵。薮から棒に」
マイトが書いていたのは写真週刊誌に載せるゴシップ記事で、今日中に仕上げれば良い、急ぎでない内容であったためにタイプを中断して話を合わせた。
「マイトが一番影響を受けた小説を知りたいの」
「うん……?」
疑問を感じて、眉にしわを寄せた。
「本全般じゃなくて、小説で? ということかい。遠子」
「そうそう。小説でね」
板坂遠子が頷くのを見て、マイトはゆっくりとコーヒーカップを傾けて考え込んだ。
「月並みではあるけれど、『アクロイド殺し』かな……」
「へえ。クリスティ」
意外そうに、遠子は大きな瞳を瞬いた。
「そんなに意外かな? 名作じゃないか」
アガサ・クリスティを挙げてそんなに意外そうな顔をされるとは思わなかった。
ミステリ作家の頂点というのみならず、小説家という括りで見ても事実上の頂点。売り上げで見るならば、アガサ・クリスティを凌ぐ売り上げを誇るのは歴史上、ウィリアム・シェイクスピアしかいないという伝説の推理小説家。
それを挙げて、意外そうな顔をされるのは腑に落ちない。
「いえ、私だってクリスティは大好きよ?」
「じゃあなんでそんな顔をするんだ?」
「ほら、『アクロイド殺し』は叙述トリックじゃない? マイトなら、もっとこう、正統派な本格推理を挙げるかなって」
取り繕うようにして遠子は言う。
「学生時代はそうじゃなかった? マイト」
「そうだったけど」
しぶしぶ、マイトは認めた。
「本格推理が好きだったからこそ、変格推理には影響を強く受けたんだよ、遠子」
「なるほどねえ」
納得したのかしていないのか、遠子は一人で頷いた。
「そもそも、小説で影響を受けた作品って難しくないか?」
「というのは? マイト」
「犯罪小説に影響を受けたっていうとヤバイ人みたいだし、純文学を挙げるのも面映い気がする。SF小説はエンタメとしては面白いけど影響を受けた人は少なそうだし、歴史小説を挙げるのは無難だけど面白い解答ではない。面白い作品、好きな作品を挙げるならば簡単だけど」
「確かに」
遠子は同意する。
「私みたいな小説家は挙げやすいけど、確かにそうかもしれない」
二人が会っていたのは、都内にある喫茶店の一角であった。二人とも、原稿の執筆が滞ると顔を合わせて執筆するのが常だった。
板坂遠子は推理小説家。
徳川マイトはフリーライター。
およそ接点のなさそうな二人だが、大学時代に知り合い、社会人になって数年、不思議と付き合いが続いている。
「というか」
しばらく無言で仕事をしてから、マイトは唐突に切り出した。
「遠子さ。前、『アクロイド殺し』の話で盛り上がったことあったよな」
「あったっけ?」
執筆を続けながら、遠子は目線を上げて言った。
「いつの話?」
「学生の頃。ミステリ研で」
「あ、思い出した」
タイプの手を止めて、遠子は言った。
「まだ仲良くなかった頃だよね」
「そうだ」
というよりも、そのやりとりを介して板坂遠子と親しくなった、とマイトは理解している。
テーマは『アクロイド殺し』を推理小説として認めるか、だ。
今にして思えば、学生らしい、可愛らしい衝突だ。
はっきり言ってどちらでもいい。
推理小説としてフェアであろうがアンフェアであろうが商業的にはなんの意味もない。
ミステリとしてアンフェアであったとしても、それに憤るのは読み終わってからなわけで、つまり購買者であるわけだ。
ならば、感想なんて意味がない。
極端なことを言えば、自分の書いた文章を買い取った後でならば、尻を拭くのに使おうが火を焚くのに使おうが、書き手が文句を言う筋はない。権利もない。
まして、読者が勝手に考えただけの推理小説としての公平性なんて意味がない。
今にして思えばその程度の話だが、当時の自分たちにとっては譲れないテーマだったのだ。
もっとも、『アクロイド殺し』に魅せられたのはマイトたちだけではない。
百年前に出版されて以来、世界中の読者を魅了してきた作品だ。歴史に名だたる小説家であるヴァン・ダインやエラリー・クイーン、レイモンド・チャンドラーという文豪たち、あるいは日本国内では江戸川乱歩や小林秀雄も自らの考えを述べていた。
ともかく。
学生時代の徳川マイトと板坂遠子は、『アクロイド殺し』をどう受け止めるかについて議論を衝突させたのだ。
「懐かしい話ね。それがどうしたの?」
「それが僕の転機だったという話だよ」
「……!」
マイトの言わんとしていたことに気づいて、遠子は目を丸くした。
「つまり、マイト、あなたは『アクロイド殺し』そのものに影響を受けたというわけではなく」
「『アクロイド殺し』に関する議論に影響を受けたというわけだよ」
折れたというわけではない。
しかし、それを切欠にマイトは幅広いミステリを嗜めるようになったし、何より板坂遠子と親しくなることができた。
「僕はそう考える」
自分で言い出したことだが、口にしてしまうと気恥ずかしくて早口になってしまった。
「どうしてこんなクエスチョンを? 遠子」
「それはね」
と遠子は応じる。
「私の作品ってエンタテインメントよね」
「そうだな」
アートではなくエンタテインメント。
推理小説は全て、そちらにカテゴライズされる。
「人からね。私の小説は、ただ面白いというだけで読者に残らないって言われたことがあるのよ」
「……?」
