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第六章49 少女と老人

「…………」


 その少女はバルベット大陸へと降り立った。


 漆黒の髪を揺らし、褐色の肌をローブマントで覆った少女は、人目を避けるように身体を縮こませている。今、彼女が存在しているのは、バルベット大陸の北方地域に存在する氷都市・ミノルアであり、年間を通して厳しい極寒の大地で一人呆然と立ち尽くしている。


「……寒い」


 少女の口から漏れる吐息は白く色付いて霧散する。


 何故、彼女が氷都市・ミノルアに居るのか。その答えは至ってシンプルで、ハイラント王国を目指してマガン大陸を出発したまでは良かったものの、褐色の少女は誰よりも方向音痴であった。


 なんら目印のない大海原を進む内に方向感覚を失い、右も左も分からない中でなんとかバルベット大陸へと辿り着くことができた。


 しかし、当初の予定からは大きく外れてしまう北方の大地へと辿り着いてしまった少女は、全身を襲う極寒に耐えながらこれからの行動について思考を巡らせているのだ。


「……これからどうしよう」


 彼女はハイラント王国へと向かわなくてはならない。


 だが、極度の方向音痴である彼女が見知らぬ土地で目的地に辿り着けるはずもなく、更に助けてくれる存在もない。ミノルアに降り立ったことも奇跡的な状況で、自分が目指すべきハイラント王国がどの方角にあるのか、どの程度の距離があるのか、それすらも知る由はないのである。


「…………」


 状況は絶望的である。

 最初から乗り気ではない今回の任務。


 少女の心には大きく深い闇が居座っており、避けられぬ戦いが訪れることがないように何度も祈った。しかし、運命の悪戯なのか少女は無事にバルベット大陸へと上陸を果たしてしまった。


「はぁ……」


 思わず漏れるため息。


 嫌なことを頭の片隅に追いやって、少女はこれからどのようにしてハイラント王国を目指すべきかを考える。氷に包まれた都市・ミノルアは極端に人間が少ない。


 よく見ればあちこちに瓦礫が散乱しており、およそ街としての機能を果たしているのかすら怪しい。


 かつてこの場所で大きな戦いがあった――。


 初めてこの街を訪れる人々の誰もが抱く当たり前の疑問。

 少女も街の中を散策する中で同じ疑問を持つことになった。


 バルベット大陸の北方地域でも最大の都市であるミノルア。戦禍の中心となったこの街は数多の命を犠牲にしてなんとか今の形を保っているのだ。多くの人間が命を落としたことによって街の復興は大部分が頓挫し、今ではかつてのような栄化を手にすることが難しい状況となっている。


 ハイラント王国からの派遣されてきた人間たちの手がなければ、ミノルアはいつまでも死の街として在り続けることを強制されていただろう。


「…………」


 どんよりとした空気が支配する街の果て、そこには巨大な氷山が存在していた。

 粉雪が舞う曇天を目指して聳え立つその氷山は、数多の人間の注意を惹き付ける存在であった。


「……燃えてる」


 氷都市・ミノルア。

 この街は雪と氷に支配された極寒の大地である。

 常に雪が舞い、大地は分厚い氷に包まれる。


 そんな大地の中で一際、強い存在感と共に在り続けるのがアルジェンテ氷山であった。

 ミノルアのすぐ近くに存在するその氷山は、薄暗い曇天の中でも眩い輝きを放っていた。

 雪と氷が支配するはずの氷山が眩い輝きを放つ原因となるもの、それが『消えぬ業炎』であった。


 かつてミノルアを襲った悲劇。


 その首謀者とも言える帝国ガリアの騎士が放った業炎は決して消えることなく、ゆっくりと、そして確実に氷山を飲み込もうとしていた。美しく燃えたぎる炎は時に人々の目を奪う美しさを持っているのだが、ミノルアに住まう人々からすればそれは負の感情を想起させるものであった。


「あれが気になるかい、お嬢さん?」


「……貴方は?」


「私は昔からこの街に住まうしがない老人ですよ」


「……そう」


 氷山を飲み込もうとする炎を見ていると、不意に誰かが話しかけてきた。


 声がした方を見れば、そこには腰を曲げ、白髪に皺が目立つ顔立ちをした老人が立っていた。小さく丸まった身体に杖がなければ歩くことすら困難といった様子の老人は、目を細めてアルジェンテ氷山へと視線を向けている。


「今から少し前、この街は酷い戦いに巻き込まれた」


「…………」


「あれはその時に刻まれた負の残滓じゃ。あの炎が存在する限り、儂たちは戦いがあったことを忘れることが出来ず、更に人も戻って来なければ、いずれ訪れる終焉を意味している」


「……いずれ訪れる終焉?」


「徐々に侵食しているのじゃよ。あの氷山を飲み込もうと炎はゆっくりとした動きで拡大を続けている。氷山を飲み込んだ後、消えぬ炎はこの街を飲み込むじゃろう。触れれば消えぬ死の炎、王国からやってきた魔道士たちでも、あの炎を消すことが出来なかった」


「……おじいさんは逃げないの?」


「生き残った人々の大部分は避難した。しかし、儂はこの街を捨てることが出来なかったんじゃよ」


「……それはどうして?」


「この街で生まれ、この街で育った。数十年という人間からすれば長く、世界の歴史から見れば短い時間の中で、数多の思い出が詰まっているんじゃ、このミノルアという街には」


「…………」


「どうしても捨てることが出来なかった。ただ、指を咥えて終焉を待つことが出来なかった。老人が最後に見せる抵抗……といったところじゃな」


「……おじいさんはハイラント王国への行き方って分かる?」


「ふむ、ハイラント王国とな? ここからは距離があるが、おおよその場所なら知ってるぞい」


「……それなら、私があの炎を消してあげたらハイラント王国への行き方、教えてくれる?」


「炎を消す? お嬢ちゃん、そんなことが……」


「……出来るかもしれない。私も、この街がこのまま死んじゃうのは……なんか、嫌」


「…………」


 氷山を包む炎を見つめたまま、少女はぼそりと呟いた。


「……約束」


「あ、あぁ……」


 最後に老人の方を振り返ると、少女はローブマントの奥から僅かに垣間見える無感情な瞳を向ける。自分が発した言葉に一切の疑問を持たない威風堂々とした瞳に老人も圧倒され言葉も出ない。


「……それじゃ、行ってくるね」


 少女は歩き出す。

 粉雪が舞い、さくさくとした雪をしっかりと踏みしめながら。


 向かうは消えぬ業炎が包む氷山。


 彼女には果たさなければならない使命があった。しかし、それよりも優先して果たしたい目的が生まれてしまったのだ。こんなことがバレてしまえば、後でどれだけ怒られるか想像はつかない。


 しかし、それでも少女は助けたいと願ったのだった。

 この死に濡れた衰退していく氷の街を――。

桜葉です。

次回もよろしくお願いします。

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