Side:A Day2 -休日-
砂利を踏む足音。靴の向こうから伝わってくる不規則な反動が疲労を蓄積させる。
歩きなれたアスファルトとは違い、舗装されていない道たちはただ歩くだけでもそれなりの運動になる。
太陽が昇りきっていない朝方の空気は夜を経て静かに冷え、肌寒さすら感じられた。
ポケットに手を突っ込んだまま歩く道程。大きく息を吸い込み、霧がかった景色を見渡す。
行けども行けども景色は田畑と森ばかり。村の中央を大きく分断する水路を流れる水音だけが世界の全て。
小さな橋を渡ると水車小屋が見えた。今は流石に動いていない様子だったが、ずっと昔かある懐かしい景色の一部だ。
何かが変わるということがこの場所ではそう多くないのだろう。流れる景色はどれも見慣れたものが多い。
自動販売機すら一つとして存在しない田舎の道をただただ一人、歩いていく。
田舎の朝は早い。寝付くのが早いのだから当然なのかもしれないが。朝っぱらからカガリにたたき起こされた俺は朝食が出来るまでの時間を散歩に使う事にした。
この場所で何か変化がれば、それが兄貴のことに繋がるかもしれないと考えたのもある。
しかし実際にこの場所を歩けばよくわかる。異質なことなんて何一つ存在しない、あの頃のままの小瀬だ。
だからこそ余計にわからなくなる。一体何がどうなって兄貴は行方不明になったのか。
そもそもそれはこの場所に関係があるのだろうか?思えば馬鹿馬鹿しい推測であると言わざるを得ないだろう。
この場所に行くと告げられただけで、ここに確かに来たというだけで、ここで居なくなったとは限らないのだから。
それでもここからどこへ向かったのか、それくらいの手がかりはあるのではないかと淡い期待を抱いていたのだが、そんなものがあればカガリやホムラが俺に黙っているとは考えにくい。
「全くの無駄足、か・・・・」
歩いたせいか、少しだけ火照った体を冷ますためシャツのボタンを一つ開ける。
余計な事は考えず、今ここにある事を楽しむべきなのかもしれない。
そもそもあの兄貴が考えなしに居なくなったとは考えにくい。だとすれば戻るべき時がくれば戻ってくるのかもしれない。
矛盾、そして納得の行かない想いを抱えながらもそう考えることにした。
どちらにせよ、仕方のないことだ。
俺に出来ることなど、余りにも少ないのだから。
Side:A
Day 2 -休日-
「おにいちゃん、こっちこっち!」
ゆっくりと歩く俺の前方、カガリは大きく手を振りながら俺を急かしていた。
朝食を食べ終わり、特にする事もなくなった俺に声をかけてきたのはカガリだった。
昨日の約束通り、十二歳のエスコートとやらが始まったらしい。木製のバスケットに朝食と一緒に作ったらしい簡単なお弁当を詰め、遊びに出かける事になった。
とは言え、何をどうするのか俺はまださっぱり聞いていない。勿論進行方向からある程度の推測は出来るものの、それをわざわざ口にするのは彼女の得意げな笑顔を崩す事になりそうなので自重することにした。
荒川と小瀬には丁度真っ直ぐに流れる川がある。厳密には真っ直ぐではなく当然紆余曲折しているわけだが、何はともあれ小瀬を上流とするその川は荒川にも流れている。
しかし荒川に流れているそれと小瀬のそれとでは透明度が違いすぎる。汚す必要も汚すものも存在しない小瀬に流れる川は恐ろしく綺麗なのだ。
これにも当然名前があるのだろうが、俺はそこまで詳しくない。ただ、小瀬で川といえばこれを思い浮かべるのは当然の流れだった。
そしてこれもまた予想通り、少女が誘導した先に流れていたのはその川で、川原に転がった砂利たちを踏みしめながら俺は苦笑していた。
「今日はここで水遊びをしまーす」
「水遊びですか?でも残念ながら俺は着替えを持ってきていませんが」
「はーいそれは心配要りません!さっきカガリが持ってきておきましたー!」
抜け目のない十二歳である。
何はともあれバスケットを片手にどんどんカガリは上流へと向かっていく。
ただ遊ぶだけならばもっと下流でもいいと思ったが今日は彼女のエスコートに従うことにした。
