第六章50 木霊する断末魔
消えることのない氷と雪に支配されし北方の大地。
バルベット大陸の北方には、かつて帝国騎士たちと激闘を繰り広げた都市があった。
――氷都市・ミノルア。
北方地域の要所として中規模の街へと成長したミノルアは、巨大な氷山・アルジェンテと共に平和な時間を過ごしていたはずだった。しかし、そんな平和な時間は世界に厄災をもたらす存在が現れたことによって崩壊した。
帝国ガリアが誇る最上の騎士たちによる襲撃。
人智を超えた異能をもたらす大罪のグリモワールを持った騎士たちが繰り出す、一方的な殺戮の牙を前にミノルアで暮らす数多の人間が命を落としていった。
帝国騎士たちの狙いは北方の地に眠るとされる『女神』の抹殺であった。
事実、氷都市・ミノルアと隣り合う形で存在しているアルジェンテ氷山、そこにはかつて魔竜から世界を救った女神・シュナが眠っていたのだ。
帝国騎士たちは己が持つ異能を使うことで、女神が眠る氷山に消えぬ炎を灯し、そして姿を消した。
「…………」
全てが終わった痕に残されたのは、言葉に表すことのできない壮絶なる地獄だった。
形あるもの全てが破壊され、命が宿る人間が壊れたおもちゃのように周囲へ散らばる。思わず顔を顰めてしまうような異臭が漂い、雪と氷が覆う道には赤黒い液体がいくつも点在する。
北方地域の要所である氷都市・ミノルア。
この街は死んだのだ。
人を失い、物を失い、全てを失った悲劇の都市。
見上げるほどの標高を持つアルジェンテ氷山を消えぬ炎が包み、その炎はやがてミノルアへと牙を向けるだろう。
約束された最期が待つミノルアの復興は難航を極めた。
大陸を統治するハイラント王国から多くの騎士たちがやってきてミノルアの復興に尽力した。そのおかげもあってか、ミノルアは一部を残して以前と同じような姿を取り戻そうとしていた。
しかし、悲劇の舞台となったミノルアへと人が戻ることはなく、中規模な都市であるのに人口はとても少ない。徐々に近づいてくる業炎が人々の帰還を拒んでいるのである。
「……寒い」
悲劇の歴史を繰り返すミノルア。
遥か昔には魔竜襲来による被害も受けている。
その時は女神たちの降臨によって事なきことを得たミノルアであったが、被害状況だけを見れば帝国騎士たちの襲撃によるダメージの方が遥かに高い。
「……寒いのは、嫌い」
幾度となく悲劇を襲った街を救うために立ち上がる存在があった。
全身をローブマントで覆った少女はハイラント王国を目指してバルベット大陸へと降り立ったが、極度の方向音痴である彼女は目的地から遠く離れたミノルアへと辿り着いてしまった。
途方に暮れる少女はミノルアで暮らす老人と出会い、そこで街を襲う悲劇から救うと約束した。そんな少女が向かうのは、業炎が支配するアルジェンテ氷山だった。
「……ここは嫌な魔力が多い」
日が沈んだ後でも空を明るく照らす氷山の麓に到着した少女は、自らが目指す氷山の先を見つめてぼそりと声を漏らした。全身を包む禍々しい魔力に顔を顰め、それでも彼女は約束を果たすために氷山へと足を踏み入れていく。
「……貴方たちは、この魔力に吸い寄せられたの?」
「――――」
「やっぱり魔獣を相手に会話をするのは難しいみたい」
「――――ッ!」
ゆっくりと業炎が迫る氷山で少女が出会ったのは、狼のような姿をした無数の魔獣たちであった。紅蓮の瞳を光らせ、氷山へと立ち入った少女の様子をじっくりと観察している。
「……この場所は貴方たちの縄張りってこと」
人が立ち入らなくなった氷山は、山全体を包む禍々しい魔力の影響からか魔獣たちの巣窟となっていた。魔獣たちは警戒心が強く、縄張りへと足を踏み入れる少女に対して最大限に警戒をしている。
牙を向き、明確な敵意を見せながら少女の動向を観察する魔獣。
全面に押し出される敵意を前にしても少女の様子が変わることはない。
「……私は貴方たちと戦うつもりはないんだけど」
対するローブマントを覆った少女は一切の敵意を見せることはない。
出来ることならば戦いたくはない。少女はそんな様子を見せてはいるのだが、魔獣たちも少女がこの場所から立ち去らない限り、敵意を隠すこともない。両者の意向は真っ向からぶつかる形となってしまい、このままでは戦いを避けることは出来ない。
「……うーん、どうしよう」
「――――ッ!」
なんとか穏便に先へと進むことが出来ないか。そんなことを考えていると、先に魔獣たちが動き出した。少女が引くことはないと判断した魔獣たちは、自らの縄張りを守るために飛びかかっていく。
「…………」
魔獣の数は一匹や二匹といった数ではない。
気付けば少女を取り囲むようにして無数に存在を現しており、暗闇の中で光る紅蓮の瞳は数えることすら億劫になるほどである。
「――――ッ!」
一切の予備動作もなく大きな一步を踏み出す魔獣は、瞬きの瞬間に距離を詰めると、鋭利な牙で少女へと噛み付いていく。
「…………」
一匹、二匹、三匹……と、次々に少女の小柄な身体を襲う魔獣の牙。
次々に噛み付く魔獣たちを前にしても、ローブマントに身を包んだ少女は身動きを取ることはなく、自らの身体に迫る危機をただ無言で受け入れようとしていた。
「――――ッ!」
「……弱い者を虐めるのは好きじゃない。だけど、これも仕方のないこと」
「――――ッ!?」
幾重にも連なる魔獣たちの連続攻撃。
噛みつき、爪で切り裂き、普通の人間ならば原型すら留めることが出来ない猛烈な攻撃を受けることで、少女の身体から鮮血が零れる。しかし、それでも尚、少女は雨のように襲いかかる魔獣の攻撃から逃れようとはしなかった。
永遠に続く魔獣たちの攻撃。
時間が経過する度に、魔獣たちは違和感を覚えるようになっていた。
どうして、自分たちの攻撃を受けても少女は立っていられるのか?
