第六章44 心を殺す
「……本当にこれで良かったの?」
王城での一件があった後、ユイは深い眠りについていた。
上下左右の感覚がない心地いい浮遊感が包む中で、彼女は自らが犯した行動について考えを巡らせている。
彼を傷つけたのは二度目であり、更に今回はしっかりと自分の意思で行動した結果である。自分が本気であることを示すため、望む未来を手に入れるための行動であったのだが、それでも少年を傷つけた時の感触は、ユイの心に暗い影を落とし続けていた。
少女が自分に問いかけるのは、自らの行動が正したかったのか否か。
確実に終末へと突き進む世界において、少年を救うただ一つの道を選択できるように、そのためならば少女はどんな犠牲だって躊躇いはしない。少女が進む先、そこに自らの命が無いのだとしても……。
『貴方は彼を助けたい。そのために全てを捨てる覚悟が必要なの』
「…………」
自らの深層にある世界。
ユイの深層世界はいつも闇に支配されていた。
光も差さない闇の中で、いつもその存在はユイと共に在り続けた。
『覚悟はある? 決意はある? 貴方が進む道は茨の道。とても辛く、険しい道』
「…………」
自分の中に存在するもう一人の自分。
その存在は誰よりもユイのことをよく知っていた。
ユイの心が揺らぐ度に姿を現し、その覚悟と決意を再確認させる。
「……私は航大を助けたい。そのためなら、なんだってする」
『それならば、貴方は心を殺さなければならない』
「……心を殺す?」
『貴方は長い時間を彼と共に歩み過ぎてしまった。それは誰にも責められることではない。運命はそのように動くものだから。しかし、これからは違う。貴方は既に定められた必然を変えようとしている。それを果たすためには、人間が普遍的に持つ心が邪魔になる』
「…………」
『心があるから辛くなる。心があるから揺らぐ。それならば心を殺せばいい。そうすれば、自らが果たしたい未来はきっと近づく』
ユイが望むのは少年の安寧とした未来だけである。
そのためならば何が犠牲になっても構わない。
自分だけが生き残り、少年が命を落とす。その未来だけは必ず回避しなければならない。
「……心を殺せば、こんなに辛い気持ちも消えてくれるの?」
少女の手は強く握りしめていなければ震えてしまう。
自我を失っていた時に傷つけてしまった時とは全く違う。
今回は完全に自分の意思によって少年を傷つけた。
その事実が少女を苦しめ、傷つける。こんなにも辛いのは少女の中にまだ人としての心が存在しているからである。もう一人の自分はそれを『殺せ』と言う。しかしそれは簡単なことではない。
心を殺せば今感じているような苦しみから解放されるのだろう。
しかし、心を殺したら二度と少年の元へ帰ることは出来ないだろう。
「…………」
目を閉じればいつでも少年の顔を思い出すことが出来る。
心を澄ませば少年との日々を詳細に思い返すことが出来る。
少年を想えば想うほどに胸が暖かくなる。心が淡い熱を持つ。
『今、貴方が持っている心は邪魔になる。世界の敵となり、あの人の手で死することを望むのならば、その心は不要のもの』
「…………」
『全てを救う。それを果たすためならば、貴方はそう望んだ』
「…………」
『しかし、事はそう簡単には進んでくれない。貴方の前に立ち塞がる者、それは貴方が一番良く知る人物なのだから』
「……航大」
『そう。あの人は必ず貴方の目の前に立ち塞がる。その時、心が揺らいでしまってはいけない。揺らげば全てを失うことになる』
「…………」
『全てを救う。もしかしたらそれは実現出来るかもしれない。だけど、ユイ……これだけは覚えておいて』
「…………」
『――全てを救う。その中に貴方たち二人の姿はないの』
その言葉は半ば分かりきっていたことだった。
ここまで少女の言葉を聞いて、これまで繰り返してきた世界の断片を見た時からずっと頭の片隅で理解していたことだった。
『これは確かな事実。この必然だけはきっと崩すことができないもの』
「……そう、なんだ」
その言葉を吐き出すことが精一杯だった。
分かってはいても、それをハッキリと言葉で伝えられるのはとても辛いことだったから。