やがて小瀬からも随分離れた上流・・・小さな滝を越えた場所で少女はバスケットを大きな岩に降ろした。
「ここなら大丈夫でーす」
何が大丈夫なのかさっぱりわからなかったが俺はとりあえず頷いておく。
ここまで平然とサンダルで上ってくるカガリの体力に驚いている俺にとって何が大丈夫なのかは激しい疑問だったが、そこは頷いておく。
「おいしょっ」
「ぶっ」
唐突に少女はワンピースを脱ぎ去った。
慌てて視線を逸らそうとしたところ、その下に紺色の水着が姿を現した。
下に着てきていたのだろう。恐らく学校で着ているらしいそれは胸元に大きく『八神』と縫い付けてあった。
色気も何もないが、十二歳にそんなことは期待しないのでとりあえず腕を組んで頷いておく。
「それで、俺はどうすればいい?」
「ん〜・・・入れば?」
いや・・・それは遠慮願いたいところだが・・・。
着衣泳というのは思いのほか疲れるものだ。ここまで歩いてきただけで疲れ気味な俺は出来れば座って本でも読みたい。
誤解がないように弁解しておくと俺は決して体力が無いわけではない。この山道が過酷すぎるだけだ。
「何か疲れない遊びはないかな?」
「お兄ちゃん相変わらずのめんどくさがりっぷりだね・・・せめてその石から立ち上がりなよー」
「わかった・・・で、何か疲れなくて俺もカガリも楽しい遊びはないか?」
「そんな都合のいいお遊びないよ・・・・じゃあ水鉄砲でも撃つ〜?カガリ逃げるから」
「名案だな。任せてくれ、射撃には自身がある」
水を満タンに汲んだ水鉄砲を両手に構え、川の浅瀬を走るカガリを狙って撃つ。
しかし、これはこれでなんだか危ない映像のような気がしてきたがそれは気にせず頷いておくことにした。
こちらとは打って変わってカガリのほうは一体何が楽しいのかわからないがきゃあきゃあ言いながら走り回っている。
そうなってくると俺もまじめにやらねば失礼なので本気で追いまわしながら水鉄砲を撃つ。
こうなってくると本当に危ない映像に他ならないが、客観的に想像しない限りはほほえましい映像のはずだ。
「ぷあっ!お兄ちゃん狙いが正確すぎてすんごい水飛んでくるよお!手加減してよ!大人気ないなあ!」
「すまない」
「も〜・・・・おにいちゃん何やるにもまじめすぎだよ」
「すまない」
「ま、そこがおにいちゃんらしいんだけどね〜」
何故十二歳に説教されてフォローされなければならないのか。
そうしてしばらく水遊びは続き、一息ついた頃カガリが川の中腹を泳ぎ始めた。
俺のイメージの中のカガリはどうにもあまり元気ではないような気がしていたのだが、それは思い過ごしだったのだろうか?
何はともあれ随分と泳ぐのが得意な少女を岩に座って眺め続ける。
「おにいちゃんも一緒に泳ごうよ〜?」
「それは遠慮しておく」
「なんでー・・・・ノリが悪いよ」
「自慢することではないが、俺は泳げないからな」
「・・・・・そんな真顔で言わなくてもいいのに・・・だったらカガリが泳ぎを教えてあげるよ」
「・・・・・若干不安があるからやはり遠慮しておく」
「だあっ!!!」
両手で大量の水を巻き上げたカガリの動きがスローモーションのように見える。
頭上から降り注いだ水が冷たく服に浸透し、前髪を顔にへばりつかせる。
一瞬何が起きたのか理解出来なかった俺はその後もしばらくそのままの姿勢で目をぱちくりさせていた。
「あははははっ!ほら、もう濡れちゃったから大して変わらないよ〜」
「・・・・・・・・・いいだろう、そこまで言うのならやってやる」
川の奥へ奥へと逃げていくカガリを追いかけて水に足を踏み入れた。
流石に水着で小柄なカガリと俺とでは随分と機動力が違うのか二人の距離はどんどん広まっていく。
その間にもカガリは水をばしゃばしゃと巻き上げては俺の顔面に向かってひっかけてくる。
そして実際に入ってみて判ったことだが、この川の水深はかなり深い。中央まで行くと俺でも足が着かないほどだ。
