夜の始まりを告げる鐘―6
小ぶりながらもよく砥がれた鋭いナイフと、その中に篭もる冷たい殺気。どうやらこの状況は冗談ではないらしいと、その思考こそが冗談のようなことを考えながら、ヴェインはとりあえず両手を挙げた。自分の首にナイフをあてている人物の顔を確認したいところだが、あいにく既に首の皮一枚切れそうなほど近付いているナイフは、そんな真似を許してくれそうにない。
(気が散ってたとはいえ、俺が背後取られるとはなぁ。俺の修行不足か、それとも後ろの奴が意外と強いのか……)
反撃の隙を窺いながら、相手の反応を待つ。しばしの沈黙のあと、背後から声がした。
「お前は誰だ? こんなところで何をしている」
男の声だった。後ろの気配やナイフの角度と併せて考えると、まだ若く、そう大柄ではなさそうだ。これなら隙さえ見つかれば、多少力ずくでも抜け出すことができる。
(なんにせよ、この俺にナイフ突きつけるとはいい度胸だ。ぶっ飛ばす!)
* * *
「えーっと、遠くから来た旅人、かな?」
内心では物騒な画策をしながら、表面上は従順を装って当たり障りのなさそうな答えを返す。
「この森を通ってか?」
「まぁ、そんなトコ」
しかしそこまで言ったところで、ナイフを突きつける力が強くなった。一筋、血が流れ出して、ヴェインは舌打ちしたいのをこらえる。何か気に入らないことを言ってしまったらしい。
「東から、旅人は来ない」
男のもともと抑えられていた声音がさらにワントーン下がり、身に帯びた殺気が強くなった。
「……どういうことだ?」
「この森を抜けたら、その向こうにあるのは川、それからくぐり抜け不可能な国境線だ。東からこのレノールに入るすべは無い」
「なるほどな」
昨日のうちに周辺の情報をもっと聞いておくのだったと、少しだけ後悔した。思い返してみれば、ファルガーとでっち上げた話では、二人は南から来たことに変わっていた。それにはこういう事情があったようだ。
「抜かったな。東の間者か何か知らないが、お前はここで殺す」
「ちっ」
今度は隠さず舌打ちして、ヴェインは表情を引き締めた。背後の男が本気になった以上、こちらもふざけた態度ではいられない。隙を見せない相手を出し抜く方法を頭にめぐらせながら、ヴェインは気取られないよう地面を踏みしめた、その時だった。
「リヴィーっ! リヴィ、どこーっ!?」
遠くから聞こえた叫び声に、男の気が一瞬逸れる。突然の声に驚かされたのはヴェインも同じだが、自分以外にも森に人がいるのを知っていた分、反応は早かった。
ナイフを持つ男の手を払いのけ、鳩尾に肘を叩き込む。にぶいうめき声が聞こえ、男が怯んだ瞬間にヴェインはナイフを叩き落した。それを遠くへ蹴り飛ばしながら、自らの剣を抜き去る。
「形勢逆転だな」
今度は真正面から向き合い、ヴェインが男の喉元に剣を突きつけた。
初めてその姿をしっかり確認すると、男は予想以上に若かった。ヴェインとほとんど歳は変わらず、身長はヴェインより低く見える。前髪の間から覗くグレーの瞳は猫のように鋭く、敵意をむき出しにしてこちらを睨んでいた。
「お前――」
「リヴィィィーっ! 出てきてくれー!!」
「ちょ、キース! お願いだから待ってっ、落ち着いてよ!」
ヴェインが男の姿を見て呟きかけた言葉は、さらに近付いたキースの声によってかき消された。キースの声は半泣きに聞こえるが、おそらく相当連れ回されたのであろうシルスの方もほとんど同じ状態だ。
「シルス、こっちだ!」
ヴェインが男に視線を向けたまま呼ぶと、何やら驚きだか歓喜だかの小さな叫び声が聞こえたあと、二人分の足音が近付いてきた。ほどなく近くの茂みが揺れ、やや疲れた表情のシルスが顔を出す。
「ヴェイン! 聞いてよ、キースってば酷いんだよ――って、何してるの!?」
「リヴィー!!」
合流したシルスが目の前の状況に驚くのをよそに、ヴェインの剣などこれっぽっちも目に入っていないらしいキースは男――三人の探し人であるリヴィに体当たりした。本人は抱きついたつもりなのかもしれないが。キースより一回り小さいリヴィの体は勢い余って突き飛ばされ、しかしおかげで剣の切っ先から免れた。
「ふん、やっぱりこいつがリヴィか。ピンピンしてんじゃねぇか」
「あの、ヴェイン……」
「先に仕掛けてきたのはあっちだぜ」
リヴィのほうを顎でしゃくり、ヴェインは不機嫌な顔で剣を収めた。
