Side:A Day1 -再会-
夢を見ていた。
その夢の中で俺は、当たり前のようにマンションのコタツで小説を読んでいた。
その小説を貸してくれた張本人はエプロン姿で両手に皿を持って歩いてくる。
テーブルに並べられた料理たちはとても男が作ったとは思えない絶品ばかりだった。
勿論、男性が料理を作れないなんて偏見があるわけではない。ただ、彼には似合わないというだけで。
いや、似合うのかもしれない。エプロン姿の男はコタツに入るなり穏やかな笑顔を見せた。
「いつまでも本ばかり読んでいないで食ったらどうだ?マサキ」
「ああ・・・・・」
手を合わせいただきます。
食事に関して彼は非常にうるさい。いただきます、ごちそうさまでした。これは必須だった。
眼鏡の向こう、凛とした瞳が嬉しそうに自らの作った料理を見つめている。
そんな姿を眺めながらリモコンを手に取りTVの電源を入れる。
しかしろくな番組がやっていない。当たり前だ、今日は平日。しかも真昼なのだから。
昼ドラを見てもいいが、これといって面白くはない。それに彼はそういうのは好まない。
だから俺は大人しくニュースにチャンネルを合わせて箸を進める。
夏休み。高校生になり二度目の夏。いつまでもしまわないまま放置されたコタツがなんとも言えない部屋。
1LDKの部屋。とんでもなく広いわけではないけれど、二人暮しには十分な広さ。
尤も、俺も彼もここに居る時間はそれほど長いわけではない。高校生の俺は家でじっとしている世代ではないし、彼は勉強に終われ帰宅は遅く、帰ってきても本ばかり読んでいた。
彼・・・・実の兄である遠山コウヤは医大に通う有能な学生だ。勤勉でもあり、そのことばかり頭にあるらしい。
白いワイシャツと自分の家だというのにきっちり締められたネクタイがその性格を現しているようだった。
会話はあまりないが、決して仲が悪いわけではない。むしろ仲がいいと言えるだろう。なぜなら彼は俺の意思や行動を尊重し吟味してくれるし、俺は彼のことを尊敬しているからだ。
俺たちは二人ともそれほどおしゃべりではない。だから会話はないが、それは不愉快な沈黙ではない。
テレビから流れるニュースキャスターの声をBGMに兄貴は口を開いた。
「そうだマサキ・・・・今年の叔父さんの所だが」
「ああ、そんな季節か」
俺たちには叔父さんがいる。特に異常なことではなく、ごく普通だ。
両親の故郷でもある田舎町の屋敷に住んでいて結構な金持ちだということも、それほど珍しいことではない。
何しろ土地だけは有り余っている辺鄙な場所だし、特にこれといって実際は裕福なわけでもない。
医者の両親を持ったお陰か俺たちは何不自由なく暮らしてきた。ここの家賃も両親が払っている。
特に俺たちを制限するでもなく夢を応援してくれる理解力のある両親だ。ただ一つを除いては。
「今年も行かなきゃなんだよな」
それは、毎年田舎に住む叔父さんに健康診断をしてもらうことだった。
昔は家族みんなで盆休みに行ったものだが、最近は兄貴と二人で向かうことが多くなった。
健康診断といっても非常に簡単なもので、特にコレといって問題はないのだが・・・。
「クーラーもない田舎だからな・・・・電車乗り継ぐのも面倒で」
「だけど、あっちにはお前を待ってるお姫様がいるだろ?」
「よしてくれ・・・ありゃまだ子供だ」
叔父さんの娘・・・つまり従妹に位置する少女に妙に懐かれている。
毎年あっちへこっちへ連れまわされて居るうちにどうにも田舎に詳しくなってしまった。
しかし、知り合いの居ない町だ。一人でいるよりは随分とましなので助かっているが。
そう考えれば帰郷もそれほど悪くはない。ちょっとした都会を離れてのバカンスだと思えばいいのだ。
それに静かなあの町をそれほど嫌っているわけではなかった。趣味の読書が捗るから。
「それで、いつ行くんだ?」
具体的な質問をすると急に兄貴は歯切れ悪く視線を逸らした。
珍しい兄の態度に首をかしげていると、ゆっくりと彼は告げる。
「今年は俺一人で行く。だからマサキは留守番しててくれ」
「は?」
