喪失の少女と白き竜
その日、少女は全てを失った。
よく晴れた春の日。十五歳の少女は彼女にとって唯一の友人である別の少女と共に遊園地に来ていた。
少女は人付き合いが苦手だった。両親の仲が悪く、家でも、そして学校でも、少女は独りだった。その美貌に惹かれる男子が多い一方で、そんな彼女を妬み、少女が無口であることを偉そうにしていると蔑む周りの女子によって完全に孤立させられていた。そんな中で唯一、彼女に声をかけてきてくれたのが傍らを歩く友人である。優しい友人は、彼女のことをよく気遣ってくれた。少女も、そんな友人にだんだんと心を許し、いつしか二人は無二の友達となっていた。
遊園地に行こう、と友人からメールが来たのは昨夜のことだった。ちょうど父親が母親に対し暴力を振るい、怒声と泣声が聞こえる中で真っ暗な自室にこもっているとき、机の上に置いた携帯電話の着信音とバイブレーターの振動音が部屋に響いた。友人からだった。ここ一週間、何の音沙汰もなかったので、若干不思議に思いながらも、メールの内容に目を通した。
明日予定がないか、よかったら一緒に遊園地に行かないか、というものだった。
少女は了承した。家にいても母親の啜り泣きを聞くだけだったからだ。
実際、その日はとても楽しかった。普段はほとんど感情を表に出さない少女だったが、この日だけは、その辺りにいる同じ年頃の女の子と変わらない位にはしゃいだ。
夕方、その遊園地の中で一番高い建物の上に上り、手すりに手を載せて友人と二人、夕日を眺めた。もう閉園時間が近いからだろうか、そこに他の客の姿はなかった。
ふと、他愛無い会話をしていた友人が、今日はとても楽しかった、と言った。
うん私も、と少女が返す。
友人はその顔に寂しそうな笑みを浮かべた。そして、少女の顔を見つめると、今日みたいに楽しそうなレナちゃん、初めて見たよ、と少しはにかみながら言った。
少女は少し顔を赤くした。それを見て、友人は言葉を続けた。
最後にそんなレナちゃんを見れて良かった、本当にいい一日だった、と。
少女がその意味を理解できずに当惑気味な表情を浮かべた。
友人は手すりによじ登り、ゆっくりと腰かけた。足元には赤く染まる遊園地が広がっている。少女には一瞬、それが血に染まった別の世界のように思え、寒くもないのに腕に鳥肌が立つのを感じた。
友人は少女を振り向き、再び笑みを浮かべた。先程とは違う、屈託のない笑みを。
じゃあ、ね・・・・・
小さな声でそう聞こえた。
視界から友人の姿が消えた。ほぼ同時に、この世界から友人の命が消えた。
少女はゆっくりと歩を進めていた。それが果たして家に向かっているのか、または別の目的地に向かっているのかは少女自身にもわからなかった。
少女は知らなかった。友人の唯一の家族であった母親が、先日自殺してしまっていたということを。
ポツリ、ポツリと雨が降り始めた。あれほどまでに鮮やかだった夕日が、暗雲に覆われ、空は一気に暗くなっていた。
家路を急ぐ人、仲間とどこかに出かける人が周りを足早に通り過ぎていく。
やがて完全な夜が訪れる。雨に濡れながら、少女は決して走ろうとはしなかった。お気に入りの服も、スカートも、バックも、美しい黒髪も、雨に濡れて重たく感じた。
気が付けば、少女の家の近所まで来ていた。ふと、少女の耳に消防車のサイレンの音が聞こえた。少女は雨に濡れた顔を上げた。その目に映ったのは、遠くで黒々とした空に向かって、巨大な炎が爆ぜている光景だった。そして、その炎を上げている家は―
少女のバッグから、携帯電話の着信音が聞こえる。
ビショビショの手でバッグを弄り、カチャリと携帯電話を開く。
警察だった。若い男の声が、携帯電話から響く。
少女のことを確認し、警察は説明を始めた。
今日の四時頃、少女の家から男の声で通報があり、駆けつけてみると、手に受話器を持ち、血を流して倒れている中年男性の姿があった。警官二人が男性の意識を確認しようとしたところ、別の部屋から灯油の入ったプラスチックケースをもった女性が現れた。
