第七章20 大蛇と金色の狂者Ⅵ
「なんだよ、コレ……どうなってんだ……?」
『わ、分からない。こんな魔法は見たことも聞いたこともないよ』
「なにも見えないぞ……アイツの結界とかか……?」
『結界なんだとしたら、僕たちが中に居るのが分からないよね。どっちかって言うと、閉じ込められた、と表現するのが正しい気がするよ』
要塞国家・マルーダ。
そこでの戦いは新たなる展開を見せようとしていた。
悪神・サタンをその身に宿した、帝国ガリアの騎士アワリティア・ネッツ。彼が所有する怠惰のグリモワールは異界から魔獣を召喚し、それを自在に操る力を持っていた。その力で召喚したのがサタンである。
サタンと一体化することで、自らの身体すらも異形のものへと変化させ、圧倒的な力を持ってして航大と暴風の女神・カガリへと襲いかかる。
「閉じ込めるね……」
『この結界は僕たちの五感を奪うことが目的なのかもしれないね。魔力の探知も難しいし、空間の把握すらも出来ない……』
一切の光も差さない闇の空間。
ネッツによる攻撃を警戒していた二人は予想外の展開に戸惑いを隠せないでいた。強大な攻撃か来ると身構えては居たものの、結果は予想外なものだった。
「どうする、カガリ?」
『そうだねぇ……適当に攻撃しても意味はなさそうだし……出口がどこにあるのかも分からないし』
「八方塞がりじゃねぇか……あまり時間は掛けてられないんだ。今はとにかく行動するしかない」
『あっ、航大くんッ! 適当に動くのは危険だって――』
「あれ?」
このまま突っ立っていてもしょうがない。
航大が右足を一步を踏み出した瞬間だった、そこにあると思い込んでいた地面が存在せず、右足は地面を踏みしめることなく虚空へと落下を始めようとする。階段を踏み外した時のように、思いもよらない自体に体勢はあっという間に崩れ右に傾いていく。
「やっべッ……」
『航大くんッ!?』
やばいと脳が認識した時には全てが遅く、航大の身体は重力に従って落下を始め、先の見えない深淵へと沈んでいく。
「くそッ、カガリッ……魔法で浮上するぞッ!」
航大は今、暴風の女神・カガリの力をその身に纏っている。風の魔力があれば、落下したとしても浮上することは容易である。暗闇へと落下していく中で、航大は魔力をその身に溜めようとするのだが、いつも魔法を使う感覚が訪れることはない。
『まずいよ、航大くんッ……ここは魔力が安定してないみたい』
悪神が生み出した闇の結界。
そこでは女神が全世界に供給している魔力が極端に希薄となっており、咄嗟に大きな魔力を創出することが出来ない。全身が浮遊感に包まれ、一切の先が見えない闇へと落ちていく感覚は人間の恐怖を何よりも煽っていく。
「やばいやばいッ!」
『ちょっと、落ち着いてッ!』
「うわああああぁぁぁーーーーッ!」
脳内にカガリの声音が響く。
しかし、航大は予想外の自体に戸惑いの声を上げ続け冷静さを欠いていく。パニック状態の中で航大の身体は終わりの見えない深淵へと落ち続けていくのであった。
◆◆◆◆◆
「んっ……あれ、ここは……?」
『あ、起きたかい?』
「カガリ……俺は生きてるのか?」
『まぁね。結構深くまで落ちたみたいだけど、身体には異常はないみたいだね』
「あ、あぁ……どこも怪我はないみたいだ」
『良かった。航大くんがあんなに取り乱すなんて、初めて見たよ』
「すまん……咄嗟のことに驚きすぎた……」
『いや、それも狙いなのかもしれないね。完全なる闇。右も左も一寸先のことすらも分からない。人間の五感を喪失させることが目的なのかもしれないね』
「そ、そうだな……とにかく、俺たちはどこかに落ちた訳だけど、どうする?」
『そこなんだよね……どうしようか……』
深淵へと落下した航大は一時的に気を失っていた。目を閉じても、目を開いても見える光景に一切の変化はない。自分が起きているのか、寝ているのか、これが現実なのか、夢なのか、それすらも判別ができない状況において、航大とカガリの二人は途方に暮れてしまう。
「……大丈夫、航大?」
「――――」
光も音もない常闇の空間。
そこに響く声音が航大の鼓膜を震わせる。酷く懐かしい声であり、今の航大が心から会いたいと願う人物でもあった。咄嗟の反応を返すように声がした方を振り返れば、そこには深淵の中に咲く一輪の花のように一人の少女が立っているのであった。
「……ユイ?」
暗闇の中でもその少女は一際目立っていた。
彼女が持つ白銀の髪は深遠に抗うように存在感を放っており、小さな声音を漏らした少女は無表情ながらもじっと航大を見つめ続けている。彼女とはあまりにも長い時を共に過ごしてきた。それは航大にとって到底無視できるものではない。