この一帯だけここまで深いのか、それともどこもこうなのかはわからなかったが何はともあれとんでもない深さ。平然とカガリが泳いでいたから心配していなかったというのに、これでは俺は溺れてしまうではないか。
「どしたのおにいちゃん・・・・もしかして本当に泳げないの・・・・?」
「生憎冗談は苦手でな。だがしかしカガリに出来て俺にできないはずが・・・うわあっ!?」
成せばなるという言葉を信じて挑戦してみたがあっさり失敗。死にそうなところをカガリに助けられるという何とも情けないお兄ちゃんっぷりを披露することになった。
川原まで戻ると笑いを堪えていたカガリが一気に吹き出し、しばらくその笑いは止まる事を知らなかった。
「ほんっと〜〜〜に泳げないんだね・・・・なんで?足とか速いよね?」
「地上に生きる生物なんだから当然だ」
「ふ〜ん・・・まーいっか、おべんとう食べよっ!」
比較的平べったい岩をベンチ代わりに腰掛けサンドウィッチやおにぎりを手に取る。
それがまた思いのほか良く出来ていてこれは将来が期待できるな、などと下らない事を考えていた。
指をぺろぺろ舐めているカガリの頭にタオルを乗せてわしわし拭いて行く。
「でもなんか本当に久しぶりだね。二年ってやっぱりすっごく長いよ」
小学生の時間感覚としては二年は『やっぱりすっごく長い』、らしい。
二年といえば彼女の人生の六分の一に匹敵するわけで、それは当然長いのだろう。
しかし俺としてはそんな二年という時間をそれほど長くは感じておらず、その感覚の差に思わず苦笑が零れた。
「俺はこの二年はあっという間だったよ。特に兄貴が居なくなってからは色々と大変だったからな」
「あ、そっか・・・・コウヤお兄ちゃんが居なくなって、大変だったんだよね」
途端に表情が曇ってしまう。この話題は地雷だったか、と後悔しつつも話を続ける。
「まあ一人暮らしというのも悪くない。何より気軽だし、文句を言うやつもいないからな」
「いいな〜・・・カガリも一人暮らししてみたいけど・・・・・」
「してみたいけど?」
「あ、ううん・・・・・お姉ちゃんとかぜーったい料理とかしないし・・・お父さんはほっといたら死んじゃいそうだし」
そんなうさぎみたいな扱いなのか叔父さん。まあ確かに変わった人ではあるがそこまでではないような。
しかし、見間違いだろうか?一瞬だけカガリの表情がなんというか・・・とても暗くなった気がしたのだが。
弁当を食べ終える頃、「ホムラは昼はどうしているのか?」と訊ねると、「カップラーメン置いてきたから大丈夫」と笑顔で答えてくれた。
家で寂しく一人カップラーメンをすすっているホムラの姿を想像し、静かに笑った。
何はともあれ川遊びを終えた俺たちは来た道を下り、川原を出て山道を歩き、ようやく小瀬に戻ってきた。
カガリは着替えを終えたものの、俺は全身ずぶぬれのままだ。何故かと言うとカガリが持ってきたという着替えは何故か俺の寝巻きだったからだ。そんな格好で出歩くわけにはいかないので結果こういう状況に陥ったのである。
申し訳なさそうに慌てふためくカガリの姿は可愛かったが、流石に水を吸って重い服を装備したままの道程は苦しいものがあった。
「おにいちゃん大丈夫・・・・?もうちょっとの我慢だからがんばって!」
「ああ、お兄ちゃん頑張るよ・・・・しかし遠いな屋敷が・・・・」
そうして肩を落としながら歩いていると、真正面の道をカガリと同年代くらいの少女が歩いてくる。
その姿を見つけるや否やカガリは元気よく手を振り、
「みっちゃーん!」
と、叫んだ。
みっちゃんは小走りで駆け寄ってくると長い黒髪を揺らしながら笑顔で停止した。
「こんにちは、りっちゃん。えーと、そっちの人は・・・・あっ、もしかして?」
「うん、マサキお兄ちゃんだよ。お兄ちゃん、この子はみっちゃんっていうの。カガリの大親友なんだよ」
カガリの親友のみっちゃんは歳に不相応な落ち着きを持っていた。丁寧にお辞儀をすると嫌味のない笑顔を浮かべる。
ちょっとしたお嬢様に見えないこともないが、服装がTシャツにジーンズと何とも男らしいことが残念ながらそのイメージを相殺していた。