ここから出て行ってください、と女性は告げた。警官二人が身構えると、女性はポケットからライターと取り出し、なんの躊躇もせず床に落とした。女性の周りから、そして女性の着ていた衣服から、炎が溢れた。予め家中に灯油が撒かれていたのであろうか、警官二人が命からがら脱出したときには、二階の別の部屋の窓からも炎が見え隠れしていたという。
少女は静かに携帯電話を耳から離した。警官は、応答の無くなった少女を心配してか、しきりに声をかけている。
何の前触れもなく、少女は歩きはじめた。
ビシャリ、ビシャリと足が水溜りの中へと落ちるたび、水しぶきを周囲に飛ばす。
今来た道を戻る訳でもなく、家に向かう訳でもなく、少女はひたすら歩き続ける。
いつの間にか、弱弱しく握っていた携帯電話が無くなっていた。だが、大して気にならなかった。今更携帯電話がなんだというのだ。
唯一の居場所をくれた、唯一の友人。不仲とはいえ、唯一の家族、唯一の自分の家。
失いつくした。何もかも。
少女の大きな瞳からは、涙すらこぼれない。いっそのこと、涙すら流し続け、完全に失ってしまいたいとすら思っているのに。それとも涸れてしまったのだろうか。悲しみと一緒に。
ただひたすら歩き、歩き、歩き続ける。少女の、自分の全てを置き去りにして。
一体どれほどの時間が経ったのだろうか。
気が付いた時には、少女は静かな森の中にいた。こんな場所が少女の住む町にあっただろうか、それとも本当に遠く離れた場所に来てしまったのだろうか。
それでも少女は歩き続ける。
場所などどうでもいい。
自分がどこに向かっているのかなどもどうでもいい。
何もかもどうでもいい。
少女の白い足は、直に森の緑を踏んでいた。いつの間にか、履いていたサンダルが無くなっている。肩に掛けていたお気に入りのバッグも消えていた。
しかし少女は気づかない。気づこうともしない。感覚をも失ってしまったのだろうか。
人の世も同じだ。自分が大切にしているものが失われれば、慌てふためいて探す。またはそれに代わる別のものを見つける。だが、関心のないもの、気づかないものに関しては、無くしたことにすら気づかない。
少女は裸足のまま、森の中を歩き続けた。時折尖った石を踏み、足が切れ血が滲んでも、少女は全く微動だにしない。少女は痛みすら失ってしまったのだ。
やがて、少女の前に大きな泉が現れる。少女は何の躊躇いもなく、水の中に足を浸した。
普通の人ならば驚くほどに冷たい水。しかしそれでも、少女の足は止まらなかった。
最初は右足、そして左足。歩みを進めるほどに、少女の華奢な体が暗い水に飲み込まれていく。水面を見た少女は、自分が一糸纏わぬ姿でいることに初めて気が付いた。しかし、一瞬で関心を失うと、再び泉の中心に向かて水底を歩きはじめる。
やがて、少女は泉の中心付近にまで辿り着いた。長い黒髪が少女の後ろに伸び、ゆらゆらと美しく揺れている。暗い水の中でも、少女の体はぼんやりとではあるが白く輝いてみえた。水は少女の胸元まで迫っていた。心臓麻痺を起しそうな冷たい水の中で、しかし少女はあまり冷たさを感じることもなく、なお前に進もうとした。
ふと人の気配を感じ、少女は若干下に向いていた視線を前に向けた。そして歩を止める。
暗い森の中、冷たい泉の中で、少女と同じように誰かがこちらを見ていた。
ぼんやりと白く見える人影は、今の少女のように水の中で静止していた。
恐怖は感じない。既に失ってしまったから。驚きも、疑問も同様に。
少女はまっすぐ、その人影に向かって歩き始めた。
少女が歩き始めたのと同時に人影もゆらゆらと揺れ始めた。歩いているのだ。
近づくにつれて、その人影の顔がうっすらとではあるが鮮明に見え始めた。
綺麗な黒く長い髪、色白な肌、長い睫に覆われた大きな瞳、真っ赤な唇―
目鼻立ちが整ったその顔は、紛れもなく少女の顔そのものだった。
少女はまるで鏡でも見ているような気分だった。
相手も恐らく何も着ていないのだろう、白い体の輪郭が、暗い水の中にぼんやりと見えた。
近づくにつれて泉の中心に近づき、その度に水深は深くなり、少女の体も水に沈んでいく。それは相手の少女も同様だ。
やがて少女は立ち止った。水は既に目の下にまできていた。
