第七章33 大蛇と金色の狂者XⅨ
誰しも人間ならば持ち得る負の感情。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
永い時を生きていく中で、それらの感情と無縁に過ごすことなどは不可能である。幸せと不幸せは人生において半々になると言われており、剣と魔法が支配する異世界へと転移
した航大もまた、その例に漏れることはない。
『気分はどうだ?』
「……あぁ、悪くない」
自分の深層世界に存在していた負の権化たる存在『影の王』。今まで目を逸らし続けてきた存在と向き合い、そして今後避けられない戦いのために、自らが決めた禁忌すらも犯して力を手に入れたのだ。
「これまでと全然違うじゃねぇかよ。俺らと同じ魔力を溢れさせやがって……」
対峙するは帝国ガリアの騎士アワリティア・ネッツ。
金色の髪に紅蓮の瞳、しかしその身体を構成する大部分が今では異形のものへと変化している。グリモワールが持つ権能を使ったことで、ネッツは自らの身体に地獄の大悪魔・サタンを憑依させた。
圧倒的なまでの力を持つサタンとの融合は、ネッツから人間らしい部分を奪っていく。
手足は筋肉が隆起し、肌色は黒く変色している。背中からは巨大な黒翼が生えており、更に頭部にはねじ巻く悪魔の角が存在する。
「でも、これで更に面白くなってきたな。そろそろ決着つけようぜ――この戦いによッ!」
ネッツの目が見開かれ、全身から膨大な量の魔力が放出される。
肌が粟立つほどの負に満ちた闇の魔力。常人ならば呼吸すらも困難な状況で、対峙する航大は放たれる魔力をただ一人で受け続ける。
異界からやってきた青年はその両手に漆黒の日本刀を持っていて、彼の身体からも禍々しき闇の魔力が溢れ出している。量や濃度はネッツと同等か僅かに劣る。しかし、かなり高い水準で力を内包していることに間違いはなく、二人を中心に異様な空気が取り巻いている。
「終わらせてやるよ。そして俺は先に進む――ッ!」
二つの人影が同時に動きだす。
地面を蹴り、一歩、二歩、強く大地を踏みしることで土埃が舞い、遠く離れていた距離は瞬く間に縮まっていく。
互いに見ているのは倒すべき相手だけ、精神が極限まで研ぎ澄まされそれぞれが持つ武器には明確な殺意を帯びている。振るわれる得物は一瞬でも油断すれば即座に命を奪われかねない。
それほどにまで極められた戦いが始まろうとしている。
息つく暇すら与えられない極限の戦い。互いが互いに譲れぬものを賭けている。命を賭けて、誇りを賭けて、覚悟を決めて異界に迷い込んだ二人の青年の戦いが今、始まる。
『そうだ、この緊張感ッ! この緊迫感ッ! たまんねぇな、相棒ッ!』
「……うるせぇッ!」
「来いッ!」
脳内に響く声音を掻き消し、航大は吠える。両手には魔力を帯びた漆黒の日本刀、航大から受ける魔力によって切れ味が高められており、まともに対象を捉えることができれば、切れぬものはない。
「――――ッ!?」
右手に持った刀を振るう。
風を切り裂き進む刀身は空を切る。
期待した成果を得られていないと即座に判断し、航大は左手に持った同じ形をした日本刀を振りかぶっていく。切るべき相手は航大の初撃を避けるために後方へステップしている。そこへ間髪入れずに追撃を行うことで帝国騎士・ネッツの息の根を止めようとする。
「踏み込みが甘いッ!」
思い切り上半身を捻りながら繰り出す追撃。しかしそれは、ネッツの身体へ到達する前にその勢いを喪失してしまう。その原因はネッツの周囲に存在していた巨大な悪魔の手が、ネッツを守るようにして姿を現し、迫る刀身をしっかりと受け止めていたからだ。