遠子の言葉に、マイトは首を傾げた。
「別に問題ないんじゃないか?」
「そう思う?」
「思うとも」
というよりも、影響力が大き過ぎては困る。
推理小説を読んで、殺人事件を起こすようでは出版できない。
時代小説を読んだら、江戸時代の価値観を共有できてしまうようでは危険だ。
ファンタジー小説を読む人が、みな夢想家になるというわけではない。
青春小説は、青春を取り戻せない人でも楽しめる。
ホラー小説を読むからと言って、猟奇性に歓喜を見いだす人ばかりではない。
「エンタテインメントはフィクションだからいい……という部分もあるからな」
言ってから、あ、とマイトは自分の失言に気づいた。
「……と、本物の名探偵にこんなことを言うのはデリカシーがなかったかな」
「え?」
遠子は虚を突かれたような表情をして、
「ああ、そういうこと」
「遠子、君はそれこそ、推理小説の中から抜け出たような存在だからな」
板坂遠子は、名探偵である。
しかし、板坂遠子は私立探偵業を営んでいる……というわけではない。
言ってしまえば、探偵ではない。
探偵ではなく、名探偵である。
つまり、犯罪を解き明かすのを運命付けられた存在である。
生業ではない。
職業でもなく、技能でもない。
敢えていうなら宿業か。
彼女の周りでは自然と殺人事件が発生する。殺意の台風の目。
それこそ、推理小説から抜け出たような現代世界のアーティファクト。
それが推理小説家にして名探偵。板坂遠子である。
「まあね。私のことをよく思わない人もいることはいる」
気にした様子もなく、遠子は執筆中にすっかり冷めてしまったコーヒーを静かにすする。
「別に、好き好んで殺人事件に巻き込まれているわけじゃないんだけどね」
「言わせておけ」
「別に気にしてはいないわ」
と遠子は目を伏せる。
「あなたの言う通りだとは思う。密室殺人も連続殺人も、発生しないに越したことはないのだから」
話を戻しましょう、と遠子は言った。
「そうだな。つまり、遠子、君は自分の作品が純粋なエンタテインメントであることに疑問を覚えた。そういうことか?」
「そういうこと」
それで全ての説明は終えた、とでもいう風に板坂遠子は息を吐いた。
名探偵にはよくある、『自分がわかったんだから、みんなわかったに決まっている』とでも言わんばかりのポーズだ。
名探偵ならぬ身の徳川マイトには推測することしかできない。
「つまり、遠子。君は次回作のテーマは『他人に影響を与える』ということなのかな?」
「あ、そうじゃなくてね」
と遠子は言った。
「先日、私、『偉人』シリーズを完結させたでしょう」
「うん。円満に完結して、おめでとう」
彼女が言っている『偉人シリーズ』というのは、彼女が執筆した『坂本龍馬の檻』から繋がる八作品の小説シリーズのことだ。
『坂本龍馬の檻』。
『信長の鎌』。
『カエサルの杭』。
『ゲバラの柩』。
『アレクサンドロスの鐘』。
そして完結となる『西郷の虚』。
以上五冊からなる推理小説シリーズ。
推理小説家としての板坂遠子を大きく飛翔させたシリーズであり、従来の彼女のファンであったミステリマニアはもとより、硬派な歴史小説として中高年の男性にも一気にファン層を拡大することに成功した。
しかし、それが今の質問とどうリンクするのか判然としない。
遠子はマイトの疑問を察したのか、
「『偉人シリーズ』の表テーマは、私の手腕で『推理小説と歴史小説を組み合わせる』というものだったのよ」
と説明を続けた。
「うん。知ってる」
「でね」
と遠子は声を潜めて身を乗り出した。
「裏テーマは『読者にどれだけ影響を与えられるか』なのよ」
マイトはほぉ……と小さく息を漏らした。
「初耳だ。そして、面白いな」
「うん。誰にも言わないでいたんだけど、せっかく完結したんだし、マイトには聞いてみようかなと思って」
「へぇ……」
なるほど。
それで冒頭の問いかけに繋がるというわけか。
わかったような、わからないような話だ。
「で、成果は?」
「わかんない」
と遠子。
「よく考えたら、読者がどんな影響を受けるのかってよくわかんないわよね」
「それは……」
「だってさ、マイト」
マイトが口を挟もうとしたのに、敢えて遠子は押し切るようにして言った。
「私が書いた話ではあるけれど、それからどんな影響を受けるのかはその人次第じゃない?」
「うん。まあそうだね」
どう反応していいのか悩みはしたが、マイトはとりあえず同意することにした。
「一人一人に聞き取りをすればわかるかもしれないけど」
「つまり、そこまでしないとわからない程度の影響力でしかないってことよね」
「……まあ、そうかもな」
本人がそこまで言うのならば、頷くしかない。
「僕が読んでみようか? その『偉人』シリーズを」
「冗談」
マイトの言葉を、ざくりと遠子は切り下ろした。
「マイトは私の作品なんか、読まないでしょ」
「まあ……な。遠子は?」
話題を変えよう、とマイトは自分のほうから切り出した。
「遠子は、運命を変えた小説ってある?」
「私は」
遠子は、重々しく口を開いた。
まるで、その問いかけを待っていて、最初から答えを用意していたみたいに。
「私に最も影響を与える小説があるとしたら、それは次に書く小説だよ」
推理小説家・板坂遠子はそう断言した。