ピンホール
写真撮りの藤島国吉君は、ぼうぼうに伸びた髪の毛をガシガシと掻きむしる癖があります。毎朝遅い朝を迎え、10時に店のシャッターを頭を掻きむしりながら開ける。すると五分もしないうちにもうお客は戸を開きます。休日は予約の電話が鳴らない時が少なく、店の前に行列ができることさえある。十二年前、十五才の頃に田舎を出てから、藤島君はずっとシャッターを押し続けています。
彼の使うカメラは特別高いものではなく、ごく一般的な一眼レフのカメラです。写真の出来も、商店街の他の店と何ら変わりもありません。初めて訪ねたお客は写真にしかめたような視線を向け、首をひねりながら写真を片手に店を出ていきます。けれど藤島写真店に客足が途絶えることはありません。一枚目からしばらくおいて二度三度と撮ってもらう常連客も少なくありません。
「秘訣ってほどのものもねえんだけど」
のびをして、大事そうにカメラの手入れをしながら藤島君はゆっくり続けました。
「このお客さんだったら、こういう顔をみたい、こんな様子だったならきっと素敵なんだろうな、と、俺は毎回、そんな風に思いながらシャッターを押してるだけだよ」
常連客の一人、同じ商店街のコロッケ屋の親父がいうことには、最初は何も変わりないじゃないか、と思ったそうです。暇潰しに浮いたお金で撮った写真は、筋肉質な大きい肩の上に、渋面を作ったいつもの顔。でも、写真の親父はすこし穏やかな顔にも見えます。三年前、親父は最愛の妻に逃げられてこのかた、一度だって眉間の皺がなくなることはなかったのです。くすぐっても眉間に皺がよったまま口角が上がって鬼のようになってしまうらしいのです。
「それがな毎晩寝る前に写真を眺めてるうち、妙な気分になってきてよ。これがまた変な顔なんだよな、眉間の皺も、下がった口角も和らいでる。そのうち息子のやつが、父ちゃん、笑ってるよ、ってひどく喜んでよ。つまり、俺はいつのまにか笑うことができてたんだ。藤島のあの、おかしな写真のおかげで」そう言って、優しい鬼のような顔をしてみせます(これが笑い顔らしい)。
友人の吉野君はわざと目を瞑って、眠り顔を撮ってもらい以来、長年の不眠症から解放されました。おこりっぽい社長は、悲しむような顔に撮ってもらい、社員に厳しくあたるのをよしたそうです。
藤島君は言います。
「自分のほんとうの顔を見る機会って案外少ないでしょう?鏡に映したりしてもそれは言ってみれば四角い箱に入ってるような、余所行きな顔だからね、ほんとうの顔ってのは実は一時も止まってなくて、目鼻も口も、いつもくるくる目まぐるしく動いてるんだ」
顔を見ているうちに浮かんでくるお客の「いちばんすてきな顔」、これを藤島君は絶妙なタイミングでカメラに収めます。もちろん、笑顔に限りません。怒りや悲しみ、嘆きを全身であらわにすることもある。お客はその写真を通して、自分の中のほんとうを、目の当たりにするのです。要するに、藤島君の撮る写真はお客の外見ではなく、普段は外見に覆いかくされた、ゆらめく蝋燭の火のようなものだといえるかもしれません。
「俺にゃそんな顔しか撮れないんだよ」
藤島君は頭をがしがしとして
「本当に色んな顔を、俺はいやになるほど見てきたから」
藤島君は自分の過去のことをあまり語りません。何故田舎から出てきたのかも誰も知りません。
藤島君の写真は、遺影に使われることも多々あります。
先週、郵便局に訪れに、藤島写真店の前を通ると、見なれぬ老夫婦が店に入っていきました。男の方はハットを大事そうに胸に抱き、女の方はすっかり腰を曲がらせて小さくなっている。帰りにまた写真店の前を通ると、珍しく藤島君は何かを握って、背中を扉に合わせていました。さっきの客はバカンス中の富豪ですかと聞くと、ふうと息をついて
「ちょっと違うな」
藤島君は首をすくめ、一瞬間おいて、
「俺の両親だよ」
と答えました。 藤島君はポケットに握っていたものをつっこみ、がしがしと頭をひっかき、十五年ぶりだったかな、と呟きました。
「お元気でしたか」
「ああ、父ちゃんはな」
藤島君とその両親は、家出をしてから再開はしてなかったそう。しかし、突然現れるやいなや、小さなボロいおもちゃのカメラをおいていきました。それを藤島君は大事に握っていたのです。
「うちの母ちゃん。腰がひどく悪くてさ、なのに田舎から何しに来たのかね」
しかも立派におめかしまでして、香水までふりかけて少し匂いもきつい位だった。そんなことをしてきたものですから、藤島君もずいぶんと混乱していたそうです。
「写真は撮ってあげたんですか」
僕がそう聞くと、
「ああ、母ちゃんは腰を伸ばして、父ちゃんは満面の笑みで撮ってやったよ」
印刷した写真を二人は仲良く見ながら、ゆっくりと帰っていったそうです。小さなカメラを置いて。
「今日は何しに来たんでしょうね」
「さあ、全く分からない」しばらく沈黙してから、藤島君は口をぽっかり開けます。
「どうかしましたか?」
「今日、俺の誕生日だ」
次の日、藤島君の元に一通の手紙が届き、彼は非常に肩を落とし、ため息を何度もついていました。最後にうまいもん食わしてやればよかったなどぶつぶつ呟いて、変に思う客も少なくありませんでした。
お母さんの遺影には、藤島君の写真が使われることが決定しました。
それからしばらくし、お父さんと二人暮らしを始めた藤島君が若い女性に接客しているのを見ました。
また店によると、藤島君は珍しくひとり手も動かさず、椅子に座っていました。缶コーヒーをもっていくと、どうも、と嬉しそうにうなずきます。さっきの客は、外国の方ですか、と僕はたずねました。なんとなくそう思ったものですから。
「まあそうだな」
藤島君は少し迷って続けます。
「俺と同郷なんだ」
と答えました。
「お友達ですか」
「むこうはこっちがわからなかったようだけど、よく知ってるよ」
懐かしげに遠くを見ました。
女性はおとといこちらに着き、仕事が思ったよりはやく済んで、少し時間があまったらしい。ホテルの店員の噂を聞きつけ、わざわざやってきたのだそうです。藤島君には一目で相手が分かりましたが、顔には出さず、カメラを設置し始めました。女性は静かに椅子にかけて背筋をぴんとさせています。藤島君は相手の顔、立ち姿、表情をレンズ越しに眺めながら、以前とはすっかり変わっているのに大分驚いたといいます。
「10年前は、外見こそ派手で明るくふるまっていたが、内心はじつにガラスのように、すぐ割れてしまうような人だった。ところが今は見栄えどおり、心から落ち着いて、なかから穏やかに満ちていたよ」
立派な洋服にふさわしい、あるいはさらに上等な空気が彼女の周りに漂っているように見えたそうです。
「あれから何があったか知らないけど」
いかにも、ふざけたように、
「憎たらしいったらありゃしねえよ」
そういってから、ぬるくなった缶コーヒーをすすります。
しばらく黙った後、僕はようやく気が付きました。さっきの女性の写真に、何か手を加えましたか?いたずらと言うか。何て言うか。
藤島君は黙りました。
そして、ため息な口調で、
「ああ」
空の缶コーヒーを机に置いて、
「高そうな結婚指輪を、無くしといてやった」
と言いました。