『貴方はそれでも前へ進む?』
「……うん。私は進むよ」
『あの人を助け、この世界も救う……だけど、救われた世界に貴方は居ない』
「……分かってる。それだけは変えられないことも。私は航大が大好き。でも、この世界には他にも大切な人がたくさんいるから」
この世界に触れて、この世界で長い時を過ごしてきたユイの脳裏に様々な人間の姿が思い浮かぶ。それはユイにとって大切な人たちである。
『覚悟は本物のようね。それならば、私が貴方の心を殺しましょう』
「…………」
もう一人の自分が一步を踏み出す。
気付けばその手には闇の中でも圧倒的な存在感を持つ両刃の剣が握られていた。
「――――」
もう一人の自分が突き出す剣がユイの胸を貫く。
ずぶりと体内に侵入してくる異物に表情が歪む。
剣で貫かれたとしても鮮血が溢れ出してくることはない。その代わり、ユイの胸には淡い光が灯っている。
『次に目を覚ました時、貴方は自らが果たすべき使命にだけ生きる存在となる。それを邪魔する者は全て敵であり、倒すべき存在』
「……うん」
その言葉を最後にユイの意識が薄れていく。
身体から大切な何かが零れ落ちていく感覚と共に、意識が現実へと回帰を果たそうとしているのだ。
『望む未来を手に入れるために……頑張ってね』
もう一人の自分が悲しげにユイを見つめる。
何故、そんなにも悲しそうなの?
それを問いかけようとするも、意識の混濁が著しい。
伸ばす手は何も触れることが出来ずに虚空を彷徨い、そしてユイの意識は完全に途切れてしまうのであった。
◆◆◆◆◆
「ふぅ……ちょっと前に来たはずなのに、何か懐かしいな……」
ハイラント王国へと帰還する途中である航大たち一行は、道の途中に存在する田舎街・レジーナで一夜を明かそうとしていた。
炎獄の女神・アスカが根城としていた王城は南方地域の最果てに存在しており、ハイラント王国からはかなりの距離があった。そのため、弾丸で帰還するには負担が大きく、ちょうど中間点に位置するレジーナの宿で休息を取ることにしたのだ。
行きの時と同じ宿で部屋を取った航大たちは、束の間の休息を取っている。
もうじきしたら夕食の時間となり、航大は嫌でもライガたちと顔を合わせなければならない。
「……ユイ」
夕食の時に航大は話さなければならない。
王城で起こった全てのことを。
ライガたちが一番知りたいのは、常に航大と共にあった少女のことだろう。
どうして少女の姿がないのか。
どうして航大は傷つき倒れ伏していたのか。
「…………」
事実を伝えた時、みんなはどんな顔をするだろうか?
全員がユイのことを非難するだろうか?
世界の敵になる。そう宣言した彼女を許すことが出来るだろうか?
様々な不安が航大の中で湧いてきて止まらない。
「……主様、お身体はどうじゃ?」
「…………リエル、か」
一人、静寂の中で頭を抱える航大の部屋にやってきたのは、瑠璃色の髪を揺らす少女・リエルだった。ゆっくりと扉を開けて顔を覗かせた彼女もまた、心配そうな顔で航大を見つめている。
「身体は大丈夫だよ。もう夕食か?」
「うむ。しかし、主様……調子が良くないなら無理をしなくてもいいんじゃぞ?」
「……いや、大丈夫。ちゃんと俺の口からみんなに伝えないとな」
「…………」
この時を覚悟していた。
全員に自分の考えを伝えなくてはならない。
ここから先に待ち受ける過酷な戦いは、航大だけの力で乗り切れるものではないのだから。
ライガ、シルヴィア、リエル。
三人の力が必要不可欠であり、協力してもらうのならば航大もまた全てを打ち明ける必要があるだろう。
「よし、行こうか」
「うむ」
「……リエル?」
「主様が辛そうじゃったから……」
食堂へ向かって歩き出す航大の手を、リエルの小さな手がしっかりと握ってくる。
リエルの手は思っていた以上に小さくて、そしてひんやりと冷たい。
「……ありがとうな」
「これくらいなんてことはない」
リエルに手を引かれる形で歩き出す。
不安な心はリエルによって緩和され、航大の足取りもまた軽くなっていたのだった。
桜葉です。
次回もよろしくお願いします。




