第七章30 大蛇と金色の狂者XⅥ
「―――――」
誰かの声がする。それは酷く聞き慣れたものであり、しかし覚醒には程遠い今の状態では自分に掛けられる言葉が誰のものであるかを判別することができない。心地いい浮遊感に包まれ、先程までの喧騒すらも忘却しそうになる。
「おい――――」
また声が聞こえる。
今度はよりはっきりとしたものであり、ここで初めて航大は自分を呼ぶ声の主が男であることを知る。そしてやはり声を掛けている人物のことを、航大は誰よりもよく知っていた。
「おい、いい加減に起きろッ!」
「ぐふッ!?」
腹部に強い衝撃が走り、予期せぬダメージに航大は思わず苦悶の声と共に意識を覚醒させる。
これ以上にない最悪な目覚めを経験した航大は、目の前に広がる光景に目を見開く。眼前に広がっているのは、今ではもう懐かしい異界の風景であった。同じような形をした家屋が立ち並び、よく見れば子供たちが遊ぶ公園もある。
「……懐かしいなぁ」
剣と魔法が支配する異世界にやってきてから一体どれほどの時間が経過したのだろう。自分が異世界に滞在している間も、自分が生まれ育った世界の時間は流れているのだろうか、もしそうなのだとしたら今でも家族は自分のことを探してくれているだろうか。
異世界で濃密な時間を過ごす日々が続き、航大の中で元いた世界に帰りたいという気持ちは薄れてしまった。
「あれ、どうして俺は……こんな辛い目に遭ってるんだっけ……?」
目を覚ましてもすぐには意識は覚醒しない。
靄が掛かった脳内が少しずつ整理され、自分が今、置かれている状況を理解していく。
「はぁ……お前、とうとう頭がおかしくなったか?」
「……久しぶりだな、もうひとりの俺」
「ふん、さすがに俺のことは忘れてなかったか」
「お前は何かとインパクトがあるからな。それで、俺はどうしてこんなところに?」
声がした方向を見れば、そこには自分と酷くにた背格好をした『影』が立っていた。これまでにも何度か邂逅を果たしたことのあるこの存在は、航大が持つ負の感情が具現化したものである。
自我を持ち、世界の破滅を願う異形の存在である。
やはり幾度となく邂逅を果たしたとしても、航大は眼前に立つ人物が限りなく自分に近しい存在であることに実感を感じることはなかった。しかし、彼が自分の内なる世界の『王』であることに間違いはなく、普段であるならばシュナやカガリといった女神たちが影の力を抑制しているはずだった。
「カガリやアスカはどうしたんだ?」
「ん? あいつらなら今は眠ってるんじゃないか?」
「眠る? そんなことがあるはずないだろ……お前、なにをしたんだ?」
「おーおー、怖い顔をするなって。俺はお前で、お前は俺なんだ。一心同体、仲良くしようぜ?」
「……確かにお前は俺自身なのかもしれない。だけどな、お前とは決して相容れない……それは確実だ」
「まぁ、お前がどう思っていようが俺にはどうでもいいんだけどな。お前は俺を頼らなくちゃいけねぇ……ついにその時が来たんだからよ」
「俺がお前を頼る……?」
「まだ寝ぼけてんのか? 自分がどんな状況に置かれていたか、それを思い出せ」
「…………」
『影の王』は現実逃避する航大を決して許してはくれなかった。
「アイツに勝ちてぇんだろ? それなら俺の力を使え」
「どういうことだよ、お前の力って……」
「何も難しく考える必要はねぇ。俺は力を持ってる。そしてお前は俺の力と、忌々しい女神の力を使って、敵を倒すんだよ」
影の王が持ちかけてきた提案は航大が想定していないものだった。これまでも決して味方をするような存在ではなかったはずである、しかし今、この瞬間において影の王は航大を助けようというのだ。
「お前が俺を助けるメリットはどこにある?」
「……航大、俺はお前に死なれたら困るんだよ。それは分かるだろ?」
「…………」
「理想は弱ってるこのタイミングで身体を奪っちまうのが良いんだが、グリモワールも持ってない今、俺にはそこまでの力はねぇ。しかも、忌々しい女神たちだっているしな」
「だから協力すると?」
「そうだ。俺はチャンスを待っている。だけど、死んだらチャンスすら存在しねぇんだ」
「…………」
自らが持つ野望ですらも隠すことなく、航大に提案を投げかける。
提案を承諾すれば自らの内に潜む脅威を延命させることとなり、提案を拒否すれば帝国騎士・ネッツとの戦いに勝利することは叶わない。影の王と静寂の中での対峙が続く航大。彼が出す答えが世界の未来を大きく変えることとなる。
「……分かった。力を貸してくれ」
「素直じゃねぇか」
「今は時間がない。まだチャンスがあるなら、それに賭けるしかないだろ」
「いいぜ、その選択が間違ってなかったことを、今に知る。俺の力はお前が持っていたグリモワールが原点だ」
