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夏のホラー2016
冒頭から改訂いたしましたm(__)m
窓辺で風鈴が、涼やかな音をたてた。
ついさっきまでの強い日差しは俄かに陰り、雨の気配を肌にまとわりつく湿り気で察した。
「一降りきそうだ」
光治は私の枕元の窓を閉めると、エアコンのスイッチを入れた。
「寝苦しくなかったかい? 真奈」
首を横に振って私は答えた。光治はタオルケットのうえから私のお腹にそっと手をあててほほ笑んだ。臨月の胎内で金魚鉢の中の魚のように動くものを感じる。
「もうすぐだね。早く会いたい」
部屋にはもうずっとまえから、ベビーベッドやぬいぐるみが用意されている。クローゼットには、小さな肌着やロンパースも。
「きっと可愛いにちがいないよ、ぼくらの子どもだもの」
私の額を汗が流れた。最初の雨粒が窓を叩いた。
◇
その少女を初めて見たのは、夏の終わりの雨の晩だった。
「うん、大丈夫。役場は近いし、駅からそんな離れてないから車がなくても本庁には行きやすいの。古くてこぢんまりしたアパートだけど、二ヶ月だけだし」
婚約者の光治は電話の向こうで、真奈に会えないのは淋しいなと言った。
「いい歳の大人がそんなこと言わないの」
部屋は二階、古びて錆の浮いた手すりにはふれないようにして階段をあがった。ヒールが金属の踏み板にあたり、硬質な音を立てる。それが軽やかなのは、一人の男を淋しがらせるほどの存在になった自分が誇らしいから。
「しばらくは会えないと思うけど、式場の見学会には行けるから」
そう話すだけで、衣装合わせで試着する華やかなドレスや打ち掛け、試食するお祝いのコース料理に胸がときめき自然に笑みがこぼれる。レースやフリルのドレスを選んだら、友人たちから年甲斐もなくって笑われるだろうか。でも、試着くらいしたい。ずっと憧れていたウエディングドレスだから。
階段をあがりきる前に、それじゃあ、と電話を切って視線をあげたとたんに、少女と目が合った。
薄暗く、寿命間近の蛍光灯がせわしなく瞬く二階通路の隅にその子はいた。
抱えた膝のあいだに、鞄をはさんでうずくまっている。
半袖のシャツに、チェックのベストにスカート。黒のハイソックスとローファー。
制服には見覚えがあった。近所にある私立高校のものだ。
階段をのぼってすぐの203号室、私の部屋のすぐ脇のわずかなスペースに女の子はいる。幽霊……という非現実的な考えは押し止め、息を整えると思い切って声をかけた。
「どうしたの」
上ずった声でそう聞いてみた。でもなんだか的外れだったような気がして言葉が途切れた。
女の子はゆっくりと顔を上げた。サイドにシャギーの入った胸までのセミロングの髪は真っ黒だった。長めの前髪の下の瞳は黒々と大きく見えたけれど、それはアイラインとつけまつげの効果だった。ピンクに近い赤い口紅を塗った唇は小さめだ。
マネキンみたい。
濃いメイクが逆に若々しさを打ち消して、美しいけれどどこか作りもののように見えたのだ。
「具合が悪いの? それとも誰かを待っているの」
左手首の白い包帯だけが夜目にも目立って怪我を庇っているように見えた。かがんで顔を近づけると、かすかにライムの香りがした。
けれど私の質問に答えず、少女は不意に立ち上がると、無言で階段を駆け下りた。そして、そのまま傘も差さずに雨降る闇のなかへと飛び出して行った。
「なんなの……」
じき闇にまぎれて少女の姿は見えなくなった。
誰かを待っていた? そんなはずない。先日挨拶に歩いたとき隣の部屋に人が住んでいる様子は無かった。反対の端、201号室に住むおばあさんは、隣は不在にしていることが多いと話していたし。まさか、引っ越してきたばかりの私に用があるわけもない。
「不審者……?」
生身のほうが幽霊より怖い。腕に浮いた鳥肌を何度も撫でた。ドアに鍵を差し込むまえに、思わずあたりを見渡した。
部屋に入ると鍵をかけてチェーンをはめた。屋根を叩く雨音と下の階からテレビの音と人の気配が壁越しに感じて肩から力が抜けた。仕事の都合で借りた二月だけの仮住まいはすっきりしたものだった。
入ってすぐのリビングダイニングには、ふたり掛けのテーブルと貰い物の小型冷蔵庫、食器棚代わりの二段のカラーボックス。ふすまの向こうは寝室に使っている。
仕事のファイルが何冊も入ったバッグを下して首をまわすと、バキバキと鳴った。
カップ一杯分の水をヤカンいれて火にかけて、お湯が沸くわずかの間に手早く部屋着に着替える。バレッタで留めた髪をほどくと、ようやくほっとした。
湧いたお湯でフィルター付きの一人分コーヒーのパックを切ってお湯を注ぐと殺風景な部屋にコーヒーの香りが流れた。
慎重にカップをのぞいていると、階段をあがってくる音がした。
女物の靴ではない。おそらくは男性。と、なるとお隣の202号室の住人だろうか。キッチンの前の摺りガラスを男性らしい影が横切り、じき鍵を開ける音がした。
やはり、隣の人らしい。引越しの挨拶をと思ったけれど、こんなに暗くなってから行くには抵抗を感じる。せめて夕方に居合わせたいいんだけど、そんなことを考えていると、ガラスにまた影が映り込んだ。
小柄な長めの髪のシルエット……さっき通路にいた少女だろうか。
影が行きすぎると、小さなノックが聞こえた。わずかに間をあけて、扉が静かに開け閉めされるきしむような振動が伝わってきた。
思わず腕時計を見ると、時刻はすでに九時近かった。
こんな時間に……。胸のあたりがざわめいた。
〆切に間に合うか……それがいちばんのホラー(作者的に)