第六章51 業炎に包む氷山を照らす光
業炎が包むアルジェンテ氷山を一人歩く存在があった。
全身をローブマントで覆った小柄な体躯をした少女であり、彼女は悲劇の都市であるミノルアで出会った老人との約束を果たすためにこの世の生き地獄と化した氷山を登っているのだ。
かつてこの氷山では魔竜が降臨し、女神たちと戦った。
その後、帝国騎士たちによる襲撃を受けたことで、氷山は消えぬ業炎に包まれることとなったのだった。業炎は今も消えることなく存在し続け、ゆっくりとした動きで勢力を拡大している。
このままではいずれ麓にあるミノルアも飲み込まれるのは時間の問題である。
業炎が完全に消失しない限り、ミノルアへ人が戻ってくることはなく、このままではバルベット大陸の北方地域は後退の一途を辿るだけになってしまう。
「…………」
ハイラント王国を目指した少女は極度の方向音痴である。
しっかりと地図を持って海を渡ってきたはずの彼女だったのだが、どこで道を間違えたのか、そもそも海に目印がないことが悪かったのか、彼女は大きく道を外してしまい、結果的に北方の大地へと降り立つことになった。
全く土地勘のない場所で迷子になる悲劇に見舞われ、彼女はミノルアで出会った老人の願いを叶えることで、ハイラント王国への道程を切り開こうとしていたのだ。
「…………」
彼女が出会った老人の願い、それは氷山を襲う業炎が消え去ることであった。
あの炎がある限り街の復興は有り得なく、そして人が戻ってくることもない。
老人はミノルアという街を誰よりも愛していた。だからこそ、街の復興を誰よりも願っているのだ。
少女はそんな老人の願いを叶えてあげたかった。
だからこそ、こうして単身で氷山へと足を踏み入れ、そして今も先を目指して歩みを進めているのだ。
「……この炎、全部消すのは大変かも」
狼によく似た魔獣を全て皆殺しにした少女は歩みを進め、そしてついに業炎の炎が広がる世界へと到達した。
そこは異様な空間だった。
後ろを振り返れば雪が舞う氷山がどこまでも広がっている。
しかし、視線を前に戻すと、どこまでも燃え盛る業炎が存在しているのだ。
アルジェンテ氷山の中腹から頂上にかけて既に業炎が支配しており、その先には誰も進むことが出来ない。更に炎はゆっくりとした動きで勢力を広げており、少女が立っている場所もいずれは炎に飲まれる。
「……不思議な力を感じる」
視界を埋め尽くす業炎を見つめて立ち尽くしていた少女は、炎の中から感じた違和感に言葉を漏らす。炎は禍々しい魔力で作られており、その魔力を持つものを少女はよく知っていた。
そんな魔力に紛れて、どこか懐かしい魔力が混じっているのに気付く。
「…………」
少女は手を伸ばす。
すると、燃え盛る業炎に変化が現れた。
「……自分が進む道くらいは作れそう」
彼女はただ手を伸ばしているだけである。
それにも関わらず、少女が伸ばした手に業炎が飲み込まれていく。
「……全部は無理だけど、これくらいならなんとかなりそう」
体内に業炎が吸収されることで、人間が一人通ることが出来そうな道が生まれる。
道が出来たとはいえ、すぐそこにはまだ業炎が激しさを増して存在し続けているので、普通の人間が歩けば即火傷することは間違いないのだが、少女はその身体に防護魔法を展開することで業炎による影響を完全に封殺して歩き出す。
「……こっち」
禍々しい魔力の中で微弱に感じる違和感を辿って少女は歩き続ける。
その果てになにが待つのか、それは誰にも分からない。
しかし、少女は進む足を止めることはない。注意していなければ見失ってしまいそうな魔力を辿って、右に左と方向を変えて歩き続けるのであった。
◆◆◆◆◆
「……ここは特に炎が強い」
どれくらい歩いただろうか。
炎の中に生まれた小さな道を歩き続けた少女は、さっきまで微弱に感じていた魔力がより強くなったポイントへと到達した。今、自分がどこにいるのかは把握することは出来ない。
氷山の中にいるにも関わらず、雪や氷の姿は一切見えない。
この炎は燃え移れば消えることのないものであり、少女も防護魔法がなければ全身を燃やし尽くされて既に死んでいるだろう。そんな地獄の中で息づくものがあった。
「……貴方は誰?」
微弱に感じた正体不明の魔力。
その果てに存在していたのは、業炎の中で静かに眠る少女の姿であった。
「……氷に包まれてる、寝てるのかな?」
まさか、この炎の中に人間の姿があるとは思っておらず、ローブマントを被った少女は驚きの言葉を禁じ得なかった。炎の中に現れたそれは美しいクリスタルのような氷に全身を包まれ、こんな状況の中でも安らかに眠っている少女だった。
瑠璃色の髪を腰まで伸ばし、華奢で白い肌が印象的な小柄な身体をしている。
どうして炎の中でも氷が維持されているのか。
そもそも誰なのか。
分からないことだらけではあるのだが、ローブマントの少女は眼前で眠る少女に心を奪われていた。
