第二章23 崩壊する氷山。消えぬ業炎。
第二章23 崩壊する氷山。消えぬ業炎。
航大の身体を貫いていた槍はいつの間にか姿を消していた。
彼の身体に目立った傷は見当たらない。ハーデースの漆黒の槍は確かに航大の身体を貫いていた。しかし、その槍は殺傷能力を持ち得てはおらず、航大が手にした異形の力を消し去るといった結果のみを残して消失した。
消失していく力を感じながら、航大の意識は再び深層の世界へと堕ちていく。
「…………」
その世界には何も存在しなかった。
確かに目を開けている感覚はあるのだが、その視界はどこまでも続く闇に支配されている。それは宇宙空間を彷徨っているかのようで、身体は虚空を漂っている。
『無』によって支配されたその空間は、航大の身体に潜む『闇』そのものだった。
それは海のようでもあり、深く潜れば潜るほど『闇』の感覚は強くなり、深層の底には彼を飲み込もうとする強大な闇が確かに存在していた。その闇に飲み込まれるようなことがあれば、航大という存在は跡形もなく消滅するだろう。
『――ごめんなさい』
航大の脳裏に響く声があった。
それは、彼に力を授けた少女の声。
少女が与えし力は、航大の身体から確かに消失した。しかし、力の源となる少女の魂は彼の深層にて静かに生きていた。
『――私は貴方の中で生きています。いずれ、再び私の力を使う時が来るでしょう』
「…………」
脳裏に響くその声に、航大は答える術を持たない。
闇が支配する世界に変化が現れた。それは淡い光を纏った人間の姿をしており、腰まで届く長い髪を深層世界の虚空で漂わせ、航大の身体を優しく包み込む。
感覚はない。
暖かさも冷たさも、今の航大には何も感じることはできない。
しかし、人間の姿をしたその淡い光は、確かに航大の身体を抱きしめていた。
『――貴方が心から望む時、私は私の力を貴方に授けましょう』
「…………」
『――さぁ、目を覚ましなさい。そして、出来るならば……あの子を救って欲しい。私の可愛い可愛い妹を』
「…………」
それから航大は自分の意識が急速に覚醒していくのを感じた。
深層世界から何か見えない力で引き上げられていく。どこか遠くから聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。
それは異世界で初めて出来た友の声。
それは自分の使命を果たすために戦った少女の声。
振り返っても、あの声の主はどこにも存在していなかった。
しかし、あの声を持つ少女は、確かに航大の中で生きている。肉体を失い、精神だけの存在になったとしても、彼女は航大を依代に生き続ける。
「――ッ!」
「――ッ!!」
声が聞こえる。自分を呼ぶ声に、航大は意識を覚醒させていく。
◆◆◆◆◆
「航大ッ!? 起きたかッ!」
「いつまでも寝てるんじゃないッ!」
「……あれ?」
目を覚ますと、まず視界に入ってきたのはライガとリエルの顔だった。
二人はその表情を悲しげに歪ませていて、それも航大が目を覚ましたのを見て、安堵のものへと変えていく。
「ここ、は……?」
「ったく、心配かけさせやがってッ!」
「ふぅ、とりあえず一安心といった所じゃな……」
航大の無事が確認でき、ライガたちはその表情を険しいものに変えると、前方を睨みつける。その視線の先を追って、航大は自分が置かれている状況について思い出した。
「お、目を覚ましたみてぇだな」
灼熱の炎が支配する大聖堂。
淡い光を放つ結晶で構成されていた大聖堂は、今ではその全てを炎に包まれている。最早、原型も留めていない地獄の中、航大が目を覚ましたことに帝国ガリア騎士のアワリティア・ネッツが気付く。
「あれくらいで死なれても困るからな。お前には、まだまだ楽しませて貰わねぇといけねぇしよ」
「ぐッ……」
「航大ッ、今は動くなッ!」
ネッツの声に航大は内から溢れ出す怒りに起き上がろうとする。しかし、身体には力が入らず、起き上がろうとしている所をライガに取り押さえられる。
「てめぇは俺が殺す。それまで、絶対に死ぬんじゃねぇぞ?」
「ぐぁッ……待てッ……」