「ちッ、どうして切れない……ッ!」
「何も難しいことなんてないさ。俺が召喚した悪魔の手と、お前の日本刀……こっちの方が纏う魔力が大きい、ただそれだけだッ!」
『相棒ッ、なにボーッとしてやがるッ! すぐに離脱しろッ!』
脳内に影の王の声音が響く。
身体が反射的に動き、悪魔の手によって掴まれていた日本刀を強引に引き抜くと、大きく一歩後退しようとする。
「お前が二本の刀を使うのなら、俺にだって二つの手があるんだよッ!」
「――――ッ!?」
下がった瞬間、航大の視界が巨大な拳で埋まる。
ネッツが手を振りかざし、その動きに呼応するようにしてネッツが召喚した残った左手の拳が航大の身体を直撃する。
握り拳を作った状態でも航大の背丈ほどはある悪魔の手。それが全速力で直撃することで、航大の身体はいともたやすく後方へと吹き飛ばされていく。
「ほら、今度はこっちの番だぜッ!」
地面を転げ回り、派手に土埃を上げながら弾け飛んでいく航大へ、今度はネッツが追撃を仕掛ける。まるで自分の手のように悪魔の手を器用にコントロールするネッツは、右手を大きく開き、その上に闇の光球を生成する。
「この一撃はでけぇぞ?」
航大が反撃に転じる隙を与えないと言わんばかりに、ネッツは光球を放つ。楕円に形を歪めながら剛速球で突き進む光球は地面に触れるのと同時に炸裂する。地面を大きく揺らし、凝縮された魔力が地面を抉り取っていく。
「…………」
ゆっくりと半円を形成しながら広がっていく闇の光。
それはあらゆるものを破壊する一撃である。
「……来るッ!」
異変は直後に起きた。
広がり続ける光の半円が突如として瓦解する。
中心から綺麗に真っ二つにするようにして亀裂が走る。そこから人影が飛び出してくると、一直線にネッツ目掛けて突進してくる。
「これくらいじゃダメージも負わねぇってかッ!?」
「――――ッ!」
愚直なまでに一直線。
一切の迷いなく突っ込む航大はその手に持った刀を振り下ろしていく。
「お前……」
「今度のは効いただろ?」
振るわれる一閃はネッツが防御に展開した悪魔の手を容易に切り裂いた。
「何をしやがった?」
「簡単なことだよ、お前の魔力を俺が上回った。ただそれだけだ」
航大が振るった一撃によって悪魔の手は鮮血に濡れている。
攻守ともに存在感を放っていた悪魔の手はその機能を喪失した。今、ネッツを守るものは何も存在しない。
「ふざけんなよ。俺は絶対に負けない……負ける訳には、いかねぇんだよーーーッ!」
大地が揺れる。
ネッツの立つポイントを中心に数多の地割れが発生し、地中から超濃度の魔力が溢れ出してくる。
「サタンッ、俺の身体なんてくれてやるッ、だから今、ここでッ……コイツを倒す力を貸せッ!」
地面から噴き出す魔力は津波のように押し寄せ、ネッツの身体を飲み込んでいく。次の瞬間、ネッツが放つ魔力が瞬間的に跳ね上がり、いよいよその身体が原型を留めない形で膨張を始めた。
『精神を研ぎ澄ませ』
脳内に声が響く。
『なにもビビることはねぇ。今のお前なら負けることはねぇよ』
声に導かれる形で航大は目を閉じる。
視界を遮り、内で蠢く力を一点に集中させる。
『お前の前に居るのはなんだ? 世界を壊そうとする奴だ、お前が憎むべき相手だ』
マグマのように燃え滾る怒りが込み上げてくる。
閉ざされた視界の奥に映るのは、帝国騎士の前に為す術もなく崩壊していく氷の街。数多の人が故郷を奪われ、数多の人の命が散っていった。新たなる世界を創造する。あまりにも身勝手極まりない理由で命を奪う帝国ガリアの騎士たち。