「……貴方は、誰?」
再びの問いかけ。
しかし、結晶の中で眠る少女はそれに答えることはない。
「――――」
手を伸ばして結晶に触れる。
業炎が支配する世界において、その結晶はひんやりとしていて炎による影響を全く受けていないことが分かった。そして、炎の中に感じていた微弱な魔力の源がこの結晶であることも少女は理解した。
禍々しい魔力に負けず輝きを放ち続けた。その結果、少女はこの場所にまで導かれ、業炎が支配する世界に変革を与えようとしているのだ。
「……すごい力。今までに感じたことのない、清らかで、美しい力」
結晶に触れて、手を伝って感じる魔力の根源。
業炎に飲まれて微弱にしか感じなかったが、結晶の中に眠る少女は想像を絶する力を持っていた。その力の正体は氷の魔力であり、圧倒的で高濃度の魔力に触れることで、ローブマントの少女はこの地獄を脱するための道標を見つける。
「……お願い、貴方の力を私に貸して」
結晶の中で眠る少女に声を掛ける。
この魔力があれば消えぬ業炎をなんとか出来るかもしれない。
「…………」
結晶に手を触れ、少女は祈るように目を閉じる。
視界が闇に染まり、その果てに一筋の光が見える。
『初めまして、異国の騎士さん』
「……貴方は、さっきの?」
『そう。ずっと力を出し続けて良かった。こうして、きっといつか誰かが来てくれるって信じてたから』
「……貴方は、誰?」
『今の私はこの世界の均衡を保つために存在しているに過ぎない。人間としての名前なんて持つ意味はないのだけど、かつて生きていた時の名前は『シュナ』だったかな』
「……シュナ」
『私は女神と呼ばれる存在であり、今はもう人間ではない』
「貴方はここで眠り続けていたの?」
『そういうこと。本当は可愛い妹が守ってくれてたんだけど……どうやら状況は変わったみたい』
「…………」
『今の私も残留思念的なものだから……本体の私がここに居ないということは、きっと世界を守るために戦っているんだと思う』
「……貴方はここにいる。貴方の身体だってここにある。それなのに、本体は居ない?」
『私の本体……魂は今、別の場所にある。ここにあるのは魂が抜けた傀儡のような身体だけ』
「…………」
『それでも、私の本体が力を残していった。きっと、この状況を変えることが出来る存在が現れた時、適切に導いてあげられるように』
「……そんなことが可能なんだ」
『そうみたいね。それで、貴方はどうしてここに?』
「……私は約束を果たすために来た」
『約束?』
「この炎を消し去りたい。ミノルアっていう街を愛している人からのお願い」
『そう。それならば、私が貴方と繋がりを持ったのは間違っては居なかった』
「……助けてくれる?」
『えぇ。貴方がどんな人間なのか、それは今の私には関係ない』
「…………」
『傀儡となった私に課せられた使命は、この業炎に立ち向かう者が現れた時、その力を貸してあげること。だから私は貴方に力を貸しましょう』
「……ありがとう」
『さぁ、手を貸して』
「…………」
瑠璃色の髪を揺らす少女は常に笑っていた。
ローブマントに身を包んだ少女がどんな人間であるのか、果たさなくてはならない目的がどんなものであるのか、それを全て知っていたとしても瑠璃色の髪を持つ少女であり女神である『シュナ』の残留思念である彼女は、自らに課された使命を果たすことだけを目的としている。
「…………」
目を開く。
すると、そこには先ほどまでと同じ業炎に支配された世界が広がっていた。
目を閉じている間だけ、少女は別の世界に転移しており、そこで瑠璃色の髪を持った少女と触れ合ったのだ。
「――英霊憑依・氷神」
つい口を出て漏らした言葉。
それは完全に無意識によるものだった。
言葉は力に変わり、そして少女の身体を包み込む。
「……これが女神の力」
気付けば自分の外見が大きく変化していることに気付いた。
身に纏っていたボロボロのローブマントは瑠璃色に輝く魔法のローブへと姿を変え、その手には氷の結晶が瞬く魔法の杖が握られていた。
氷獄の女神・シュナ。
彼女の力を一時的に体内へ取り込んだ少女は、女神と同等の力を得ることが出来た。
「……この力があれば、きっと」
体内から溢れんばかりの力を感じる。
それは今までに感じたことのないものであった。
この力を使えばきっと、氷山を飲み込もうとする炎を消し去ることが出来るだろう。
「――――」
杖を掲げる。
ありったけの魔力を杖に注ぐ。
すると、杖の先端に付けられた氷の結晶が眩い光を放ち、業炎の世界を包み込んでいく。
「…………」
優しい光は少女の身体を包み、氷山も包んでいく。
闇夜に灯った光は氷山の麓に存在するミノルアの街を照らした。
どれほどの時間が経過しただろうか。
次に少女が目を覚ました時、そこには炎が一切消えた美しい氷の世界が広がっているのであった。
桜葉です。
次回もよろしくお願いします。




