第七章35 陥落する要塞
女神たちとの邂逅を終えると、航大の視界は再びの暗闇へと包まれる。意識が現実へと回帰しており、その過程で航大は戦いの傷を癒そうとする。
「――――」
これまでに何度も経験してきたパターンだ。
暗闇の中で浮遊感に身を任せていると、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえてくる。聞き慣れた声音に思わず笑みが漏れそうにもなるが、今の航大には戦いの疲労が全身を襲っている状況であり、何よりも睡眠と疲労回復を優先させたいという欲望に駆られている。
「…………」
「――――」
声が一時停止する。静寂は休息に最も必要な要素であり、航大の意識は深い眠りの淵へと堕落していく。
「…………」
後頭部になにか柔らかく、そして暖かいものを感じる。それは楽園に居るのかと錯覚するほどに強い幸福感を与えるものであり、その感触を少しでも楽しもうと航大の身体は無意識のうちに無意味な寝返りを繰り返す。
「――――ッ!?」
柔らかく暖かい後頭部にあるモノが慌ただしげに揺れ動く。
至福の時を失ってはいけない。逃げようとする柔らかなモノを追って、航大の身体は不自然に揺れ動く。
「――、――ッ!?」
後頭部から誰かの動揺が伝わってくる。
掛けられる声音に怒号が含まれている気もするが、今の航大には関係ない。この楽園にも似た感覚を味わい続ける。そのためならばどんな手段を犯しても構わないという覚悟を持っている。
「……い、いい加減に、起きるのじゃッ!」
「ぐほおおぉーーーーッ!?」
腹部を襲う強烈な衝撃と痛み。
それは深い眠りへと堕ちていこうとした航大の意識を瞬時に覚醒へと導くものであった。目を見開き、衝撃と共に上半身を起こす。その際に蛙が潰れた時のような声が漏れるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「ぐぉッ、おぉ……」
「ぜぇ、はぁ……ぜぇ、はぁ……どうじゃ、目覚めの気分は?」
「……最悪だな」
「どうして最悪な目覚めになったか、儂からそれを説明しようか?」
「…………」
「遠慮することはないぞ、主様。この賢者である儂が手取り足取り、丁寧に教えてやろう」
「リエル、とりあえず無事でよかったなッ!」
「どうして話と一緒に目まで反らすんじゃ? 主様、自分がどんな行いをしたのか、聞きたくはないのか?」
「……怒ってる?」
「儂がどうして主様に怒らねばならないんじゃ? 主様は帝国騎士を相手に戦った男じゃ、惚れはしても、怒ることなんてありえないぞ? なにか心当たりがない限りはな」
「…………」
「心当たりがあるんかの?」
「……なんとなく?」
「ほうほう、あれだけ儂の太腿を堪能しておきながら、心当たりはないと?」
「――すみませんでしたッ!」
いよいよ限界。
そう言わんばかりに航大は勢いよく頭を下げて、不気味な笑みを浮かべるリエルに謝罪の言葉を投げかける。朧気な意識の中で後頭部に感じた至福の感触。それはリエルの太腿だったらしい。
「いや、でも……どうしてリエルの太腿が……?」
「…………」
ジト目でこっちを見るリエルは航大の問いかけにしばし無言を貫く。
どれくらいの時間が流れただろうか。永遠にも似て、しかし実際は数秒の時しか経過していない中、リエルは小さくため息を漏らす。
「帝国騎士との戦いは壮絶だったのじゃろう……」
「…………」
「そんなことは周りを見ればすぐに分かる。儂は自分が情けない。主様を助けるために、共に戦うためにこの場へ赴いたというのに、そんな儂は大事な戦いにおいてなんら役には立たなかったのじゃ」
「…………」
「傷だらけでボロボロで……そんな主様を見たら、少しは癒やしてやりたい……そう思ったんじゃ」
「そうだったのか……」
「まぁ、心配なんて余計なお世話だったみたいじゃがな。儂の太腿の上で寝る主様は、それはそれは幸せそうな顔をしてからの」
「…………」
安堵。寂寥。諦観。
リエルの表情がコロコロと変わる。