業炎が包む大聖堂の中心。舞い散る火の粉を気にする様子もなく、ネッツは冷めた瞳で航大を見下ろしている。航大とネッツの距離は絶望的なまでに遠かった。それは、距離的な意味でも、同じグリモワール使いとしての実力でも、航大はネッツの足元にも及ばないのが現実だった。
「うん。これくらいでいいかな?」
「まぁ、これでもやりすぎなくらいだと思うけどな」
冥府の王・ハーデースの腕に乗るネッツの隣に立つのは、薄紫色の髪と感情の篭もらない瞳が印象的な青年だった。ネッツと同じくらいに航大が憎しみの炎を燃やす相手、彼もまたグリモワールの使い手であり、あらゆる炎を自在に操ることができた。
「さぁ、これで仕事は終わりだよ。早く帰ろう」
「……分かってるよ」
「ぐうぅッ……待てってッ……言ってるだろッ……!」
全身を包み込む倦怠感の中、航大は声を絞り出す。
ライガに身体の自由を奪われ、それに抵抗する力すら持ち得ていない航大は、それでも帝国ガリアの騎士を名乗る彼らに声をかけずにはいられなかった。
「……弱い者に興味はないんだ。ごめんね」
「――ッ!?」
薄紫色の髪を業炎の中で靡かせながら、青年はたったその一言を残すと、それっきり航大への興味を失った。これが二回目の邂逅である。しかし、彼は航大のことなど微塵も気にした様子はなく、その記憶からも完全に抹消されていた。
その事実をこの瞬間に理解した航大は、今までにない怒りに感情が支配される。
この身体が動かないのが妬ましい。
あれだけ感じた力が喪失しているのが悔しい。
様々な感情が渦巻く航大をよそに、ネッツたちは虚空に手を差し伸べると、そこに巨大な炎の渦が生成される。それはヨムドン村で彼が姿を消したときの状況と全く同じだった。
「待てッ、待てえええぇッ!」
航大の叫びも虚しく、ネッツたちは炎の中に姿を消した。
彼らが存在していた場所には、既に勢いを増す業炎があるだけ。
それだけを見て、航大は再び彼らを取り逃したことを理解し、湧き上がってくる様々な感情から拳を強く握りしめる。
「……とりあえず、命は無事だったな」
「……そうじゃな。さぁ、おぬしたちも逃げるんじゃ」
「お前も逃げねぇとやべぇだろッ、この魔法、いつまでも続くもんじゃねぇんだろ?」
そう。今、この業炎の中で航大たちが生きているのも、リエルがその力を用いて守護結界を展開しているからだった。しかし、三人の人間を包み込むほどの結界を展開し続けるには、膨大な魔力が必要であり、リエルは額に汗を浮かべながらも、航大たちをその炎から守っていた。
「……ダメじゃ。儂はこの場所の守護者。自分だけが逃げることなど、出来るはずがないッ!」
リエルの表情は苦痛に染まっていた。
彼女はこの場所を守るために生を受け、そして数百年もの間、たった一人でこの場所を守護してきた。しかし、それもガリアの騎士たちの手によって、今にも崩壊しそうな有様と化してしまっていた。
リエルはどこまでも真面目だった。
最早、この場所を守ることなど出来ないと、頭では理解していても、守護者である誇りと責務から大聖堂に留まろうとしていた。それが自分の命を落とす結果に繋がっていると理解していても――。
「ダメだ……」
「……なに?」
そんなリエルの背中を見ながら、言葉を漏らしたのは航大だった。
彼女の決心を前にして言葉を飲み込んだライガとは違い、航大はハッキリとした声音で彼女の行動、考えを真っ向から否定する。
「お前も一緒に逃げるんだ。まだ、死んじゃいけないんだッ!」
「何故、そのようなことを言う? 儂が今、どんな想いでこの場所を見ていると思っているッ!」
航大の言葉に、リエルが感情的な様子で応える。
「儂はッ! 儂はッ……この場所を、何がなんでも守らなければならなかったッ! それが儂に与えられた……たった一つの使命で、生きる意味だったのじゃッ!」
「…………」
「それなのに……こんな結果になってしまい、大切な……大切な『家族』すらも失ったッ! それでも、おぬしは儂に生きろと言うのかッ!」
「…………それでも、ダメなんだよ。お前をここに残して行く訳にはいかない。お前を守ってくれって……お願いされたから……」
「お願いって、そんなこと誰が――ッ」
『――お願い、リエル』
少しずつ崩壊を始める大聖堂の中。航大、ライガ、リエルの三人は確かにその『声』を聞いていた。正確には、その声は鼓膜を震わせることはなく、三人の脳裏に直接響いていた。
