第二章26 終わらない悪夢。死屍累々の氷都市。
帝国ガリアの騎士との死闘は失意の内に終演を迎えた。
結果だけを見れば、航大たちは何も守ることはできず、あまりにも失ったものが多かった。帝国騎士を名乗る彼らは、航大たちの想像を遥かに越える『異形の力』を持っていて、それは全て『グリモワール』を媒介にして異世界に具現化したものだった。
「…………」
航大は自分の懐にしまってある、漆黒の装丁をした本に意識を向ける。
元世界で名の知れた偉人を召喚する能力を持ったグリモワール。異世界にやってきて、航大はこの力に何度も救われてきた。
ドイツの英雄・ジークフリート。
世界的名探偵・シャーロック・ホームズ
クリミア戦争の英雄・フローレンス・ナイチンゲール。
彼らは航大が異世界で出会った少女・ユイの身体へ憑依することで、その権能を自在に操り、幾つもの危機を脱してきた。
航大が暮らしていた元世界と、剣と魔法が支配する異世界を繋ぐ謎の本。
グリモワールを媒介にした権能を持つのは、航大だけではなかったのだ。
「…………」
「おーい、航大―?」
帝国騎士の二人も航大と同じ、漆黒のグリモワールを所有していた。
元世界の魔獣を召喚する『怠惰のグリモワール』。
あらゆる炎を自在に操る『憤怒のグリモワール』。
詳細については不明ではあるが、自分が持つグリモワールと似た力を、あの二人は持っていた。それぞれが大罪の名を冠しており、大罪の数からしてこの異世界にはまだグリモワールが存在していることになるであろう。
「はぁ……」
分からないことだらけである。
帝国ガリアの目的についても、自分が所有するグリモワールのことも、そしてこの異世界についても……異世界に転移し、しばらくの時間が経過するが、航大はまだ何も知らなかった。あまりにも知らないことが多すぎた。
「なに辛気くせえ顔してんだよ、航大ッ!」
「あいたあああぁッ!?」
一息つき、これまでの状況整理と、山ほどある不明なことについて思いを馳せていると、再び航大の背中に強い衝撃が走った。
リエルに治癒してもらったとはいえ、航大の身体にはまだ異形の力を行使した影響が残っている。四肢に十分な力が入らず、ライガの遠慮ない攻撃に体勢を崩してしまう。
「痛いって、ライガ……少しは手加減してくれよ……」
「すまんすまん。なんか航大が考え事してるみたいだったからさ、少しでも元気になればと思ったんだけどな……」
「……そこは心配させて悪かった。けどな、叩く力が強すぎだって」
「これくらいすれば、少しは元気が出るんじゃねぇかなって思ってさ」
「ここまで色々あったのに、よくそんなテンションで居られるな……」
ハイラント王国を出てからというもの、航大たちは数多の絶望に直面してきた。
焼き払われる村でのこと、街を襲った魔獣のこと、そして大聖堂で見せつけられた圧倒的な力量差。
異世界に転移してから経過した時間の中でも、今回は特に多くの絶望と挫折を航大に突きつけてきた。
眼前に姿を現した強大な『敵』を前に、航大だけではなく、ライガも唇を噛む場面が多かったはずだ。しかし、隣を歩く彼は意気消沈といった様子を見せることなく、その表情に笑みすら浮かべている。
「そりゃ、俺だって今回の遠征には悔しい場面があった……ありすぎたさ……」
航大の言葉に、そこで初めてライガは悔しげに表情を歪ませた。
「ヨムドン村でも、ミノルアでも……そしてあの大聖堂でも……自分の力不足って奴を痛感したさ」
「…………」
想像以上に自分の言葉でライガが沈痛な表情を浮かべているのを見て、彼以上に今回の遠征で活躍していない航大はいたたまれない感情を胸に抱く。
「でも、だからって辛気臭い顔をしてたら、何とか生き残った人が不安に思うだろ? 俺たちは騎士だ。いつでも気丈に振る舞わないといけないんだよ」
その表情はどこまでも真剣だった。
ハイラント王国の騎士であるからこそ、血の滲むような努力を持ってしても露呈する力不足。航大と同じでライガも挫折してしまいそうになる場面が多かった。
それでも騎士だからといった理由で、彼は人前で弱音を吐くことを許されない。