「…………」
「…………」
互いに見つめ合う時が流れる。
航大の脳裏には様々な光景がフラッシュバックして、つい先日までは共に行動していたというのに、もう何年も会っていないような懐かしさに涙が溢れ出しそうになる。
「どうしてお前がここに……?」
最後、ユイは航大に『自分は敵である』と告げて姿を消した。その際に異能を有するグリモワールも奪っていった。彼女から受けた傷は消えることはない。今も胸に手を当てればあの時の傷が疼く。
「……航大を助けに来たの」
「俺を助けに?」
「……そう。貴方が苦しんでいるのなら、私はそれを助けてあげたいから」
「…………」
鼓膜を震わせる声音は間違いなくユイのものである。
航大の記憶にある彼女がそこにいる。
「…………」
心が揺らぎそうになる。酷い別れ方をした彼女との関係を修復することが出来るのならば、甘い考えであると分かっていながらも、航大はそう考えずにはいられなかった。
「……さぁ、航大。私と一緒に行こう?」
「…………」
「……もう戦わなくていいの。貴方は私が守ってあげるから」
深淵の中に立つユイが手を差し伸べてくる。
その手を握ることが出来るのならば、航大はあらゆるしがらみから解放されるのかもしれない。
自分が求める理想の生活が手に入るのかもしれない。
しかしそれは、眼前に存在する問題からの逃避にしか過ぎない。
「…………」
今、自分が見ている光景が、彼女の姿が、夢なのか現なのかは分からない。
だけどその手を取ってしまえば、それはただの甘えである。
だからこそ――
「ダメだ。俺は今、お前の手を取る訳にはいかない」
「……どうして?」
「今ここでユイの手を取れば、俺は自分が求めた時間が帰ってくるのかもしれない。だけどな、俺はこの世界が好きなんだ。それを脅かす存在があるのならば、戦わなくちゃいけない」
「……それが私だとしても?」
「――――」
不意に返ってきた答えに言葉を失う。
無表情で無感情。
目の前に立つ存在がユイの『偽物』であること、それは航大にだってすぐに理解することが出来た。しかし、そんな彼女から不意に掛けられた問いかけへ咄嗟に反応を返すことが出来なかったのだ。
「……私が敵だったとしても、貴方は戦うことが出来る?」
「…………」
「仮に世界を壊そうとしているのなら、貴方は私を止めることが出来る?」
「…………」
「……私を殺してでも、貴方は戦える?」
様々な問いかけは航大へ覚悟を問うものであった。
ユイを助け、世界も救う。
そんな覚悟を持ってマルーダへと乗り込んだはずなのに、どうして彼女からの問いかけに自信を持って返すことが出来ないのか。航大は自分が内に抱える覚悟が脆いものであることを自覚させられる。
偽物である彼女の言葉に返すことが出来ないのならば、本当にいつの日か『彼女』と対峙した時に戦うことなど到底出来るはずがない。
『……航大くん。これ以上、あの子の言葉を聞くのは危険だよ』
心が揺れる。
動揺を隠すことが出来なかった航大へ声を掛けるのは、世界の均衡を保ち世界を守護する女神の一人であるカガリだった。航大の様子を観察していた彼女は、揺れ動く航大に救いの言葉を投げかけようとしていた。
『ここは敵が作った空間の中だ。あれもユイちゃんじゃない。君を動揺させようとしているんだよ』
「あぁ……」
『僕たちには時間がないはずだ。早くここから脱出しよう』
「…………」
カガリの言葉で我を取り戻す航大。
そう。
今、自分は世界を守るために、敵となった彼女を救うために戦っている。
全てが手遅れになる前に、航大は行動しなくてはならない。
「すまないな、ユイ。お前の問いかけに、今の俺は明確な言葉を返すことが出来ない。だけど、止まる訳にはいかないんだ」
一度、深呼吸をして心を落ち着かせる。
そして航大は眼前に立つ少女へとしっかりと伝える。
「……そうか。それなら、しょうがないよね」
「…………」
「どっちかが死ぬまで、存分に戦おうじゃねぇか」
ユイの身体が目の前で瓦解する。
全身の皮膚に切れ目が走り、パズルが崩壊するかのように、ユイを構成する全てが壊れると、その後に存在するのは金色の髪と紅蓮の瞳を携えた悪魔であった。
「ちっ、つまんねぇ奴だな。あそこで手を取っておけば、すぐ楽になれたのによ」
「……ユイをこんなことに使いやがって、お前は絶対に許せねぇ」
「そうだ。怒れ、憤れ。ここからは本気でてめぇを殺す」
紅蓮の瞳が瞬き、帝国ガリアの騎士であるアワリティア・ネッツとの戦いが再び幕を開けようとしていた。
桜葉です。
次回もよろしくお願いします。