「だから、今年は俺一人でいくからお前は来るんじゃない」
しかし、それは親の言いつけを守らないことになる。
無論ただの健康診断・・・というよりは顔見せなので行かなくても全く問題はないのだが。
兄貴一人で行く、というのはどういう了見なのか。勿論疑問は多かった。
しかしそのときは特になんということもないのだろうと、あっさりと納得してしまったのだ。
それから数日後、兄貴は仕度を終えていつものネクタイを締めながら玄関に立っていた。
寝巻きのまま見送る俺を振り返りながら彼は言う。
「いいか、絶対に何があっても俺を追いかけてくるんじゃないぞ」
「・・・・・いかないよわざわざ・・・遠いからな」
「だったらいい。約束だぞ」
手を振り彼は笑った。
その笑顔を見送りながら、俺は寝ぼけた目を擦っていた。
それから数日後、兄貴は行方不明になった。
Noise
Side:A
Day 1 -再会-
心地よい電車の振動に揺られながらゆっくりと目を開いた。
何時間も眠っていた気もすればほんの僅かまどろんでいたような気もする。
太股の上に乗せられた文庫本に栞を挟んで閉じ、隣の席に置く。
人の見当たらないローカル線から見える景色は一面の緑。どこまでも広がる山々。
開かれた窓から入り込んでくる風が涼しく、爽やかに髪を梳いていく。
と、いうか・・・・冷房なんてあるはずがないので窓を開けるしかないわけだが。
都会では考えられないような静かな景色。吸い込む空気も心なしかすがすがしい。
大きく体を伸ばして飲みかけのペットボトルを傾ける。
「あれからもう一年、か・・・・・」
ため息をつき、座席に深く寄りかかる。
兄貴が失踪してから丁度一年たった夏休み。俺は田舎へ向かう電車に乗っていた。
失踪の話を聞いた時からずっとそうだったが、俺は未だに兄貴が居なくなったことを実感できずにいた。
それは仕方のないことだ。今までずっと一緒だった人物がいきなりきれいさっぱり消えてしまったのだ。
兄貴はついてくるなと言っていた。それが何を意味するのか、何をどうすればいいのか、俺はわからなかった。
探しに行くべきだったのかもしれない。みっともなくわめき散らすべきだったのかもしれない。しかし冷静で冷えている自分自身の思考回路がそれを許さなかった。どこを探せばいいのか、誰に当たればいいのかわからない俺は、ただ阿呆のように日常を繰り返す事しか出来なかった。
だから何も変わらない。家事の担当が一つ増えたというだけで、何もかもが。
変わっていないと、言い聞かせてきた。気にしないようにと、必死に。
けれどこうして一年の月日が過ぎ去り、あの場所に向かう今になって思う。
何故俺は、彼を一人で行かせたのだろう、と。
何があったのかはわからない。『ここ』は関係ないのかもしれない。しかしそんなのは関係がない。
俺は、彼についていくべきだった。彼に降り注いだ不穏な何かから守るべきだった。
そんな事を今になって思う、そんな自分はやはりまだ子供なのだろう。
微かに胸に沸いた不安をかき消すように立ち上がった。
電車の中を見渡すと、いつから居たのだろう?夏だというのに黒いロングコートを羽織った男性の姿が見えた。
コートの下はワイシャツ。だらしなく緩められたネクタイがなければ公務員にしか見えない。
やがて男はコートを脱ぎ去ると大きくため息を付きながら煙草に火をつけた。
いかにも気の強そうな目。鍛えられている筋肉が捲くられた袖から露出している。
ぱったりと、目が合う。男は軽く微笑みながら会釈するとあろうことか声をかけてきた。
「よっ!」
「は・・・・・こんにちは」
「まさか人が乗ってるとは思わなかったぜ」
「俺もです」
「目的地は・・・・聞くまでもないか。この先にはあそこしかねえしな」
紫煙を吐き出しながら男は笑う。悪い人間には見えないが、なんだか馴れ馴れしい。
窓の外を眺めていると山の合間にようやく町の姿が見えてくる。それを見つめながら俺は自分の席に戻った。
あとはゆっくりとした時間が流れ、電車は駅のホームに停車した。
真夏の太陽はじりじりと焦がすように降り注いでいる。遮るものが何もないそれは直接俺を見つめていた。