向かいの少女と同じ顔をした少女も、同じように立ち止り、こちらを見つめた。もはや、手を伸ばせば届きそうな位、近くにいた。
二人の少女は互いを見つめた。
数刻の間、二人はそのままだった。
少女は、息のできない苦しみを感じていた。そして堰を切ったように様々な感情が込み上げてきた。
少女の瞳から涙がポツリと零れた。涸れたはずの涙が、ずっと流したかった涙が、一滴だけ、瞳から零れた。
温かみを帯びた涙の滴は、少しだけ少女の顔を伝い、冷たい水の中へと落ちていった。
だが、少女の目の前の少女は違った。涙など流していない。先程とは全く変わらぬ無表情のまま、じっと少女を見つめていた。
少女は一瞬目を背けた。恥じらいを感じたのだ。
しかし、再び向かいの少女を見ると、もはや無表情などではなかった。
笑っていた。しかし、それは今日、少女が見せた屈託のない笑みではなく、悲しげな微笑だった。少女の友人が旅立つときに見せた微笑とも、また違った。
そして少女はゆっくりと足を前に踏み出した。相手も同様だ。
やがて二人の同じ顔をした少女は、互いの顔がぶつかりそうな位近くに来ていた。
苦しい。もはや少女は限界だった。恐らくこれ以上は息が持たないだろう。
死ぬ前に、この世界を失う前に、この目の前にある自分が、もう一人の自分が―
欲しい―
少女と少女の鼻の頭がぶつかる、まさにその瞬間―
少女の体は暗い水の中にもの凄い勢いで沈んでいった。
まるで誰かに足を掴まれ、引き摺られていくように。
水面を見るために顔を上げると、そこにもう一人の少女の姿はなかった。
少女は遠のいていく意識の中で、頭の中に声を聞いた。
おかえり、と。
少女の意識が遠のいていく―
目の前に広がるのは、暗い水。
寒さも、一切の感情も、苦しさも感じない。
周りを見ても、水、水、水。
自分の体を見下ろし、少女は心の中で驚きの声を上げた。
少女の体は、もはや少女の体ではなかった。
こんなに暗い中でもよく見える。全身が純白の細かい鱗に覆われ、足や手には肉食獣を思わせる鉤爪が生えている。顔を後ろに向けると、水の中に揺れる蒼色に近い長い髪、そして大きな翼があった。
少女は悟った。ついに人間の姿すら失ってしまったのだ、と。
全てを失った。友人も、家族も、家も、自分自身すらも。
ただ一つだけ、一つだけ得たものがある。
少女は翼を水中で力強く羽ばたかせた。
暗い水底に沈んでいた体が、みるみるうちに水面に向かって上昇していく。
少女の顔が水面に出るまで、そう時間は掛からなかった。
水しぶきをあげながら、少女の体が完全に泉の外に出た。
翼を動かしながらも、少女は真下の泉の黒い水面に映る己の姿を見た。
全身が真っ白だ。やや灰色がかった四肢に生えた鉤爪、額から生えた一角獣を思わせる一本角、大きく青い瞳、後ろに伸びた髪、白く長い尾、背後で羽ばたく一対の翼。
人間だった面影などまるでない。完全に別の生物へと変貌を遂げてしまっていた。
こんなにも美しく、そして悲しく思わせる姿を、少女は見たことがなかった。
一体これからどこへ行こうか。
少女は軽く頭をひねると、空を見上げた。
雲に覆われていたはずの空は、いつの間にかその合間に月を見せていた。
鱗から水が滴り落ちる。風に髪が美しくたなびいた。
少女は翼を動かすと、ゆっくりと泉を離れ、月に向かって飛翔し始めた。
一体これからどこへ行こうか。
結論は出ない。ただ、この人非ざる体で、人の世に留まることはできない。
少女は、細かく鋭い牙の並んだ口を開き、声を出した。
ヒュウウゥォォォォォオオオオオ
まるで風だ、と少女は思った。少女の声は出てこなかった。
人の声すら失った。人の姿と共に。
少女の体は黒々とした森を抜け、雲と星の渦巻く夜空に向かって飛んでいく。
この世界を置き去りにして。自分の周りにいた人々と、記憶を置き去りにして。
自分自身を置き去りにして。
その先にあるのは別の世界。しかし、人の姿を無くした十五歳の少女はそれを知らない。
いずれは少女の、“人間としての心”も失ってしまうのだろうか。その答えは誰も知らない。
ただ、少女は歩みをやめ、飛翔を続ける。
月に向かって。
ヒュウウゥォォォォォオオオオオ
(完)