「そんなッ、この声……あ、姉様……?」
「え、姉様?」
呆然とした様子のリエルは、震える声を漏らして虚空を見つめる。
ライガは何が起こっているのかを理解できないのか、目を見開いて首を傾げるだけ。
『――肉体は消失しても、私は生きています。異形の力を持つ、彼の中で』
「そんな……」
その言葉に、航大の胸が熱くなる。それは、自分以外の『何か』が存在していることの証でもあり、意識がある状態での変化に、航大は自分以外の存在が身体の内に存在していることを、確かに感じ取っていた。
『――まだ私を守ってくれると言うのなら、この人たちを助けてあげて、それが私を守ることにも繋がるから。それが、私の最後のお願い』
その言葉を最後に、航大の胸を熱くしていた存在は身体の奥深い場所へと影を潜めていく。それっきり、脳裏に声が響くことはなく、リエルはただ呆然とその場に立ち尽くすだけ。
「あ、姉様が……おぬしの中に……?」
「あ、あぁ……確かに感じる。俺以外の誰かが……この中には居る……」
リエルの目が信じられない物を見るようにして、航大の瞳を捉える。彼女の驚きに満ちた瞳を、航大は逃げることなくしっかりと見つめ返す。
そんな会話をしている間にも、大聖堂は音を立てて崩壊を続ける。
全てを焼き尽くす炎が結晶を砕き、溶かす。その結果、天井が崩落を始めて大聖堂はその原型を留めることはなく、文字通りの崩壊を始めていた。
「と、とりあえずさッ……早く何とかしないと……全員生き埋めだぞッ!?」
崩壊が進む大聖堂の中、リエルと航大の視線が交差する。二人の間に静寂が包み込む中、それを切り裂いたのは、ライガの声だった。
彼が言うように、自体は刻一刻を争っていた。
この場に留まれば、航大たちは間違いなく生き埋めになり、最終的には命を落とす結果に繋がるだろう。それを理解し、何とかしようとライガは声を上げたのだ。
「とにかく、今はここを脱出するぞッ!」
「でも、どうやって?」
「あぁッ、それを考えるんだよッ!」
「…………こっちじゃ」
静かに目を閉じ、一つ深呼吸をすると、リエルは表情を凛々しいものに変えて航大たちの背後を指差す。
「詳しい話はここを出てから聞かせてもらうぞ?」
「あ、あぁ……俺に話せることなら何でも……」
「そうと決まれば、ここを脱出するッ!」
やるべき事が決まり、三人が動き出す。
身動きが取れない航大をライガが背負い、リエルが先陣を切って駆け出す。
「――開けッ!」
リエルが壁に向かって言葉を放つ。すると、その言葉に従うようにして大聖堂の壁に巨大な穴が出現する。一歩先は暗闇に支配されていて、どこに繋がっているのかを、覗き込むだけでは把握することができなかった。
「飛び込むんじゃッ!」
「飛び込むって、ここにッ!?」
「はよせぇッ! 時間が無いぞッ!」
航大たちが動き出すのを待っていたかのように、大聖堂は崩壊の速度を上げていく。
あちこちの柱が倒壊し、天井が本格的に崩れ始める。
祭壇の上に存在していた、両剣水晶の姿も今では確認することができない。
「あぁもう、これで死んだら絶対に許さないからなッ!」
「ふん、男のくせに肝っ玉の小さい奴よ」
「うるせッ――うおおおおおおぉぉッ!?」
リエルの言葉に怒ろうとするライガの背中を、リエルは無情にも蹴り飛ばしていく。
航大たちを先に穴へ突き落とし、リエルもそれに続こうとする。
「……姉様」
飛び込む間際、リエルはもう一度だけ背後を振り返る。
そこにあったはずの、数百年もの永い時間を過ごした大聖堂の姿は跡形もなく消失していて、あるのは灼熱の炎だけ。
大事な家族の身体がそこにはあった。しかし、それも炎に包まれ、結晶に押し潰され、リエルですら存在を認識することができなかった。
最後に強く唇を噛み締め、リエルは再び穴の方へ向き直る。
「……さようなら」
それは誰に向けた言葉なのか、何に向けられた言葉なのかを誰も知ることはできない。様々な想いを込めて紡がれた言葉は、業炎の中に消えていく。
ぽっかりと口を開けた暗闇の中へ、リエルはその身を投じていくのであった。
桜葉です。
また第二章に一つの区切りがつこうとしています。
次回もよろしくお願いします。