一足先に去ったのだろう、男の姿は見えなくなっていた。鞄を背負い、歩き出す。
駅といってもあまりに小さなそれから出るのに時間はかからなかった。駅前と呼ぶには少々寂しすぎるそこで深呼吸する。
何となく、帰ってきたという気分になる。帰るもなにもないのだが、懐かしい風景に思わず頬が緩んだ。
ひび割れた白いコンクリの地面の上、電話ボックスを背に少女は立っていた。
「あっ!おにーちゃん、久しぶり!」
「・・・・カガリか?でっかくなったな」
白いワンピースが風に揺れる。麦藁帽子の影から除く笑顔が俺を捕らえていた。
八神カガリ。確か今年で十二歳になるはずの従妹。毎年会っていたのだが、去年を開けて二年ぶりの再会なので少しだけ印象が変わっていた。
全体的に自分が知るそれよりも大人っぽく・・・とは言えまだ子供・・・になった姿に思わず笑みがこぼれる。
「身長伸びたな・・・いくつになった?」
「んと、130くらい」
想像以上に小さかった。
「お姉ちゃんにはまだまだ追いつかないか」
「んー・・・あれは身長高すぎなの・・・・まだ伸びてるかもしれないよ」
唇を尖らせながらカガリは笑う。
二人横に並んで真夏の太陽の下を歩いていく。
荒川町、というのがこの町の名前だった。ここは田舎なりにまだ近代的で、喫茶店にはエアコンも配備されている。
しかしローカル線の最後を飾るに相応しい田舎っぷりであることは否めない。
目的地はこのさらに先にあった。この町と山一つ挟んだ場所に目当ての小瀬という場所がある。
厳密にはそこも荒川の一部らしいが、今でも合併する前の小瀬という名で呼ぶのが通例だ。
そこへは山一つ超える・・・のではなく、間に通った小さなトンネルを抜けていく。
軽く3キロ近い距離を伸びているそれを徒歩で通過しなければ小瀬にたどり着くことは出来ない。
周囲を深い山々に囲まれた小瀬の唯一の出入り口だった。
当然、大型のトラックなんかは入ることが出来ない。軽トラはわりと通るが、それも稀だ。
そもそも人口が少ないこの町の出入りは異常に少ない。故に長々と続くこの薄暗闇の中を一人で歩かなければならないのだ。
そんな寂しい状況を心配してか、カガリは迎えに来てくれたのだろう。昔から気の効く少女だったが、年々それに磨きがかかっているようだ。
というのは俺の良心的な解釈で、彼女はお喋りがしたい一心だったのかもしれないが。
久々に会う少女はどうでもいいことや下らないことを延々と語っていた。俺はそれを話半分に聞き流しながら相槌を打つ。
いつもは出来る限り丁寧に聞こうとする言葉たちも今はいまいち頭に入らなかった。
「それでね・・・・おにいちゃん聞いてる?」
「ん?聞いてるよ」
「うそだー聞いてないよ・・・・どうかしたの?もしかして疲れちゃった?荷物、カガリが持とうか?」
「いや・・・大丈夫。それにしても長いし暗いなあ・・・・」
「カガリは毎日学校行くのにここ通ってるんだよ」
「は〜〜〜〜〜・・・・・えらいなあ・・・・・」
本当に頭が下がる思いだ。
もちろん小瀬に学校なんかあるはずがない。小瀬の子供たちは荒川の学校まで通うのだろう。
そう考えるとなんともいえない気分になってくる。この暗闇は都会育ちの俺にはどうにも慣れない。
昔は兄貴と二人で通ったものだから、それほど気にならなかったのだが・・・。
ようやく小瀬にたどり着くと、一面に広がる畑と砂利道。ため息を付けどもまだ屋敷は見えてこない。
ここからさらに歩き続け、奥の奥へと進んでいく。
屋敷はしばらくすればすぐに目に入った。大きい上に視界を遮るものが極端に少ないからだ。
屋敷に到着する頃にはすっかり全身汗だくになっており、息も絶え絶えだった。
カガリを見るとまったく顔色一つ変えていないのだからたいしたものだ。冷静に思い起こしてみれば彼女は迎えに来たということはあそこを一人で片道歩いたということになる。なんとも根性の据わった十二歳である。
「ただーいまー!」
サンダルを脱ぎ散らかして廊下をどたどた走っていく・・・ってサンダル!?マジか!?