まあこの山道を歩くのにはある意味正解と言える服装には違いないのだが。
「はじめましてマサキさん。私は九条レミと言います。マサキさんのことはりっちゃんに聞いてました」
「え?そうなのか、りっちゃん?」
「み、みっちゃん!それよりどうしたの?どっかいく途中?」
「どうしたの、っていうのはそっちのほうだよ・・・なんでマサキさんびっしょりなの?可愛そう」
「あああっ、これはいいの大丈夫、お兄ちゃんびっしょり好きなんだよねっ?」
びっしょり好きになった覚えはないんだけどなあお兄ちゃん。
慌てふためくカガリの様子を見ながら微笑んでいるみっちゃん。どうやらこれが二人の関係らしい。
「私は荒川の方に行くところ。昨日自転車が壊れちゃって、修理に出してるからそれを取りにね」
「わー・・・大変だね・・・・そうだ、今度はみっちゃんも一緒に遊ぼうよ。お兄ちゃんもいいよね?」
「ああ・・・みっちゃんがいいなら」
「わかりました。マサキさんには個人的に興味もあるのでいろいろと楽しみです・・・それじゃまたね、りっちゃん」
「ばいばいっ!」
すれ違った後もしばらく手を振り続けている二人を見ていると微笑ましい気分になってくる。
そういえばカガリの友達というのに初めて遭遇した気がする。十八年の人生で初、カガリの友達発見である。
みっちゃんを見送っているカガリの楽しそうな顔を見るだけで二人がとても仲良しである事が伺えた。
「いい子だな、みっちゃん」
「そりゃもうすっごいいい子だよお!みっちゃんとは多分これからずうっと友達だね!」
「そっか・・・お姉ちゃんとどっちがいい子だ?」
「お姉ちゃんは論外だよう」
論外だそうだ、ホムラ。
こうして川遊びが終わった午後、俺は一人客間で本を読んでいた。
畳の上に寝転がり、座布団を折りたたんで枕代わりにして本を読む。
午前中ははしゃぎすぎたせいで少し疲れた。そんな空気を読んでか、カガリは自室に引っ込んでしまった。
夏休みの宿題というやつがあるらしい。小学生も大変である。
窓から吹き込んでくる風を受けているとゆっくりと瞼が重くなっていく。
「ふう・・・・」
「おーっす、マサキいるかー?」
「・・・・・・・・・・・・・」
何故こう、静かな俺の一人の時間を狙い済ましたかのようにやってくるのか。
嫌々振り返ると予想通り、ホムラが襖を開いて立っていた。これ見よがしにため息をついたがそれも無視。
「どうした論外姉」
「・・・・・・・なんだかわからないけどすごく寂しい気分になっちゃったろ・・・責任とってくれよ」
その責任はむしろあんたが妹に対して取れ。
相変わらずのラフな格好で挑発的な笑顔を浮かべている。体を起こして首を鳴らし、首をかしげた。
「どうした?何か用か?」
「ひどい〜カガリに対する態度と私に対する態度が余りに違いすぎるう〜」
「いいから用件を言え用件を。あとくっついてくるな」
「別に用ってわけでもないんだけどさ。退屈してるんじゃないかな〜って、空気読んであげたわけよ」
「退屈どころかさっきまで平穏な時間を満喫していたところだよ・・・・」
「そんなジジくさいこと言ってないで何か遊ぼうよ?脱衣マージャンとかさ」
なんでオーソドックスな遊びの提案が脱衣マージャンなんだ。
と、ツッコミたかったがそうするとさらに付け上がりそうなのであえてスルーすることにした。
俺が持ってきたいくつかの小説を手に取り、ページを捲りながら口を開く。
「そういえば親父の予定だけど、明日あたり時間があるから顔出せってさ」
「そうなのか?だったら少し早く東京に戻れそうだな」
「ふう〜ん、そんなに早く戻りたいか・・・・カガリが泣いちゃうぞ〜」
「俺が居なくなってもカガリにはみっちゃんがいるから大丈夫だ」
「みっちゃん・・・・なんじゃそりゃ?」
まるで覚えのない言葉が出たかのように・・・・いや、実際その通りだったのだろう。『みっちゃん』を知らないらしいホムラは首をかしげ、目を丸くしていた。
そうなると俺もなんと言えばいいのかわからず、曖昧に言葉を濁して話を進めた。
「そういえばホムラは大学ちゃんと通ってるのか?」
