7.係長の鬼畜ノルマ
「今日は会議や打ち合わせが入ってるから、お前のことは若月に頼んでおいた。――後は若月に聞け」
一条課長に言われ、若月係長に指示を仰ぎに行った。
ら。
ドサッ。
デスクの上に、分厚いファイルが何冊も積み上げられた。
デジャビュに頬が引きつった。
「これは……?」
「過去十年間のわが社に寄せられたクレーム内容です。これに目を通して、一つ一つ対応を考え文書化してください」
嫌な予感がしつつ聞くと、若月係長は眼鏡の端を片手で押し上げながら淡々と機械的な声で告げた。
「では自分のデスクに戻ってやり始めてください」
そう言って、若月係長は再びパソコンに目を戻す。
それに慌てて声を上げた。
「ちょ、待ってください……!これ、普段の業務に関係あるんですか?」
ここは営業部だ。
お客様からのクレーム処理を担当する部署じゃない。
クレーム担当の部署はちゃんと別にある。
“営業部”としては関係ないんじゃないか、と告げる私に、若月係長は片眉を上げた。
「――説明が必要なようですね。いいですか、そもそもクレームというのは――」
いいですか、と疑問を投げかけるような言葉を言っておいて、私が返事をする暇もなく言葉が続けられる。
しまった、と思ったけど、もう遅い。
畳み掛けるような言葉の羅列に、早くも頭が痛くなりそうだ。
営業というお客様と直接関わる仕事をしている以上、クレーム処理はどうしても必須の技能となってくる。
行った先で愚痴のようにクレームを聞かされることも少なくないからだ。
――という内容の話を懇切丁寧に教えてもらった。
クレーム対応の大切さは、十分に理解した。
もうホント、嫌ってほどに。
だけど。
「お……終わりが見えない……っ」
過去十年分とか。
何なの、この量!?
バカなの?
死ぬの?
必死に手を動かしながら、チラ、とデスクの横を見て内心で絶叫する。
(おーわーらーなーいーっ!!)
残りのファイルの多さに項垂れた。
(あ……甘かった……っ)
昨日の課長のノルマなんて、可愛い物だったんだ……っ。
鬼だ。
本物の鬼がいる……!
しかも渡されたファイルのクレームが曲者だ。
例を挙げると、
【早く帰りたいのに、他の取引き先に行ってからしか伺えないと言われた。怠慢ではないのか?】
みたいな内容の、意味不明なクレームの数々ばかりが並んでる。
はっきり言って、こっちに非があるわけじゃない。
一つの取り引き先だけを相手にして仕事してるわけじゃないんだから、言われたからってすぐに行けないこともあるっつーの。
てか、早く帰りたいって思いっきり私情でしょ!?
なんて思っちゃうのに、それについての対応を考えなくちゃいけない。
そんなの知るかーっ!
と、内心盛大に突っ込みつつ、ひたすらにキーボードを打っていると。
「うわー、凄い量。どうしたの、これ?」
後ろから、呆れの滲んだ声がした。
その声に、動かしていた手を止めて振り返ると、給湯室から出てきたらしい上田さんが、カップを片手にデスクに積み上げられてるファイルを見下ろしていた。
そんな上田さんを見て、そういえばさっき若月係長からこのノルマを貰った時に上田さんはフロアにいなかったな、と思い出した。
「今日のノルマ、です」
答えて、がくっと項垂れる。
疲れた。
「今日の?――でも、この量……」
「今日のさっちゃんの教育係は若月係長なんだって」
何か言いかけた上田さんの言葉を遮って、私たちの会話を聞いてたらしい井上さんが自分のデスクから説明してくれた。
「あー……」
その言葉に納得したように、上田さんが声を出す。
ちょ、上田さん!?
何で、「なら納得だ」みたいな声で頷いてるんですか!?