大事な戦いで戦力になれなかった事実。
傷つき、倒れ伏していた航大の姿。
その全てがリエルの心に暗い影を落とす。
「ありがとうな、リエル。リエルが役に立たなかった、そんなことはない。リエルはリエルで帝国の魔獣と戦ってたんだ」
「…………」
「リエルが無事で良かった」
「……それはこっちの台詞じゃ」
ここで初めてリエルは安堵の笑みを浮かべた。
少し照れが入った笑みはとても可愛らしく、その姿に航大の心は癒やされる。
「……主様、帝国騎士たちは?」
「帝国騎士、ネッツは……死んだよ」
「…………」
航大の言葉を聞いて、リエルの表情が僅かに歪む。
自分たちは世界を守るための戦いをしているのだ。相手は世界を混沌へと陥れようとする帝国ガリアの最高戦力たる騎士。その戦いは想像を絶するものであり、その果てにどちらかの命が失われる、そんなことは容易に想像できることだ。
しかし、実際に誰かが死ぬ。それが味方であっても、敵であったとしても、リエルにはその報告を笑みで聞くことはできなかった。
「味方の手によってな」
「味方の手……?」
「ミノルアを襲った帝国騎士は二人居た。一人は帝国騎士・ネッツ。そしてもう一人……ミノルアの氷山を火の海にした帝国騎士。アイツがネッツにトドメを刺したんだ」
「――――」
航大の言葉にリエルの目は大きく見開かれる。
ルクスリア・ランズ。
『憤怒のグリモワール』を所有する冷酷な騎士。静かな立ち振舞からは想像もできない苛烈で凄惨な性格の持ち主だ。他人の命を奪うという行為になんら躊躇いを持つことはない。
「とりあえず、今は先を急ごう」
「…………」
「まだ生き残ってる人が居るかも知れない。助けられる人が居るかも知れない」
「…………」
リエルの表情は暗いままである。航大の言葉に返答することもなく、ただ沈痛な表情で俯くばかり。今、航大たちの眼前に存在するは、沈黙を保ったマルーダの王城である。
王城を見上げるリエルの表情に変化はない。むしろ、より一層と影が濃くなったかのようにさえ思えた。そんな彼女の様子を隣で見る航大もまた、自らの心に負の感情が湧き上がっているのを感じていた。
『影の王』を取り込んだことによって、航大は負の感情に敏感になっていた。それは自分だけではない他人の感情ですらも察することができるようになっていた。
「……リエル、行かないといけないんだ」
「どうして……結果は分かりきっている。あの城には、帝国騎士が……儂たちの街を壊滅させた騎士が侵入していたんじゃぞ……」
「それでも、だ……俺たちは確かめなくちゃいけない。自分が何と戦っているのか、戦うべき相手が成したことを自分の目で確かめて、そして次の戦いへ出向くんだ」
「……そう、じゃな」
「リエル、立ち止まるんならそれでもいい。でも、俺は行くぞ」
「…………」
振り返り投げかける航大の言葉にリエルは静かに目を閉じる。そしてしばしの静寂を保った後、閉じられた瞳は再びゆっくりと開かれる。
「分かった。先に進もう。儂たちはこの先にある全てを見なければならないのじゃな」
「そういうことだ」
要塞国家・マルーダは異様な静寂に包まれている。それは城下町だけではない、頑丈な防壁に包まれた王城ですらも生き物の気配を全く感じることができない。かつてこの国は多くの人間が生活をしていたはずで、よく目を凝らせば辛うじて人間が生活していた痕跡を見ることができる。
それにも関わらず、この国には全くと言っていいほど他者の存在を感じないのだ。
「…………」
一歩。一歩。
王城が近づき、それと共に焦げ臭い匂いが鼻腔を襲うようになる。
瞬間、航大とリエルの表情が苦悶に歪む。周囲を確認すれば小さな焚き火のようなものが幾つか存在していた。業炎を自在に操る『憤怒のグリモワール』を持ったランズが訪れた決定的な証拠であり、その力が使用された証明でもある。
無数に存在する業炎の名残りと、周囲を漂う鼻をつんざくような異臭。
眼前に突きつけられた幾つかのピースが繋がり、航大たちが最も回避したい『最悪』へと誘っていく。少しでも気を抜けば足が止まりそうになる、少しでも油断すれば目を閉じたくなってしまう。