「ちゃんと、っていうのが私の中に基準と合致するか怪しいけど、まあちゃんと行ってるよ」
苦笑しながら答えると思い出したように部屋を抜け出し、缶ビールを両手に戻ってきた。
「嫌な事思い出させないのもいい男の条件・・・そしてそれを忘れさせるのも、いい男の条件」
「だったら、酒に溺れないように見張ってるのもいい男の条件だな」
「あーもうはいはい、うだうだ言わない」
問答無用でブルタブを開く軽快な音が響いた。
むさぼるような勢いで一気にほぼ丸々一本ビールを飲み干し、何ともいえない幸福感あふれる表情でため息をついた。
「この瞬間のために生きてるわね〜・・・ってなんかのセリフであったよね」
「知らんよ・・・・」
しかしこれはチャンスかもしれない。カガリと行動していた間は忘れていた疑問を口にした。
「・・・・・ホムラ、どうして兄貴は居なくなったんだと思う?」
途端、ホムラの表情が変わる。余裕たっぷりの笑みはどこかえ消え去り、読めない平坦な表情を浮かべた。
「やっぱり気になるか・・・そりゃそうだ。納得行かなくて当然・・・・ってことだね」
ビールを口にしながらもどこか鋭くこちらの思考を見通すような目で俺を捉えている。
その姿は日常のだらけた彼女の態度からは連想しづらいもので、俺は思わず面食らってしまった。
それが彼女がどれだけこの件について真剣なのかを示していて、彼女もまた悩んでいることの証拠でもあった。
「私はここに来た直後、すぐにその話になるかと思ったけど・・・今まで我慢してたってことは、案外考えなしってわけでもないんだね」
まさかカガリにこんなことを聞くわけにはいかない。カガリもまたこの件について悩み苦しんだ人間であり、出来れば彼女に笑っていて欲しいという俺の我侭もある。
ともあれ、この話題を真剣に話せるのはホムラしか今のところいない。そして今まで彼女と二人きりになる時間がたまたまなかった・・・それだけのことだ。
座布団を敷きなおし、その上に座りテーブルを指先で叩く。
「どう考えても一年前、家を出て行く兄貴の様子はおかしかった。今になって思えばだが、それは間違いない。だからきっと俺はここに何かあるんだと思っていた・・・それは今に始まったことじゃない」
「でも一年、こうして機会があるのを待ってくれたのは私たちを信じてくれたからだよね」
その通りだ。
彼女たちは彼女たちなりに兄貴のことを探してくれたことだろう。だとすればそこにさらに兄貴はどうだのと割り込むのはあまり得策ではない。
俺にしかわからないこと、彼女たちにしかわからないことはあっただろう。ただそれでも俺はそこに介入することで話がこじれるのを恐れていた。
いや、元々俺はここまで兄貴が戻ってこないことになるとは思っていなかったのだ。失踪とは言えどうせすぐに戻ってくる・・・それくらいにしか考えていなかった。
しかし一年が経過しいよいよ何もしないわけにもいかなくなった、というのが本音なのかもしれない。
一年前の事を知る術としてカガリを使うのは出来れば避けたいと思っていた。子供が背負うには重い事実に違いなく、彼女もそれを乗り越え今を生きている以上、わざわざ古傷を抉るようなことはしたくないからだ。
そこを言えばホムラは大人であり、兄貴とも懇意にしていたことから頼れると判断出来た。それに彼女はどうも俺が思っていた以上に兄貴の事を既に割り切れているようだった。
「ま、いいよ・・・・ほとんどわかることは無いと思うけど、いい機会だからじゃんじゃん聞いてくれたまえ」
「では遠慮なく。兄貴が失踪した日、最後に兄貴を見たのは誰だ?」
「カガリだよ。カガリと一緒に遊びまわってたからね、丁度今日のマサキみたいに。でも途中で別れたんだ」
「別れた?」
「ああ。カガリを先に家に帰して、それっきり。みんなで探したけどまったく見当たらなかった」
それでカガリは気にしていたのだろう。となるとやはりカガリにこの話をしなかったのは正解。
しかしそうなると手がかりは全くないのか?カガリとその直前まで遊んでいたとしたら一体何があったのか?