そんな従妹に続き「お邪魔します」と声をかけながら上がるととりあえず居間を目指した。
純和風の屋敷の居間は当然畳張り。昭和の雰囲気が漂う木製の家具たちが目に付いた。そのどれもが懐かしい。
畳の上に置かれたちゃぶ台ではこの部屋にそぐわない新品のノートパソコンが画面を光らせており、カガリの姿は見当たらなかった。
パソコンの画面を覗き込むとそこにはわけのわからない英文がつらつらと並んでいて頭が痛くなった。
荷物を降ろしてため息を付いているとカガリが元気よく居間に飛び込んできた。
「おにーちゃん、お姉ちゃん連れてきたよ!」
「マサキ〜・・・・・元気だった?」
「あんたは既に死にそうだな・・・・」
黒いタンクトップのシャツに短いジーンズを履いた長身の女性は長い髪をゴムで結びながらとろんとした目で微笑んだ。
どうみても寝不足だった。何が理由かはわからなかったが、とにかくそういう雰囲気だった。
八神ホムラ。カガリの姉であり、俺の従姉に値する人物だ。年齢は確か二十いくつ・・・兄貴と同年代だったと思う。
カガリとは随分と歳が離れているが、ホムラがカガリを可愛がっているのか、二人の関係は非常に良好だ。
「うーん・・・・マサキが来たらこのナイスバディで抱きしめて未熟な若い性を誘惑しちゃおうかと思ってたんだが、正直そんなことをするテンションはもう残ってないんだよね」
「そんなことしないでくれ。あとあんたはまだ若いだろ」
「いやいやいやいや、ハタチすぎたらもうオバサンだよ!」
何いってんだこの人。全国の二十代に謝れ。
とは誓って口にはしない。畳の上に座ると彼女たちも同じく畳に座り込んだ。
改めて見ると何とも無防備な格好だったが、いちいちここで顔色を変えるほど不慣れではない。
毎年毎年来る度に彼女は無防備なのだから、もうこれが基本的なスタイルに見えてくる。
「このパソコンは?」
「あー、二年前に新調したんだよ。前に使ってたのがついにお亡くなりになってね」
彼女はまだ学生だったが英文翻訳のバイトをしていた。それは昔もそうだったが、どうやら今もそうらしい。
何もかもかわらない家に思わず心が安らぐ。こうしていると時間がひどくゆっくり進んでいくようだ。
「くかー」
「寝るな」
「おっと・・・危ないところだった・・・・・だめだ、適当にくつろいでくれマサキ・・・・あたしは寝る」
「そうしてくれ」
ひらひらと手を振りながらホムラは居間を出て階段を上っていった。
残されたのは俺とカガリだけ。すると少女は唐突に立ち上がり、胸を叩いて言った。
「今日は歓迎にお料理作ってあげる!おいしいの作るから期待しててね!」
十二歳が作る料理に何を期待すればいいのかわからないまま俺は頷いた。
とは言えきっとこの家の家事はカガリが一身に引き受けているような気がしたので危険はないだろう。
そう、この家に母と呼べる存在はいない。何年も前、俺が物心着くころには既に存在しなかった。
行方不明になったという話だけ両親のどちらかになんとなく聞いた覚えはある。しかしそれを彼女たちに訊くことはなかったし、わざわざ話題に上げることでもなかった。
何はともあれ彼女たちは父親である叔父さんと三人で暮らしているわけだが、あの叔父さんが料理している姿は想像つかないし、ホムラが料理しているのはさらに理解に苦しむ。だとすれば十二歳の少女が台の上に乗ってフライパンを握っているほうがまだしっくりくるというものだ。
一人で納得しながら頷いていると窓から入り込んでくる涼しい風に思わず視線が奪われる。
窓の向こうには一面の山。この屋敷の裏は山であり、森である。
気づけば体が動いていた。縁側に出ると都会とは明らかに違う空気が大気を覆っているのを感じる。
清清しい空気を吸い込みながら読みかけの文庫本を開き、暇を潰した。
気づけば景色は夕暮れに染まり始めていた。それほど長い時間歩いていたのかと思うとどっと疲れが沸いてくる。
しかしこれはこれでいいものだ。それくらいの価値はもしかしたらあるのかもしれない。
本のページを捲りながらふと思う。今年は隣に誰も座っていない事に。
俺がこの場所に来る事を決めた理由の一つに、きっとあるのだろう。
