夜の始まりを告げる鐘―4
見つめる顔が映りこむほどの、おそろしく澄んだ深紅の瞳。血の色にも見えるそれは、ひょっとすると恐怖心をかき立てるようなものですらあるけれど、その奥に感じる静かな優しさを湛えた視線から目を逸らすことができなかった。
淡い金糸の髪は、男性にしてみたら色素が薄い顔の横を流れ、少し長めに伸ばされた襟足が首筋をゆるやかに覆っている。高くも低くもなく耳に心地よい声音はどこか甘く、差し出された手はしなやかだった。
美しい、と形容するに足るであろう整った顔が穏やかに微笑む。どうしようもなく懐かしいような、歓喜で胸が締め付けられるような、それでいて喚きたくなるくらい悲しいような、言葉にしがたい感情が体中を駆け巡り、訳もわからず零れそうになる涙を必死にこらえた。
「――はじめまして、ヴェインくん」
握り返した手からは温かな人の体温が伝わってくる。待ち続けた人にようやく会えたのだと、確かにそう感じた。
* * *
「わかった、あんたの提案に従うのがよさそうだな。それで、今後のことなんだが……」
ヴェインが言い募ろうとしたところで、玄関の扉が開く音が聞こえた。例の”同居人”が帰ってきたらしい。廊下をぱたぱたと歩く軽い足音が聞こえ、ヴェインたち三人がいる居間へと続く扉が開かれた。
「ただいま! あれ、お客さん?」
それは、ヴェインやシルスとそう年の変わらなさそうな少女だった。同じ金髪でも色味はヴェインのそれよりずっと濃く、やわらかそうな猫っ毛が肩に触れるか触れないかのところで揺れている。夏の空を思わせる明るい碧眼は、今は唐突に現れた二人の客人を見つめてきょとんと見開かれていた。
それから手に大きな買い物袋を抱えていたことを思い出し、慌ててそれを床に下ろす。慌てすぎてその紙袋を蹴飛ばしかけたところで、ファルガーが見かねて声をかけた。
「おかえり。俺の知り合いだ、荷物置いてからでいいから、挨拶しとけ」
「うん」
少女はファルガーの言葉に素直に頷き、紙袋を抱えなおして一旦台所に姿を消した。
失礼にならない程度、そしてファルガーに気付かれない程度にこの家へ入ってからヴェインは辺りを観察していたのだが、バルコニーのガーデニングといいその他のインテリアといい、”同居人”の様子は彼の予想通りだった。ただ彼女を一目見た瞬間、内から湧き起こった胸騒ぎを除けば、だが。
(……?)
しかしその感覚は一瞬で、少女が戻ってくる頃には消えていた。
「ファルガーおじさんの姪で、ステラといいます」
少女――ステラが差し出した手をシルスが取る。彼はたいてい愛想がよく、友好的で、少なくとも自分に敵意が無いと思うものに対しては積極的だ。
「僕はシルス。あとで詳しく話すけど、少しの間お世話になると思うんだ。よろしくね」
飾り気無く光るエメラルドグリーンの瞳に、ステラはにっこりと笑みを返す。それからその視線は、シルスの隣に立つヴェインのほうへと移った。
一秒、あるいは数秒、少なくともそう長い時間ではなかったが、二人の視線は真っ直ぐに交わった。別に、特別何かを考えていたわけではない。ただそのわずかな沈黙は不快なものではなく、ヴェインはその間に身を任せながらゆっくりと口を開いた。
「俺はヴェインだ。突然で悪いが、よろしく頼むよ」
そしてヴェインから右手を差し出す。利き手として普段から剣を握っているその手は、まめの痕やら何やらであまり綺麗なものではないのだが、ステラはすぐにそれに応えた。
「――はじめまして、ヴェインくん」
手の動きに反して、一瞬の間を置いたその言葉のあいだに、彼女が何を思っていたのか、ヴェインは知らない。
「もー、お茶っ葉の場所がわからないなんて!」
「いやぁ俺は知ってたつもりだったんだけどな」
お客様に飲み物も出さないなんて、と怒るステラを何故かヴェインがなだめながら、今度こそ出てきた紅茶とクッキーを前に四人はテーブルを囲んで座った。家庭的と予測をつけたとおり、ステラの淹れた紅茶はかなり美味しかったのだが、それは今は関係無い話だ。
「僕とヴェインは、えーと、今まで南のほうでお師匠様について修行をしてたんだ。魔術と、戦闘のね」
「それで最近になってようやく、一通りの修行が終わったんで外に出る許可をもらえたんだよ」
それがステラが帰ってくるまでの間にファルガーと話し合って決めた、二人の地上界での”身分”だった。
ファルガーによれば、全員が生まれつき魔力をもっている天上と違い、地上界では魔力は非常に珍しいらしい。だからその使い方を覚えるため、二人は幼い頃から師匠のもとで修行をしていた。その場所は僻地で、ほとんど外に出ることもなく過ごしていたため、地上界の常識には疎い――そういうシナリオだ。
ヴェインにしてみれば、その境遇自体そうとう胡散臭いのではないかと思ったのだがそれを口にしたらファルガーに、ならもっとマシな言い訳を考えてみろ、と言われてしまった。そのため大人しく受け入れることにしたのは言うまでもない。地上の常識も知らないのに、そこでまかり通るような嘘を思いつけと言われても無理な話だ。