「おかしな様子はなかったのか?」
「おかしいと言えば、マサキが来ないのがおかしいとは思ったけどね。でも特別なことなんてそれくらいであとは例年通りだったよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうか」
予想はしていたものの期待していたような返答が得られず、少し落胆する。
肩を落とした俺の様子を見てホムラは苦笑しながら缶ビールを揺らした。
「そんな落ち込むなよ。頼むからマサキまで居なくなったりしないでくれよ」
「不吉な事を言うな・・・・でも、そうか・・・・そうだよな・・・・悪い、変な事を聞いて」
「いや、いいさ・・・・なんなら明日親父にでも聞いてみればいい。あっちのほうが少しは詳しいだろ」
「そうだな・・・・そうするよ」
こうなるともう叔父さんに聞くしかないだろう。
ホムラと別れ一人で庭先屋敷を後にする。
兄貴が消えた理由。それさえ判れば行動のしようがまだある。
しかし何がどうなってそういうことになったのかがわからない以上手のうち用もない。
結局のところ俺一人に出来ることなど限りなく少ないという事実だけが重く圧し掛かってくる。
勿論最初からどうにかできるなんて思っていなかった。
けれど・・・・・どうしたって納得行かない事実に変わりはない。
頭の中を無限にループする思考を振り切るように軽く頭を振る。
「どうもこんにちは」
背後からの声に振り向くとすぐ目の前に誰かの顔があった。
思わず驚いて飛びのくと男は肩を竦めて苦笑した。
一体何がどうなったのかわからないまま男を眺める。それは見間違いでもなんでもなく、昨日俺の事を眺めていた黒い影に他ならなかった。
その存在が頭の中からすっかり消え去っていた事もあり、突然目の前に現れた事実に驚きを隠せない。
気を取り直し男を凝視する。サングラスを外して微笑むその顔は穏やかなものだが、引き攣るように頬をせりあげた笑顔が気味が悪い。
サングラスの下、左目に更に漆黒の眼帯を留めていた男は目をうっすらと細め、笑顔で口を開いた。
「そんなに驚かないでくださいよ、傷つきます」
「・・・・・・・・・・・・・なんだ、あんた・・・・・何か用か?」
「ん〜・・・警戒心丸出しですねぇ・・・まあ、そりゃあそうでしょうけど・・・うん、至極真っ当なリアクションだと言えるでしょう」
なにやら一人で楽しそうに笑いながらぶつぶつと呟き、ネクタイを締め直しながら首を僅かに傾ける。
「安心してください、遠山マサキ君。私は貴方の敵ではない・・・・むしろ味方と呼べる存在なのですから」
「味方・・・・・だと」
いや、それよりも何故俺の名前を知っているのか。
これで警戒しないやつがいたらそれは頭のネジがぶっ飛んでいるか狂気的なお人よしだろう。
すぐさま距離を取り、男をにらみつける。
「だから、そんなに警戒しないでくださいよ・・・・ふふっ、まあいいでしょう、最初はこんな事だろうと思っていましたし」
「これ以上頭のおかしい奴と口を利いている時間はない・・・さっさと消えてくれないか」
「想像以上に辛辣ですね・・・・しかし貴方は私を頼らざるを得なくなる。お兄さんの事を探すのならね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
無言、無表情のまま動揺を心の奥底に押し込めた。
一体何が起きている?兄貴を探す?こいつに頼る?俺が?
いや、何故それを知っている?そうだ、まさかこいつ、一年前の関係者なのか・・・?
