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しばらくして、翔子はもう一度使者に会ってみたいと優斗に言った。
優斗は驚いたようだったが、にこっと笑って「一緒にケーキでも食べよう」と言った。
優斗に聞いたところによると、使者は毎日のようにやってくるのだという。あちらの世界についての勉強会のようなものが家族で開かれているのだそうだ。
あちらの世界がなんたるかを教えてくれる家庭教師のようなものらしい。
「今度はここがテレビに出てたのよ~」
と優斗の母は嬉しそうにお茶をだす。今日はフルーツタルトだった。
「ケーキ食べてるのか、フルーツ食べてるのかわかんないくらい、どっさりフルーツがはいってるのよ ー。おいしいわよー」
場を和ませようとしているのか、にこにことしながら翔子の前に置いた。
翔子は「ありがとう」といいながらも、自分の声がひどく低いのを自覚していた。翔子には相変わらずジュースのパックで、使者と優斗にはお茶だった。
優斗の母は「ゆっくりしてってね」と客間を辞す。
使者は今日も整った顔で、静かに座っている。
「聞きたいことがあるの」
翔子は出されたものには手をつけず、おもむろにきりだした。
「なんでしょう?」
「優斗はあなたの世界に言っても、またこっちにも帰ってこれる?」
翔子は真摯な目で使者に問いかけた。
翔子はたくさん考えて、頭が痛くなるほど考えて、優斗が遠くの国に留学でもしたんだって思えばいいと、そんな風に結論づけた。そう思えば、混乱した思いが、少しは落ち着くような気がしたのだ。
使者はお茶を一口飲んで、静かだけれどはっきりと答えた。
「それはできません。王の不在は世界の混沌につながります」
「……そう」
翔子は大人しく頷くと、フルーツタルトをもそもそと食べた。おいしいのだろうけれど、今の翔子には砂を食んでいるようにしか感じられなかった。味なんて感じない。
「ありがとう、それだけ聞きたかったの」
ぽつりと言って下を向いて、もそもそと口に運ぶ。
翔子はそれきり、なにも言わなかった。
優斗が戸惑っているのを感じたが、翔子は黙ってフルーツケーキをつつく。
喉の奥が、痛い。
じわりと視界が浮かみ、手元のフルーツケーキが滲んで見えた。
(こんなところで泣くな)
自分を叱咤しても、溢れる涙は止められず、ぽたりぽたりと食卓の上に小さな水たまりができた。
客間の空気が凍った。
翔子はぐっと奥歯を噛んで、涙をがまんしようとしても、後から後から溢れる涙は止まらない。
優斗は翔子の手をぎゅうっと握った。
なにも言わなかったけれど、ただぎゅうっと握られた手は、言葉よりも雄弁に優斗の気持ちを語っていた。
優斗の手の温かさに、涙は堰をきったように溢れだし、肩が震えた。優斗は、翔子を抱き寄せた。それは恋情というよりは友情の抱擁だった。
翔子の泣き声だけが客間に響いている。優斗はなにも言わず、翔子が落ち着くまでずっと抱きしめていた。
優斗の腕の中はなんだか懐かしかった。
(昔はいつもこうやって慰めてくれた。あたしはどれだけ優斗と慰めたことがあっただろう。
優斗はちっとも駄々こねないんだもんな)
そんな郷愁と淋しさが胸をよぎる。
すっかりたくましくなった優斗の腕が、この世界の誰か愛しい人を抱くことはないのかもしれない。
それはひどく淋しいことだけれど、心の片隅で安心する翔子が居た。
優斗はこの先誰かを特別に想ったりしない、そのことが翔子にはちょっとだけ嬉しかった。
(あたしは薄っぺらな恋愛ばっかりするくせにね)
自嘲し、少し笑ったら、落ち着きを取り戻した。優斗から離れ、鼻をかんだ。涙も拭いて、どうにか見られる姿に体制を整えた。
「翔子さん、私の変化ご覧になりますか?」
使者が唐突に言った。
「え?」
翔子は使者をみやると、冷徹だと思っていた顔に微かに動揺が浮かんでいるような気がした。
「私は元はTORIの姿をしています。その姿、ご覧になりますか?」
「見せてくれるの?」
「ええ」
「見たい」
「特別ですが……」
そう言うと、ほっと息を吐いたように見えた。
(もしかして、慰めようとしてくれてるの?)
そんな気がした。
「すごいよ、変化。びっくりするから」
優斗がのんきに言った。
「もういろんなことにびっくりしてるよ」
すんっと鼻をすすりながら、赤い目で翔子は強がる。
「そうだったね」
優斗は優しい目をしてうなずいた。
使者は立ち上がると、唐突にネクタイをほどいた。
(ん?)
翔子が不穏な空気を感じていると、使者は上着を脱ぎ、シャツをはだけ、ベルトに手をかけた。
「ちょちょちょっちょ、ちょっと待って!」
翔子が慌てて声をかけると、使者は「なんでしょう?」と冷静に聞き返してきた。
「いやいや!ナンデショウ?じゃなくて。なに脱ぎだしてるの?変化は?変化?
え?もしかしてこれが変化?」
「いいえ。服と脱がないと変化できないのですが」
「なんで?」
「こちらの世界の鳥も服は身につけていないと思うのですが……」
「え?田んぼとかにいる鳥?そりゃあ、野生の鳥は服着てないでしょうよ。
いや、野生じゃなくても、服着てる鳥なんて見たことないけどさ」
「服を着たまま変化すると、服が邪魔になるのです」
「そうなの?じゃあ、あたし後むいてたらいい?でもそれじゃあ、変化の瞬間見れないってこと?