「こんなことが許されていいのか……?」
ぼそっと言葉を漏らすのはリエルだった。
足を踏み出すたびにリエルの表情も暗いものへと変わっていて、航大と感じていることが同じだと痛感する。無意識の内に歩く速度が遅くなり、それを意識する度に大きく一歩を踏み出そうとするが、それも次第に遅くなる。
この先に待ち受ける地獄絵図に心も身体も拒否反応を見せている。誰しも見たくないものがあるのが分かっていて、心が晴れるどころか進む足すらも重くなるのは当然のことである。
「マルーダって国はこの王城だけが独立して行動することができる……そんな話じゃなかったか?」
『ふむ、確かにそのはずだ』
「だったらどうして……今もまだ、この場所に……」
『主よ、その答えを今、この瞬間に求めるか?』
「…………」
要塞国家・マルーダ。
難攻不落の王都は過剰なくらいの防壁によって守られていた。更に緊急時には王城が空飛ぶ船へと姿を変え、国民を守りながら戦うことができるとされていた。しかし、帝国騎士の襲撃を受けた現在を持ってしても、マルーダの王城は沈黙を保ったままであった。
今、目の前にある現実を答えとして受け取るのならば、航大たちが考える最悪の結末がより信頼度を高めることになる。
「より臭いがキツくなったな……」
「嫌な臭いじゃ……なにかが焦げた臭い……そして、腐敗臭じゃ……」
開け放たれた城門を潜ると鼻腔を刺激する臭いが一段と強くなる。
思わず顔を顰めたくなるような臭いが充満する異常世界。
普段ならば白を基調とした美しい王城内部が存在していたはずだった。しかしそれも今では炎によって焼かれたのか、到るところが黒く濁っている。火の玉が直撃した痕のようなものもあれば、火の鞭が直撃したような痕もある。
城内で戦闘があったことは間違いなく、その証拠として周囲に無数の死体が転がっている。マルーダの国旗を胸にした無数の兵士たちは様々な表情を浮かべて倒れ込んでいた。
絶望。
怒り。
諦め。
死してなお浮かべる最後の表情、そこから読み取れるのは唐突にやってきた理不尽への感情だ。数えるのが億劫になる死体の山。まだ人間としての原型を留めているのは幸運な方で、見渡す限りの地獄絵図の大半は人間であるかも判別がやっとな黒く焼き焦げた死体だらけなのだから。
「――――」
絶句。
あまりにも酷い光景を目の当たりにして、航大たちはただ言葉を失うばかりである。
焼死している人の中には兵士以外の人間も数多く含まれていた。辛うじて形を残している衣服を見れば判別可能であり、よく周囲を見渡せば兵士服以外の人間が多いことがわかる。
抵抗する術すら持たない一般人。
そんな人間に対しても帝国の騎士は自らが持つ力を振るったのだ。
「リエル、これが俺たちの戦ってる敵なんだ」
「…………」
「帝国ガリア。アイツらにも戦う理由はある。だけど、決して俺たちと相容れることはないんだ」
失われた数多の命。
国民全員を格納することができる王城だからこそ、被害は甚大だったのかもしれない。国家を、国民を守るための道具であったかもしれない、しかしそれが最後に悲劇的な結末を生むことになってしまった。
「俺は帝国を絶対に許さない。アイツらの野望は俺たちが絶対に止めるんだ」
「…………」
「行こう、リエル。俺たちが向かうのは帝国ガリアだ」
難攻不落、要塞国家・マルーダはたった二人の帝国騎士によって陥落した。
失われたものはあまりにも多い。
世界を手中に収めんとする帝国がここまで活発的に活動を開始したのならば、それを止めることができるのは航大たちだけなのだろう。時間は刻一刻と過ぎている。今、この瞬間にも帝国はまた別の土地で猛威を振るっているかもしれない。
「……ライガ、シルヴィア。生きて帝国で合流しよう」
願望にも似た言葉を漏らし、航大、リエル、そして女神たちは決戦の地である帝国へ向けて新たなる一歩を踏み出すのであった。
桜葉です。
次回もよろしくおねがいします。