それは当然の疑問であり、どれだけ攻撃を仕掛けようとも少女は倒れることすらない。
「……それじゃ、そろそろおしまい」
少女がおもむろに放った一言。
それが引き金となったのか、次の瞬間、少女へと飛びかかっていた魔獣の身体が突如として両断される。
「――――」
周囲で攻撃の体勢を整えていた魔獣たちには、今の瞬間に何が起きたのか理解が出来なかった。どうして仲間の身体は突如として切り裂かれたのか、その瞳は少女を捉えており、彼女が何かをした様子はない。
だとしたら、仲間は誰かの手によって命を落とすこととなったのか。
「……次は誰?」
「――――」
少女の瞳は魔獣たちと同じ紅蓮に光っている。
一変した少女の様子に警戒しながら、再び魔獣が飛びつく。
「――――ッ!」
牙が少女に到達しようとした瞬間、再び魔獣の身体が突如として真っ二つに切断された。
声を発することも出来ず、突如として散る命。
「……もう来ないの?」
「…………」
「……そっちが来ないなら、私から行くよ?」
「――――ッ!?」
紅蓮の瞳で魔獣たちを見ると、少女は四つん這いになる。
小柄な身体で四つん這いになった少女は、まるで自らを取り囲む魔獣たちを真似ているようでもあった。
そして一瞬の静寂が周囲を支配した後、少女の身体が動く。
雪を蹴り、小さな身体が跳躍する。
愚直なまでに直線的な動きではあるのだが、魔獣たちの動きよりも遥かに速い。
「――――」
魔獣たちの攻撃に対して防戦一方だったはずの少女が見せる反撃。
一匹、また一匹と為す術もなく魔獣たちが少女の手によって命を落としていく、凄惨たる光景の連続。中には反撃をしようと牙を剥く魔獣も存在したが、暗闇の雪が舞う氷山の中で自在に動き回す少女の身体を捉えることは出来ない。
空を切る攻撃の後にやってくるのは、少女が一撃必殺の爪による切り裂き攻撃。華奢な身体から繰り出される攻撃とは思えない強烈な一撃は、魔獣の身体を容易く斬り裂いていく。
「……ふぅ、貴方で最後?」
「――――ッ!」
四つん這いの姿勢を維持したまま、少女は紅蓮の瞳で最後の一匹を見つめる。
気付けば月明かりだけが照らす幻想的な空間へと姿を変えていたアルジェンテ氷山。まだ入り口にほど近く、後ろを振り返れば小さなミノルアの街の灯火も見えてくる。
白く汚れのない雪が広がる場所だったはずが、少女の手によって僅かな時間の内に地獄へと姿を変えてしまった。ふさふさの毛が覆った手や足、そして狼の胴体や顔があちこちに点在している。
白い雪を真紅に染めて命が無残に食い散らかされた痕を作ったのが、全身をローブマントで覆った少女である。
彼女はどこまでも無感情に、作業的に魔獣たちを殺した。
その動きに一切の無駄は存在せず、圧倒的なまでの卓越した身のこなしから繰り出される攻撃によって、魔獣たちは為す術もなく命を落としていった。
無数に存在していた魔獣たちも気付けば残り一匹。
仲間たちが次々に命を落としていく中で生き残った最後の一匹は、本能的な生存欲求に従って逃げ出す。
「……逃がさない」
その声音は魔獣の耳元で囁かれた。
少なくとも接近はしていなかった。逃げるのに十分な距離があったはずであり、魔獣は逃げるのに苦労することは考えていなかった。しかし、獣ように四つん這いになった少女は背中を向けて走り出す魔獣に容易く追いつくと、その身体へと爪を立てていく。
「――――」
断末魔の叫びが氷山に木霊する。
それが魔獣の最後の咆哮であり、一方的な戦いの終幕を告げるものであった。
「……先に進まないと」
眼前で飛び散る魔獣の身体に一切の興味を示さず、少女はゆっくりと二本足で立つと歩き出す。
その先で待つのは氷山を飲み込もうとする業炎。
彼女が歩むべき道程はまだ、始まったばかりであった。
桜葉です。
次回もよろしくお願いします。