えー、どうしたらいいの?」
翔子が混乱していると、優斗がしゃあしゃあと「見ておけばいいよ。良い体してるよ」という。
「おっさんかよ」
とツッコミをいれる。
「翔子が見てもいいんだよね?使者さん?」
「はい」
「はいって……」
はあーっと盛大にため息をついた。
そして、ぱんっと自分の膝を叩くと、「じゃあ、見せてもらうじゃないの!」と勢い込んだ。
が、顔はすでに茹で蛸のように真っ赤になっている。
「では」
と使者はベルトをはずし、靴下を脱いで、ついにパンツまで脱いでしまった。
「―ッ!」
もう翔子の言葉は声にならない。優斗はそんな翔子を見て、声を殺して笑った。
「ここからだよ」
優斗はくつくつと笑いながら―結局声は殺せていないのだ―、翔子をつついた。
「瞬きしないで見ててよ」
優斗が言うと、使者はすっと目を閉じた。次の瞬間、体がぐにゃりと液体のようになったかと思うと、畳に大きな肌色の水たまりができていた。
翔子は驚愕のあまりこぼれんばかりに目を開き、ぎゅっと優斗の服の裾を握った。
そして、肌色の水たまりの真ん中が盛り上がったかと思うと、ぐんっと天井に向かって伸びあがる。
「あっ」
翔子が声を出した時には、肌色の水たまりはすでに鷺の形をしていた。
「こういう風に形を変えるから、服を着たままだと無理なんだよ」
優斗がのんびりと言った。
「あ、そ、そう」
翔子はすっかりドギマギして、しどろもどろになる。
「これはね、日本で言うとコサギって種類に似てるみたい」
「知ってるの?」
「知らないよ、使者さんがそう言ってるんだ」
「言ってるって今?」
「そう、頭に直接話しかけてきてるんだけど」
優斗は頭を指差した。
「あ、ああ、そう。……それにしても、本当に鳥なんだね。飛べるの?」
翔子が優斗を見て聞いた。
「翔子の声は聞こえてるから、使者さん見てしゃべっても大丈夫だよ。あ、飛べるんだって」
「飛べるんだ……。すごい」
つぶやくように言う間に、使者は変化し、男の体に戻った。
「うわっ!」
翔子後ずさりする。使者はそんな翔子におかまいなしに、パンツに足を通した。つるりとした丸い尻がよく見えた。
「そ、その、いきなり戻るのやめてくれない?びっくりするじゃない」
「それは失礼しました」
使者は靴下をはく手を休めて、翔子に向き直り丁寧に頭を下げた。パンツ一丁の男に頭を下げられて、翔子は大混乱して、また顔が真っ赤になった。
優斗は声を殺しきれず、ブハーと盛大に吹き出した。
「な、なにがおかしいのよ」
翔子が優斗に詰め寄るが、優斗は笑ってしまって言葉にならない。畳をバンバン叩いて笑っている。
「そ、そんなに笑わなくたっていいじゃない」
翔子も言いながら、ふふふっと笑った。
使者も服を身につけながら、ふんわりと笑った。
(笑うといっそうきれいな顔に拍車がかかるんだね)
そんなことを思った。
「あっちの世界ではずっとTORIの姿してるの?」
「そうですね。人の姿は疲れますから」
「疲れるの?」
「ええ、本来の姿と違いますし。翔子さん、ちょっと立って頂けますか?」
身支度を整えた使者はそう言うと、翔子と一緒に立ちあがった。
「足を広げてたち、両手を広げて」
使者はそう言って、自分も一緒に両手を肩の高さに広げた。
「体をひねって、右手を左足の甲にもってきてください。右手は天井に」
翔子は言われた通りに体をひねった。体育の準備運動をしているような気持ちになる。
「こ、こう?」
「そうです。その姿勢はやってできないことはないけれど、ずっとその体制でいろと言われたら辛くは ないでしょうか?」
「辛いよ、頭に、血、のぼるしっ」
「人の姿に変化するのは、ずっとそうしているようなものなんです」
「ああ、そりゃ、辛いわ。これ、やめて、いい?」
「どうぞ」
「あー、しんどい。あなたは辛くないの?」
「私は慣れてますから」
なんてことないかのように言った。けれど、使者は前ほど冷徹には見えなかった。雰囲気が少し柔らかくなったように感じられた。
「使者さんは、外交官みたいなもんなんだってさ。いろんな世界をまわってるんだって」
優斗がフルーツタルトを手掴みで頬張りながら言った。
「本当にあるの?いろんな世界」
「はい」
「まだ、信じられないな」
翔子が言うと、使者は黙った。翔子も、なんとなく後を続けられなかった。
翔子は使者と分かち合うことができないことを知っているのだ。喧嘩腰で話すのはもう嫌だった。それに恐らく使者の言うことが嘘でないことを、翔子は確信してしまっている。ただそれを認めることのできない自分との葛藤があった。
(信じてしまったら、あたしが生きてきた世界を否定するような気がするもんなぁ……)
黙った二人を交互に見ながら、優斗はのんきにもぐもぐとフルーツタルトを租借している。
「さて、私はそろそろお暇いたします」
「うん、またね」
優斗は友だちに言うかのように、気易く言った。使者と優斗の関係は日を追うごとに近くなっているのを、翔子は嫌でも感じないわけにはいかなかった。
「はい」
「あたし、駅まで送ってもいい?」
翔子が突然そう言うと、使者は少しだけ驚いたようだったが、「お願いします」とほほ笑んだ。