英雄になんてならなくてもいい。
ただ自分が成すべきことを成すだけ。
『解放しろ。お前の怒りを――ッ!』
「万象滅殺、深淵の一閃よ轟け――残鬼一閃ッ!」
刹那の静寂。
振り下ろされる漆黒の日本刀。
闇の魔力を纏った刀の一振り。それは得られた結果に対して見れば、あまりにも静かで地味な動きだったかもしれない、しかし瞬きの瞬間、目に見えぬ強大な一撃は確かに帝国騎士の身体を捉えることに成功していたのだ。
「――ッ、ぐッ……がッ……なんだよ、それ……ッ!」
航大が刀を振り下ろした先、そこにはまっすぐに伸びる一閃の痕が存在していた。鋭利な刃物で真っ直ぐに切れ込みを入れたかのように、地面を走る小さく長い亀裂。その果てに立つネッツの身体は右半身と左半身で綺麗に両断されていたのだ。
「はぁ、ぐッ……ここまで、ってか……さすがにちょっと……力を使い過ぎた、か……」
「…………」
「グリモワール。この本があれば、なんでもできるって思ってた。この世界に来て、俺は今度こそ夢を果たせるって思ってたんだよ……」
左肩から左足の付け根に掛けて、斬撃による一閃が刻まれている。
じわりと鮮血が滲み、一度溢れれば止まることなく溢れ続ける。誰が見ても致命的な一撃を受けていることは確かであり、しかしそれでもネッツは自らの足で立ち続けている。
「だけど、それもここまでってことだな……」
立ってはいる。しかしそれは、立つだけが限界でもある。
命の灯が潰える間際、ネッツは自らの無力を嘆き、そしてどこか清々しい表情すら浮かべていた。自分ができることは全てやった、たとえ夢を果たすことができなかったとしても――。
「お前は本気でこの世界を救えると、そう思ってるのか?」
「あぁ、俺はそのためなら何でもやるつもりだ」
「そうかよ。お前ならやれるのかもしれねぇな……持っていけよ、コイツを」
そう言ってネッツが視線を送る先、そこには弱々しく光を帯びて虚空に浮遊するグリモワールがあった。異界の魔獣を召喚し、それを使役する異能のグリモワールである。
「どうしてそれを俺に?」
「賭けてみたくなったんだよ。お前たちが守ろうとしてる世界の行く末って奴をな……いい世界を作ってくれるんだろう?」
「あぁ、それは約束する」
「ふっ……すげぇ自信じゃねぇか。それじゃ、後は――ッ!?」
その顔に笑みを浮かべた直後、それは突然の事態であった。
「――――――――――ッ!」
言葉にならない断末魔の叫び。
航大の目の前で突如として、ネッツの身体が眩い業炎に包まれる。凄まじい勢いの炎はあっという間にネッツの身体を焦がし、潰えそうになっている命を飲み込んでいく。
「おい、やめろ……やめろッ!」
航大の怒号が響く。視界を彷徨わせ、航大はある人物の姿を探す。
眼前の業炎。それを見るのは初めてではなかった。氷都市・ミノルアを襲った一連の悲劇、その中でも航大の怒りを最も買った人物。それがすぐそこにいる。
「駄目じゃないか、ネッツ。グリモワールは僕たちの計画にとって重要なアイテム。それを敵に渡そうとするなんて」
声がした方を見れば、そこには薄紫の髪を風に靡かせる青年が一人立っていた。純白の軍服は帝国騎士の証。憤怒のグリモワールを所有する帝国騎士の一人が今、航大の前に姿を現した。
「帝国ガリアの騎士に敗北者はいらない。そのまま惨めに死ねばいいよ」
「――――――――――ッ!」
ネッツがの絶叫が木霊し、それも次第に小さくなっていく。