「で、こいつらの師匠ってのが俺のちょっとした知り合いでな。ちょうどこっちに来るってんで、しばらく面倒みることにしたんだ」
「そうなんだ、すごいんだね二人とも!」
「あ、あぁ」
ファルガー曰く、あいつならまず間違いなく信じる、とのことだったが、まったくその通りだった。
「ところでステラ」
「なに?」
話を変えたファルガーの言葉にステラが振り向く。
「悪いんだが明日になったら、キースとリヴィのやつを呼んできてくれ。こいつらに会わせる」
「うん、わかった」
「キース? リヴィ?」
はじめて聞く名前にシルスが首を傾げた。いきなり会わせると言われても、話の脈絡がわからない。シルスの言葉に、ファルガーは話していなかったことを今思い出したとでもいうような顔で応じた。
「二人とも近所に住んでるステラの幼馴染だ。近所っつっても、歩いて三十分はかかるがな。そいつらは、もうじき王都に行く予定になってる。ちょうどいいから道案内してもらえ」
「うん……え?」
「……はぁ」
ヴェインはステラに気づかれないよう、小さくため息を漏らした。
王都というのがどこだか知らないが、ファルガーはいつの間にか、二人をそこへ向かわせることに決めていたらしい。それこそステラが帰ってくる前、これから話し合うつもりだったことなのだが、ファルガーの方にはあまりその気は無かったようだ。勝手極まりないとは思うが、確かに王都ともなれば情報は集まりやすいだろうし、そう悪い選択ではない。
「わかった。そうさせてもらうよ」
だからとりあえず、いまだに疑問符を飛ばしているシルスが余計な質問をしないよう、抑えておいた。
「あーよかった! ベッドやなんかも天上と同じなんだね」
案内された客人用の部屋に入るなり、シルスはベッドに飛び込んだ。
「お前はいくつだ」
そう言ってヴェインが持っていた荷物をシルスの上に放ると、ぐえっという潰れた声がする。
そう大きくない客間はベッドが二脚とクローゼット、ベッド脇のサイドテーブルだけの簡素なものだったが、人数分の寝床があるだけで十分だ。ヴェインはシルスがいない方のベッドに腰掛けると、閉められていたカーテンのレースを引いた。ついでに換気をしようかとも思ったが、あまり埃っぽくはない。
「でも、ここだけしか見てないから言い切れないけどさ、地上に来たら、もっと劇的に変わるのかと思ってたよ」
ヴェインの荷物を床に降ろし、枕に半分顔をうずめたシルスが言った。
「変わってほしかったのか?」
「うーん微妙。新しいもの見たかった気もするし、でもベッドとか無かったら嫌だなって思ってたし」
窓から見えるのは、牧草地とその間に点々と建つ家ばかりだ。天上の王都に住んでいたヴェインたちの部屋からは、こんなものは見えない。そういう意味では新鮮と言えば新鮮なのだが、それは見慣れぬ風景というだけであって、天上に存在しないものとは違う。
「今のところ、支障が出るような変化は見えないな。……魔術以外」
「あ、やっぱ気づいてたんだ?」
「当たり前だろ。放っておいていいことじゃない」
ベッドの上でだらけきっていたシルスが体を起こす。ヴェインも外に向けていた視線を戻し、シルスのリストバンドが付けられた右手首にそれを移した。
「どんな感じだ?」
「制御がね、思った通りにいかなかったんだ。昼間の魔獣、あんなにズタズタにする気なかったんだよ」
「ってことは、力がセーブされてる訳じゃないのか」
「うん、なんて言うのかなー……波長? そういうのの波が一定にできなくて、考えてる力のポイントに上手く合わせられないんだ。だから出したいだけの力が出ない感じ」
「つまり、プラスにもマイナスにもいくんだな?」
「たぶんね」
「そうか……」
言いながら、ヴェインは上体をそのまま後ろに倒した。
「面倒だな。俺はまぁいいとして、シルス、慣れそうか?」
「うん、僕はもともと力が抑えられてるから、コツさえ掴めばそんなに酷いことにはならないと思う」
「そうか。なら早いうちに練習しといてくれよ」
「そうする」
シルスは再び寝転ぶと、瞼を閉じた。もう練習に入るのかもしれない。その集中を邪魔しないよう、ヴェインが黙って夕焼けに染まった外を見つめていると、目を瞑ったままのシルスが口だけ開いた。
「もうじき夜が来るのに。物足りないね」
「あぁ。――ここじゃ、あの鐘が聞こえない」
天上界には、毎日欠かさず鳴り響く鐘がある。長い夜に入りきる寸前の刻、王都を越えて遥か遠くまで届くカリヨンベル。つい昨日は、天上の図書館から似たような夕焼けを、鐘を聞きながら見ていた。
似たような世界に、聞こえない音。天上でも全ての場所で鐘が聞こえるわけではないのに、ただそれだけのことで、今いるのが馴染んだ世界と遠く離れた場所であることを感じる。
「ヴェインは、あの鐘が好きだったね」
「あぁ。だから必ず任務を成功させて、あそこへ帰るぞ」
「うん、もちろん」
耳の奥で、遠く響く木霊のように、鐘の音の幻聴を聞いた。