だとしてもこんな胡散臭い奴を信用するには到底至らない。冷静に考えれば兄貴の事はこの村の人間なら知っていてもおかしくはないし、毎年ここにやってきている俺の事もそうだ。確かに突然で驚きはしたものの、それほど異常な状況というわけでもない。
落ち着きを取り戻すとこの男の信用性は更に消滅した。一刻も早く会話を切り上げて屋敷に戻りたくなる。
歩き始めた俺の背中、振り返りもせずに男は告げる。
「今日のところは早めにお休みになってくださいね」
「・・・・・・・・?」
「お疲れでしょう・・・・・・ねぇ、色々と?」
その言葉が何を意味するのか、俺は一瞬わからなかった。
ただ脳裏をよぎったその可能性の不気味さに背筋が寒くなり、思わず振り返る。
そんな俺をよそに男は既に歩き始め、砂利道を一人歩いていた。
思わず歯軋りする。砂利を蹴飛ばし、額を押さえた。
「くそったれ・・・・・」
なんなんだ、あいつ・・・・。
「つけてたのか・・・・俺の事を・・・・・」
一体何のために・・・・?
真夏の日差しのせいか、シャツはひどく汗ばんでいた。
その気持ち悪さと言葉に出来ない不快感が胸をドロドロと渦巻き、俺を苛立たせる。
先ほどまでのどかで美しかったはずの景色が突然邪悪に変わってしまったような錯覚すらある。
大きくため息をついて振り返ると屋敷からサンダルを履いたカガリが走ってくるところだった。
「おにーちゃん、夕飯は何がいい〜・・・・って、どうかしたの?」
「あ、ああ・・・・・・いや、何でもない」
頭を軽く振ってあの黒い影を振り払う。
脳裏にこびりつくようなあの笑顔がどうしても消し去れず、再びため息をついた。
それを勘違いしたのか、カガリは申し訳なさそうに俯きながら呟き始めた。
「やっぱり・・・・コウヤお兄ちゃんのこと、探してるの?」
図星であること、そしてカガリにそれがわかって当然である事を思い出し、思わず言葉を失くした。
嘘をつくわけにはいかない。いや、嘘をつくようなことでも、ない・・・・。
「ああ・・・・・・そうだ」
「そっか・・・そうだよね・・・当たり前だよね・・・・遊んでる場合なんかじゃ、なかったよね・・・・ごめんね」
胸の前で組んだ指をもじもじと絡めながらカガリは頭を下げた。
きっと彼女も彼女なりに俺に気を使っていてくれたのだろう。
それはそうだ・・・やっぱり忘れることなんか出来るはずがないんだ。俺も、カガリも、ホムラも。
「ねえ・・・・カガリも手伝うよ?一緒にさがそ?」
「でも・・・・・」
「カガリ子供じゃないよ!それに、あの時一番一緒にいたのはカガリだもん、何か約に立てると思うんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
勿論それはその通りだった。
ホムラでも俺でもなく、カガリがあの当時に一番近い人間。それを避けていてはいつまでたっても必要なピースが揃わない。しかしそれあえて避けていたのも事実だ。
俺は彼女を巻き込みたくなかった。出来れば子供は忘れたままで居られればいいと思っていた。しかしそれではどうしようもない。
それにここまで言われてしまった以上、やはり無理に押し返すことも無意味なのだろう。
「・・・・・・・わかった。でも、そんなに気負わなくていい。本当は俺も、納得したいだけなのかもしれない・・・」
理解したいのかもしれない。受け入れたいのかもしれない。
兄貴はもうどこにもいないと。兄貴はもう戻ってこないのだと。
そのためにはきっとこんな儀式が必要なんだろう。納得するために、どこかにいるんじゃないかと、そんな希望を消して、過去にしてしまうために。
そうだ、俺は兄貴のことを何らかの形で過去にしなければならない。見つけるにせよ、戻ってこないという事実を受け入れるにせよ。
どちらにせよ俺は、そうしなければいつまでたっても一年前のままなのだから。
「頼むカガリ。俺に協力してくれ」
「もちろんだよっ!そうと決まれば今日はおいしいもの食べて早く寝なきゃねっ!」
元気よく走っていくカガリの後姿に少しだけ安堵する。
もしかしたら一番ショックを受けているのは俺なのかもしれない。
だとすればなんとも女々しく・・・情けのないお兄ちゃんだ。
こうして本当の意味で俺の一週間が始まった。
そしてそれが、俺が選んでしまった最初の過ちだった。