「グリモワールが……?」
「今は手元になくても、お前がグリモワールに選ばれたのは間違いない。異形の力は手にするだけで絶大な力を与えることができる。しかしそれは、普通であるならば封印されていて使うことはできない」
「その封印って奴を解けば、戦えるんだな?」
「あぁ、そうだ。そして封印を解くのは簡単だぜ。お前が俺を受け入れればいい。ただそれだけだ」
「受け入れる……?」
「自分の闇を受け入れろ。誰しもが無意識の内に抑えつける、欲望、野望、妬み、憎しみ……その全てが俺の力になる」
「それで俺を支配しようってのか?」
「お前が自分の闇に屈するとき、その時こそ真の意味でお前の身体が俺のものになるだろうさ」
「なら良かった。屈することなんてないからな」
「その威勢が最後まで続けばいいな――」
その言葉を最後に『影の王』の姿が大きく変化する。
身体を構成していた影が糸のように解れ、航大の身体へと吸収されていく。
「うッ!? ぐぁッ、なんだ、これ……ッ!?」
「慌てることはねぇ、俺とお前は一体化するんだ。自分の闇に取り込まれないようにするんだな」
「意識が、保てない……」
影が体内へと侵入し、それに伴って強い眠気が襲ってくる。
瞼を開いていることすら困難であり、航大の身体はふらふらと左右に揺れてしまう。徐々に視界が狭まり、急速に意識が覚醒へと導かれようとしている。
「目を覚ましたのなら、お前は新たな力を手に入れてるだろうよ」
「…………」
最早、影の言葉に返答することもできない。
自らが内に秘める負の感情。それを手にし、航大は再びの戦場へと回帰する。
◆◆◆◆
『主ッ!』
「…………ッ!?」
脳内に響く声に目を覚ます。
まず飛び込んできたのは眼前で立ち尽くす帝国騎士・ネッツの姿。航大は右腕を突き出した状態で静止していた。その拳はネッツによって受け止められており、最後に見た光景、自分の腕が消失しているようなことはなかった。
「俺は……」
『なにをボーッとしているッ!』
炎獄の女神・アスカの怒号が響く。航大にしか聞こえてはいないが、その声は強い焦燥感に包まれている。攻撃の直後、一瞬でも意識を飛ばした航大が置かれている状況は最悪である。帝国騎士との戦いにおいて致命的な隙を晒した状態を、アスカはなんとか是正しようとしているのだ。
「戦いに集中してねぇとは、舐めてんな?」
「…………」
アスカの声も、ネッツの声も今の航大にはなんら意味を成さない。
自らの内から湧き上がる様々な感情。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
今まで見てみぬ振りをしていた内なる負の感情が制御されることなく溢れ出してくる。眼の前が真っ赤に染まり、航大は力の源泉ともいえる感情へ身を浸していく。
『これは……』
「…………」
瞬間、アスカとネッツも異変を察知する。
それもそのはず。
立ち尽くす航大の身体からは異様なまでの殺気が放たれているからだ。
一切、コントロールされることのない殺気は力へと姿を変え、航大の身体を包む炎に黒炎が混じり始める。
『主よ……これは……』
「俺はこんなところで負ける訳にはいかない。守らなくちゃいけないものがあるんだ」
「守る? そんな殺気を隠そうともせずに偉そうなこと言うじゃねぇか」
「どんな手段を用いても、どんな犠牲を出すとしても……俺は自分が守りたいものを、守る……そして、全てを手に入れるッ!」
負の権化たる闇の魔力が全ての炎を黒炎へと変えていく。
女神が持つ力を強制的に引き出し、自分が持つ負の魔力と融合させていく。
「まだ隠し玉があったってことか……」
「帝国ガリア。帝国の騎士。俺からユイを奪い、全ての人から希望を奪う存在……俺はお前たちの存在を許す訳にはいかない」
負の感情が高まれば黒炎の勢いは増す。
溢れんばかりの力を解放し、航大は自らが突き出す拳を思い切り振り抜く。
「くうぅ……ッ!?」
強烈な力を前にネッツの身体が僅かに後退する。先程まではビクともしなかったはずなのに、航大は限界を超えた力任せの一撃によって帝国騎士から距離を取ることに成功する。
「コイツ、この力は一体……」
「帝国ガリアの騎士。お前たち全員を……俺が殺してやる」
不条理なまでの殺戮。
ここに至るまでに見てきた、体験してきた全ての事象が航大に『怒り』と『憎しみ』の感情を煽り立てる。世界の災厄として君臨する帝国の行動全てが航大の負の感情を昂ぶらせていく。
「終わらせてやる。お前たちの野望も、存在も……この俺が……終わらせるッ!」
漆黒の炎を纏い、航大の反撃が始まる。
壮絶なる戦いの終幕は着実に近づいているのであった。
桜葉です。
次回もよろしくお願いします