行方不明になった兄の真実を知りたいという気持ちが。
「おにいちゃん、もしかして退屈?」
振り返るとそこにはカガリが立っていた。縁側に同じように腰掛けると俺の顔を覗き込む。
「料理はどうしたんだ?」
「ご飯炊いてるの。退屈だったらカガリがお話相手になってあげる」
「そうか・・・・・・叔父さんはどうしたんだ?姿が見えないが」
「ん〜と、お父さんは今年は忙しいからカガリがお兄ちゃんのお相手しなさいって言われてるの。そういえばお兄ちゃん今年はどれくらいこっちにいるの?」
「んー・・・・まあ夏休みだからどれだけ居てもかまわないんだけどな」
「ほんと?じゃあ夏休み終わるまでいれば?」
「それは・・・・・・・半月以上ここにいろってことか」
「嫌?」
「嫌じゃないが・・・・・ちょっと肩身が狭いかなあ・・・・ははは」
その言葉の意味がわからなかったのかカガリは首を傾げていた。
少女の頭の上に手を乗せてぐりぐりと撫でる。
「それじゃあ今年はどうしようかな・・・」
「大丈夫!カガリがちゃあんとエスコートしてあげるからね」
若干不安を覚えるエスコートだが、まあよしとしよう。
「もしかして疲れちゃった?もし早く寝るならお風呂沸かすから言ってね」
「本当に全部カガリがやってるんだな・・・・・俺も自分でやってるけど偉いな」
「む・・・それは子供って意味かな・・・?でも仕方ないの、お姉ちゃんは家でごろごろしてるぐーたらだし、お父さんはお仕事忙しいからカガリがやるしかないの」
そう語るカガリの表情はやっぱりどこか誇らしげだった。
二人並んで夕日が沈んでいく様子を眺めているとにっこりと微笑みカガリが言う。
「でもよかったあ・・・・今年もお兄ちゃん、来てくれないんじゃないかと思ってたから」
「・・・・・・え?」
「だって去年は・・・・・」
彼女が言わんとすることはわかった。
もしかしたら迎えに来たのも本当は俺が来るかどうか不安だったからかもしれない。
去年、兄貴は確かにここにいた。そしてきっと同じようにこの景色を眺めていたのだろう。
そしてカガリはそれを知っているからこそ、俺が今年もここに来ないのではないかと考えた。
「ごめんね・・・・カガリもね、一生懸命探したんだけどね・・・・」
「・・・・気にするな。誰かのせいってわけじゃないさ・・・」
兄貴はこの町で、唐突に居なくなってしまった。
勿論カガリもホムラも探したのだろう。それでも見つからなかったし手がかりもなかった。だから失踪。
その前日までカガリは一緒に居たのだというのだから、彼女が責任を感じてしまっても仕方のないことだろう。
そんな不安を少しでも払拭出来るように、俺は怒っては居ないと示すように、優しさを込めて頭を撫でる。
カガリはそれを判ってくれたのか、今日始めて見るようなとびきりの笑顔で応えてくれた。
どたばたと音を立てながら台所に向かって走っていく後姿に思わず苦笑しながらもう一度縁側に視線を向ける。
「え?」
思わず呟いていた。
ついさっきまで誰もいなかったはずの景色に人の姿が浮かんでいたからだ。
山の麓、ここからは少しだけ遠い場所、確かにそこに立っていた。
二人で眺めていた時には存在しなかったその人物は明らかに俺のことを遠く見つめている。
全身をすっぽりと包む黒いコート。一瞬電車の中であった人物を連想したが、明らかにそれとは違う。
どことなく異質な雰囲気を感じる。サングラスの向こう、見えもしない目が鋭く光っているような気がした。
いかにも怪しい格好のそれはじっと身動きもせず俺を見つめている。
「・・・・・?」
それが風景画の一部ではなく生きているものだということはすぐにわかった。
ゆっくりとした足取りで歩き始めると屋敷の前の道を通り過ぎていく。
その縁側から見える視界から消え去るまで、男は俺のことをじっと見詰めていた。
「なんだったんだ・・・・・」
引きつったように歪んだ口元の笑顔。
長く伸びた髪が不気味に風にゆれていた。
まるで幻にでも遭遇したかのように現実味のない感覚。
目を閉じ頭を軽く振って気を取り直すと、勿論その影はどこにも見当たらなくなっていた。