それは騎士とは無縁の生活を送っていた航大にとって、一種の苦しみのようにも思えた。自分の感情を何かに制御され、内に内に溜めていく。それはとても苦しいことのように、航大には思えたのだ。
「ふん、騎士というものは面倒くさいもんじゃのぉ」
ここまで沈黙を保っていた永久凍土の賢者・リエルは小さく鼻息を漏らして表情を顰める。
「強すぎる力は誰かを守ることもできるじゃろう。しかし、その力は一歩使い方を間違えれば、誰をも傷つけることもできるのじゃ。強すぎる力を持つというのも考えものだと思うがの」
「そりゃそうだけど……」
リエルの言葉にライガは後頭部を指で掻きながら答える。
「……それに、どんなに強い力を持っていたとしても、守れないものはある」
その言葉につい先程の光景が脳裏に蘇ってくる。
賢者と呼ばれ、数百年の時を守護者として生きてきたリエル。彼女は課された使命を守ってこれまで過ごしてきた。しかし、より強大な力を持つ存在が現れて、守護すべき場所すらも失った。
今は航大を守るという新たな使命を持ち、こうして行動を共にしているが、それすらも無かったらリエルはあの大聖堂で命を落としていただろう。
「何が言いたいかと言うと……力を欲するあまり、視野を狭くするなということじゃ。おぬしらには仲間がいる。一人では何も出来なくても、仲間が居ればなんとかなるものじゃ」
伝えたかったことを言うと、リエルはふんすと鼻息を漏らして自慢げな表情を浮かべる。
その言葉に、航大もライガも救われたような気持ちになる。これまでの光景を思い返しても、航大は常に仲間に助けられていた。
力がない自分を恨むのではなく、自分一人で何とかしようと考えるのではなく、ピンチに陥ったら素直に仲間に頼るべきだと、リエルは伝えてくれているのだ。
「案外、良いこと言うんだな……ちびっ子のくせ――にッ!?」
「……誰がちびっ子でぼっちじゃ?」
「……ぼっちは言ってない」
リエルの肘打ちがみぞおちにヒットし、ライガは悶絶しながら雪の上に倒れ伏す。
ミノルアを目指して歩き始めてからしばらくの時間が経過するが、この光景はもう三度目である。
何故かライガはリエルが気にしているポイントを的確に突き、その度に強烈な一撃を貰っているのだ。雪の上に倒れ、ピクピクと身体を痙攣させるライガを振り返ることなく、航大とリエルは歩を進めるのであった。
◆◆◆◆◆
「……航大。街に戻って忙しくなる前に、言っておかねばならぬことがある」
「言っておかないといけないこと?」
ライガを置き去りにして、歩を進める航大は隣を歩くリエルに小首を傾げる。
リエルは歩きながらも、航大の方を真剣に見つめるとゆっくりと口を開く。
「おぬしの中に儂の姉で、大地を守護する女神・シュナが眠っているのは間違いない。姉様の力を、おぬしの中で確かに感じたからな」
「今だとあまり実感はないけど、そういうことみたいだな」
「あの大聖堂で、おぬしが使った力……あれこそが、女神・シュナが持つ力の一部であることは間違いない。儂はシュナの妹であるからこそ、それを断言することが出来る」
「女神の力……」
航大という存在と一体化した女神シュナ。彼女は今、航大の深層で眠りについている。
「……一つ、忠告をしておく。女神シュナの力は、今のおぬしには負担が大きすぎる。このまま、その力を無理に行使し続ければ、おぬしの身体にどんな悪影響があるかが分からん」
「マジかよ。確かに、今も身体が重い……」
「そうじゃ。今は儂が治癒魔法をかけたから大丈夫じゃが、王国に帰ったらしっかりとした治癒術士に診てもらう必要があるじゃろうな」
力を行使した直後のことを思い返す。
全身が鉛のように重く、呼吸をすることすらやっとの思いだった。
「ちなみに、治癒する前に力を使ったらどうなるんだ?」
「……全身のマナが枯渇して、死ぬじゃろうな」
「死ッ!?」
「女神の力はとてつもなく強大じゃ。だからこそ、使用者には想像を絶する負担を強いるのじゃ。元々、魔力を多く持たないおぬしが力を乱用すれば、いずれ魔力が枯渇して死ぬことになるぞ」
明確に突き付けられた死を伴う忠告。