そうそう人が入るとは思えないこの森の中で、同年代の男に会った時点で彼がリヴィであることは感づいていたが、それとナイフを向けられたこととは別問題だ。腹の虫がおさまらないが、しかし彼がリヴィであると確定した以上、手出しすることはできない。
詳しい事情を説明する気も起きず、戸惑い顔のシルスを放って、未だキースに絡まれて地面に転がっているリヴィを見下ろす。その視線に気づいたらしいリヴィもまた、その灰眼に宿る敵意は消えていなかった。
「キース、どういうことだ。こいつらは何だ?」
視線はヴェインを睨みつけたまま、リヴィが問う。「二人とも、一緒にリヴィのこと探しに来てくれたんだぜ!」
「そういうことを聞いてるんじゃない。この二人が何者なのかと聞いてるんだ」
「えーと、ファルガーおじさんの友達で、どっか遠くから来た魔法のー……なんだっけ」
「南のお師匠様の下で、魔術と戦闘の修行を受けてたんだ。それで今は王都への旅の途中」
「あ、そんな感じ」
シルスのフォローに同意だけして、キースは満面の笑みで頷いた。
「修行、ね。さっきそこの金髪は、この森を通って来たと言ってたように思えるけど。南から来るのに、この森に入る必要は無い」
これぞヴェインが予想していた当然の反応であるのだが、出会い方が出会い方だけに、リヴィに対する印象はかなり悪かった。東の国との関係がどのようなものか知らないが、いきなり高圧的にナイフを向けられた上、ろくに話も聞かないまま本気で殺しにかかられたのは、非常に気に食わない。ヴェインは眉間にしわを寄せた表情のまま、ぶっきらぼうに言い放った。
「見ず知らずの顔も見えない不審者相手に、詳しい事情説明したって仕方ねぇだろ。俺はお前の勝手な推測に、適当に同意しただけだ」
「なんだと?」
怒りをたぎらせて立ち上がろうとしたリヴィを、慌ててキースが止めた。
「ちょっと、なんで二人ともそんな仲悪そうなんだよ!」
「ファルガーさんもステラも心配してるだろうし、とにかく帰ろう!」
間に入ったシルスの言葉に、ヴェインとリヴィは一瞬止まった。
震えていたステラの姿が思い出される。今もあの家でファルガーと共に、四人そろって帰ってくるのを待っているに違いない。リヴィを連れ帰ると約束したのだ。ヴェインは、どん底まで落ちていた気分がわずかに和らぐのを感じた。
「……そうだな。このままここにいて、魔獣や狼に鉢合わせたら意味がねぇ」
「この二人のことは、とりあえず受け入れるさ。でないと、話が進まなそうだ」
それぞれ言って、互いに顔を背けた。
「リヴィくん!! 良かった……!」
「ごめんステラ、心配かけたみたいだね」
「ううん。無事なら、いいの」
ステラはずっと、家の外で待っていたようだった。四人が帰ってくるのを遠目に見つけるなり駆け寄ってきて、リヴィに抱きつく。さほど体の大きくないリヴィでも抱き込んでしまえるほどの華奢なステラの肩は、まだ小さく震えていた。
「いいなーリヴィ」
「ほら、いいから俺らは家入るぞ」
その横でリヴィの姿を羨ましそうに見つめるキースを引きずり、ヴェインは家の扉を叩く。すでに外の騒ぎを聞きつけていたのか、ファルガーはすぐに出てきた。
「お疲れさん。リヴィも無事みたいだな、よかったよかった」「そういうアンタは、たいして心配してなかったみたいだな?」
「何言うんだヴェイン。俺だってステラに負けず劣らず、心配で涙を涸らしてだなぁ」
「白々しい」
「……なんか、お前機嫌悪いな」
「別に」
「口尖らせて言っても説得力ねぇって」
ヴェインの仏頂面に苦笑しながらも、ファルガーはその原因に関しては何も追求せずに三人を家の中へ迎え入れた。そのあと少し遅れて、リヴィとようやく落ち着いたらしいステラが入ってくる。泣いたのか、目じりがわずかに赤くなっているステラを見てキースは戻っていった。
「ま、キースに加えてお前らまで行ってたんだ。リヴィだってそれなりに強いしな。よほど運でも悪くない限り、平気だろうと思ってたのは事実さ」
「うん、キースの運動神経はすごかったよ。あの森の中で、障害物なんて何も無いみたいに走ってくんだもん」
だからキースを止めようにも、後をついていくだけで精一杯だったのだと、シルスはため息をついた。そう言うシルスの格好は、髪に服にと枝や葉が絡みつき、悲惨な状態だ。
「お前の髪と葉っぱ、同化してるぜ」
鮮やかな翠の髪に埋もれた葉を一枚引っ張り出し、ヴェインは少し機嫌を直して楽しそうに笑った。