そしてゆっくりと膝から崩れ落ち、果てにネッツは声を上げることも出来ずに絶命した。あまりにも惨たらしい最後の瞬間。帝国騎士・ネッツは仲間の手によって凄惨たる最期を迎えることになった。
「ふぅ、これで一仕事終わりかな。はぁ、無駄に体力使っちゃったし、早く帰りたいよ」
「――おい」
「…………」
ネッツが死んだことを確認するなり、帝国騎士ルクスリア・ランズは踵を返して姿を消そうとする。しかし航大はそれを許さなかった。
「お前、このまま帰すとでも思ってるのか?」
「へぇ、僕を止めることができるって言うのかい?」
「お前は絶対に許さない」
「くくッ、あはははッ! やっぱり君は面白いね。ネッツは帝国騎士の中でも最弱なんだよ。そいつに勝ったからって、調子に乗ってるんじゃないかい?」
「調子に乗ってるかどうか、確かめてみるか?」
「うるさいなぁ。僕は帰りたいんだよ。邪魔するな――」
次の瞬間、ランズの身体から今までに感じたことのない魔力が発せられる。
それは本能的な恐怖によるものであり、全身のあらゆる部分に超濃度の魔力が突き刺さり、ランズを中心に地面が抉れ、少しでも気を抜けば呼吸すらもままならない状態である。影の王が持つ力を持ってしても、立っているだけが精一杯である。
「今の僕にあまり舐めた口を聞かないほうがいいよ。そうじゃないと、君を今すぐにでも殺してしまいそうだ」
「…………」
ランズの視線に射抜かれ、航大の身体は無意識の内に小さく震えてしまう。
氷都市・ミノルアで対峙した時とは比べ物にならない魔力量。あの時、ランズは全く本来の力を出していなかった。数多の戦いを経て航大は確実に成長した。しかしそれでも今、目の前に立つ帝国騎士との間にはまだ大きな差があるのだと痛感させられてしまう。
「ふん、それじゃ僕は帰るから。また近い内に君とは会うことになるだろうね。その時が君の最後だ」
一歩も身動きが取れない航大を見るなり、ランズはつまらなそうにため息を漏らすと踵を返して歩きだす。その手にネッツが所有していた『怠惰のグリモワール』を持ち、土埃が舞う道なき道を少し歩いた後に、その小さな姿は完全に霧散する。
「くッ、はぁッ……ごほッ、こほッ……ぐッ……」
場を支配していた魔力が喪失するなり、航大は胸を抑えて蹲ってしまう。ランズと対峙した際の緊張が解け、航大は自らの肺に新鮮な空気を取り込もうと息を荒げる。
「……俺とアイツにはまだ差があるってのか?」
『まぁ、そういうことだろうよ』
「…………」
『なにを戸惑ってる? 相手がまだ強いってんなら、お前もまた強くなればいい。きっとこの先にある光景、それを見たならばお前はまた一段と強くなるだろうよ』
「この先にある光景……?」
『それは自分の目で確かめてみるがいいさ。俺はそろそろ眠らせてもらうぜ』
「眠る?」
『当たり前だろ。俺がこうして顕現している。それだけでも凄まじい負担がお前に伸し掛かってる。俺が眠った後、その意識を保つことができたのなら、それは大したもんだ』
「……そうか」
『まぁ、幸い仲間がいるみたいだしな。大丈夫だろう。糞女神たちの相手はお前に任せる。それじゃあな』
「おい、ちょっと――ッ!?」
脳内で響いていた影の王の言葉が途絶える。
それと同時に航大は全身を襲う強い倦怠感に倒れ伏す。
「なんだこれ……身体が……怠い……」
意識を保つのも難しい。ゆっくりと閉ざされていく視界に航大は抗うことができない。
そして数秒と経たずにして航大の意識は深い闇へと誘われていくのであった。
桜葉です。
帝国騎士との戦いはまだまだ続きます。
次回もよろしくお願いします。