真剣な表情を浮かべるリエルの様子に、航大は生唾を飲んで押し黙る。
「まずは身体を治癒し、その後に己の魔力を高めるための修行が必要じゃろうな」
「修行……?」
「大魔法使いクラスの魔力を持つことは無理じゃろうが、それなりの力ならちょっとした修行を積むことで何とかなる。そうして、自分の力を少しでも高めていけば、女神の力を部分的に使役することが出来るじゃろう」
強大な力は破滅を呼ぶ。
自分の身体を包み込む倦怠感と、賢者が言うのであれば、それは正しいことなのだろう。しかし、航大でも修行とやらを積めば、使えることができるらしい。折角得た力が無駄にならない可能性があることを知って、航大は内心で安堵する。
どれくらい先のことになるかは分からないが、自分にも戦う力がある。その事実に航大の足は無意識の内に軽くなる。そんな航大の安堵感を打ち消すように、リエルの足が急に止まった。
「……これは?」
「ん、どうしたリエル?」
立ち止まり、その表情を険しいものへと変えていくリエル。
その尋常じゃない様子に、航大の心臓は早鐘を打ち始める。
リエルが視線を向ける先、今はまだ見えないが、その先には航大たちが向かっている氷都市・ミノルアがある。何か気配を感じたのか、リエルは立ち止まり険しい表情で前方を睨む。
「……急ぐぞ、航大。街の方向から夥しい血の匂いを感じる」
「……は?」
リエルの言葉に、航大は目を見開いて驚きを禁じ得ない。
ミノルアを襲っていた脅威は消え去ったはずだった。それなのに、リエルは不穏な予感に警戒心を高めていく。氷都市には傷ついた人たちがいる。王国騎士たちがいる。そして、航大が大切に思う彼女がいる。
「いいから急ぐんじゃッ! 間に合わなくなっても知らんぞッ!」
「お、おいッ……待てよッ……!」
雪の上を疾走し始めるリエル。
風に髪を靡かせ、慣れた様子で雪道を進む彼女に置いてかれないように、航大も必死に足を踏み出す。身体を包み込む倦怠感に負けないよう、航大は唇を噛みしめる。
――それからしばらくの時間が経過した。
――氷都市・ミノルアへ到着した航大たちを待っていたのは凄惨な現実だった。
◆◆◆◆◆
「なんだよ、これ……」
「…………」
ミノルアの正門。そこに立ち尽くす航大は呆然とした様子で眼前の光景を見つめる。
異世界にやってきて、ここまで『凄惨』な現実を航大は見たことがなかった。
「――うぐッ!?」
あまりにも生々しく、吐き気を催す臭気に航大は胃の中にある全てを吐瀉する。
視覚。
聴覚。
嗅覚。
その全てを蹂躙する光景が、目の前には広がっていたのだ。
「誰か答えてくれよ……これは、一体……何なんだよぉッ!」
何度も吐瀉を繰り返し、胃液すらも吐き出しながら航大は絶叫する。
リエルを連れて帰還することが出来て、これで毒に苦しむ人々を救うことができると思っていた。苦しむ人々を救って、それで航大の心は少しでも晴れることができると思っていた。
しかし、そんな淡い期待すらも異世界の現実は無情にも打ち砕いてくる。
「なんで……なんで、人間が人間を襲ってるんだよ……」
「…………」
その言葉に返事をする者は居ない。
隣に立つリエルも、眼前の光景を見てこれ以上無いほどに表情を歪ませるだけ。
街の至る所から悲鳴が聞こえる。
街の至る所から咀嚼音が聞こえる。
街の至る所から人間が唸る声が聞こえる。
この光景に似たものを、航大は元世界で何度か見たことがあるような気がした。
それはゾンビ物の映画とかでよく見られる光景によく似ていた。街の人々は、その身体を青く変色させ、正気を失った様子でそこら辺に転がっている肉片にむしゃぶりついている。
あの肉片はなんだ?
どうしてあんなにピンク色をしている?
その隣に転がってるのはなんだ?
あれは人間の頭……何じゃないか?
「なんと酷いことを……」
リエルが声を震わせながら、その一言を漏らす。
それに返す言葉を、今の航大は持ち合わせていないのであった。
桜葉です。
何度目か分からない絶望が突き付けられました。
第二章クライマックス、始まります。
次回もよろしくお願いします。