なんて内心突っ込んでいると、項垂れる私に声がかけられた。
「おー、へばってんねー。ダイジョーブかぁ?」
「……大丈夫、に見えますか?」
項垂れたまま視線だけを向けて、斜め前に立つ人物をねめつける。
井上さんはいつの間にか、デスクを立って移動していたらしい。
これが大丈夫に見えるんなら、眼科に行くことをお勧めしますよ。
ええ、本気で。
「見えない」
やさぐれ気味の私の言葉に、隣で仕事してたはずの北村さんが答えた。
どきっぱりとした即答っぷりが、いっそ清々しい。
気付けば、私のデスクの周りに皆さんが集まっていた。
ちなみに、若月係長は今、フロアにいない。
少し前に、開発部の方に呼ばれて出て行ってしまった。
まぁだからこそ、
「若月係長は、鬼畜だからね」
「わざと大量のノルマ吹っ掛けて、俺らがひーひー言ってんのを楽しんでんだぜ、きっとー」
こうして皆で好き勝手言ってられるんだろうけど。
「ノルマの量は気にしない方がいいと思うわ」
項垂れる私に、北村さんが言う。
「でも……、」
気になっちゃうんです。
気にしないでいられるんなら、それに越したことはないんだろうけど。
「てかさ、こういうのは、適度に手を抜いとけばいいの」
力なく反論する私に、今度は上田さんが言った。
それに井上さんも追従する。
「どうせ真面目にやったって、正解があるわけじゃないしなー」
皆さんのお言葉は、至極ごもっとも。
「こんなクレームもあるんだなって、頭に入れておくくらいでいいんじゃない?」
そう微笑みながら言ってくれる上田さんに、コクリと頷いた。
「そうですね、どう対応したら一番いいんだろう、って難しく考えすぎてたのかもしれないです」
しっかりとした正解があるわけじゃない。
皆さんから言われた内容を頭の中で反芻してる間にも、三人の話は続いていて。
「つーか、係長って本当に鬼畜だよな。俺だって、この鬼畜メガネ……!とか、何度思ったことか……っ」
「あー、最初の頃は井上もよくノルマ言い渡されてたもんね」
井上さんの言葉に、上田さんが苦笑する。
見れば、北村さんも呆れたように笑ってた。
「あいつ性格がくそ真面目すぎんだよ。てか、あの鉄面皮を引っぺがしてやりたい!」
聞きながら、若月係長に鬼畜ノルマを言い渡されたのは私だけじゃなかったんだなぁ、と私も苦笑した。
「いつもいつも、すました顔してさー。こないだも、“報告書の提出がまだですが、どうなってるんですか?”ってさー」
言いながら、井上さんは眼鏡の端をくい、と持ち上げる真似をする。
その動作が妙に似てる。
それに吹き出しそうになって――、息を飲んだ。
「――っ!」
彼の背後に、若月係長がいた。
いつの間に戻って来てたのか。
若月係長が、フロアの入り口からこっちに向かってゆっくりと歩いてくる。
いきなり視線を固定して黙り込んだ私の視線の先を追って、両側にいた二人はすぐに若月係長の存在に気付いたみたいだけど。
井上さんは話すことに夢中になってるせいか、全く気付く様子がない。
そして。
「だから……そう!鬼畜眼鏡だから、気にすることねーって!」
井上さんの真後ろに立った若月係長が、
「――ほう?」
低く声をかけた。
「っ、げぇ!?」
「面白いことを言っていましたね?私が何ですって?――井上さん、貴方とはじっくりと話をする必要がありそうですね?」
「ちょ、何で名指し!?てか、俺だけ!?こいつらだって――って、いねぇ!?」
井上さんが振り返った時には、二人ともすでに自分の席に戻ってた。
「っ、ズリィィイイイ!」
「いいから来なさい」
叫ぶ井上さんに構わず、若月係長は井上さんの襟首を掴む。
「いやだぁああああ!」
ズルズルとフロアの奥に引っ張られていく井上さんに、頬が引きつった。
(――ご愁傷様です)
何も出来ない私を許して下さい。
なんて、思ってしまったのが悪かったのか。
「――ああ、そうだ。里中さん」
若月係長がピタッと足を止めて、振り返った。
「っ、は、ははははい!」
呼ばれた名前に、ピシッと背筋が伸びる。
「貴女は今から言う資料を資料庫から取ってきてください」
「え、でも……まだ、」
私を一瞥して若月係長が言った言葉に、戸惑った。
チラリ、と机の上の書類を見る。
まだノルマの五分の一も終わってない。
言いよどむ私を見て、若月係長が口角を上げた。
「無駄話をしている時間があるんです。これくらい余裕でしょう?」
「っ」
眼鏡の奥の目が怖い……っ。
口元が持ち上がってるのに、目が……っ。
目が全く笑ってないんですけど……!
「……はい、行ってきます……」
反論を許さない若月係長からの問いかけに、私は力なく頷くしかなかった。