縁側から立ち去るため本を閉じて立ち上がる。
振り返ればそこに立っているような不吉な感覚に思わず立ち止まるが、当然そこには何もいない。
居間に戻ると聞こえてくるカガリの鼻歌と軽快な包丁のリズムにようやく緊張が解けた。
ただ、その時既に何かを感じていたのかもしれない。
ざわざわざと、背中の辺りを駆け巡る奇妙な感覚。
畳の上に寝転び座布団を枕代わりにして目を閉じた。
やはりきっと、疲れているのあろう・・・・。
「おいこら、邪魔だぞ少年」
「うっ」
蹴り飛ばされる痛みで目が覚めた。
うとうとしていた頭を強引にたたき起こすと目の前にホムラの顔があった。
いくらか眠って体調が回復したのか、相変わらず強引な態度で起こしてくださった。
ちゃぶ台には既に料理が並んでいて外はいつの間にか真っ暗になっていた。
エプロン姿のカガリが妙に大盛りのご飯を乗せた茶碗を片手に走ってくる。
「はい、これおにいちゃんの分ね」
「・・・・・・・・・」
ドラゴン○ールじゃないんだからこんなに食べないけど。
ふと思えば以前ここに来た時は兄貴が料理をしていたことを思い出す。
今年はカガリ・・・その変化がなんだか寂しく、新しくもある。
「ん〜今日は天ぷらかあ〜・・・・揚げ物うまーい」
「こら・・・・・あんた勝手に食いだすな。いただきますがまだだろうが」
「あははははは!お兄ちゃん、コウヤお兄ちゃんとおんなじこといってるー!」
「同じ事を言われる前に学習してくれ」
「ちっ・・・・そんな嫌なとこだけ似なくていいっつーの」
態度の悪い姉もしぶしぶ「いただきます」に付き合ってくれた。
なんだかんだで楽しい食卓が始まった。味のほうは意外にも評価出来るもので、今後の食事には期待できる。
俺よりもカガリよりもただ寝ていただけのホムラが食べまくっていることに多少の違和感があるが。
強引に揚げ物を口に突っ込んでいくその姿を兄貴が見たら注意しまくりそうな気がした。
「そんなにじっと見つめたらテレちゃうだろ〜」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「あからさまに困った顔しないでよね・・・・寂しいじゃん」
そう思うなら最初からやらなければいいのに。
「そういえばマサキ、今年はいつまで居るの?」
「特に決まってはいないが」
「明日からの予定は?」
「・・・・・それも決まってない。まあ、適当にぶらぶらするさ・・・・それより叔父さんの予定は?」
「ああ・・・そっか、健康診断で来てるんだっけ?まあ一週間もすれば手も空くんじゃないかな」
「それじゃあ一週間はいるんだよね!?やたっ!」
「一週間か・・・・・長いな・・・・まあ気長に待つさ」
それに一週間もあれば、色々なことが可能だろう。
自分の頭の中、心の中の片隅にある選択肢がゆっくりと動き出す。
失踪した兄貴の手がかりを探す・・・・そう、きっとその目的は最初から俺の中にあった。
一年も前のことだ。もうどうにもならないかもしれない。それでも俺は・・・・。
「またそうやって無愛想な顔して〜・・・・もっとスマイルスマイル」
「生まれつきだよこの顔は・・・・悪かったな」
「拗ねるなよ少年。ほら、あたしのピーマンあげるから」
「あーーーっ!!!だめだよおにいちゃん、それ食べちゃ!苦手なものもちゃんと食べなさいって言ってるでしょ!?」
「だってえ〜・・・・天ぷらにしてあってもピーマンはピーマンだよ・・・・」
「む〜〜〜・・・・・ちゃんと食べなさい!」
「はーい・・・・」
これじゃどっちが姉だかわかったものではないな。
そんなことを考えながら食事が終了し、カガリが沸かしてくれた風呂に一人浸かる。
明日からのことを考えると色々と悩みは尽きなかったが少し熱すぎる湯船に浸かっていると全てを忘れられそうな気がした。
「兄貴・・・・」
夜空に浮かぶ月や星たちが美しく見える。
目に焼き付けるようにゆっくりと瞼を閉じ、湯船にゆっくりと沈んでいく。
今からでも変えられるだろうか?
今からでも間に合うだろうか?
誰とでもなく、ただぼやくように、愚痴るように。
湯船の中、言葉にならない想いを張り巡らせていた。




