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翔子は走っていた。
全力で走っていた。
セーラー服のまま飛び出したので、スカートが足にまとわりつく。
まだ昼前だというのに、真夏の太陽は強烈な日差しで翔子に迫る。が、今の翔子はそんなことにかまっ
ている場合ではなかった。
流れる汗が目に入りそうになるのを素肌の腕でぬぐい、口で荒い息をしながら、足を前へ前へ出す。
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。
自分の息がひどく大きく聞こえる。
腕を多きくふって、風をきって走る。
(待って)
その思いだけを胸に、駆けた。
喉がヒリヒリして、口の中に血の味がする。胸がやけるように痛いのは、荒い息をしているからだけだろうか。
(優斗、待って、お願い)
優斗の名前を胸の中で呼ぶと、涙が滲んで世界がぼやけた。
(泣かないでよ、こんな時に。息があがって、うまく走れなくなる!)
自分に腹を立て、叱咤した。目元をグイっと拭ったが、一度息があがった胸は苦しく、同じスピードでは走ることができなかった。
翔子は立ち止り、肩を大きく上下させ、息を整えた。あまりにも全力で走っていたため、息はひどく荒い。
セーラー服姿で激しい息づかいの翔子を往来の人は不思議な視線を投げかけてくるが、翔子はそんなこと知ったことではない。
(急がなきゃ)
翔子は、胸をトントンと手で軽く叩くと、グッと足をひき、腕を振り、再び駆けだした。
先ほどよりも、体は重い。
(でも、そんなこと言ってられない)
強い決意を確認するかのように、翔子の息遣いは大きくなった。
少しでも速く。
その思いを胸に、翔子は真夏の空の下、駆ける。
駆けながら、少し前に優斗の身にふってわいた出来事が頭をよぎった。
(そもそも、あの人が来るからこんなことになったんだよ)
苛立ちをそのまま原動力にかえるかのように、翔子の足はリーチを伸ばした。
(大人しそうな顔してさ、やることはやるんだから。だから大人って嫌い)
翔子は憤慨しつつ、一人の男の美しい顔を思い出す。表情は乏しのに、優しい目元をしていることを知っている。冷たいわけではないことも、また。
翔子は思い出す。使者がやってきた、初夏を。
「ノリちゃんがね、あたしは子どもすぎるんだって言うの。あたしがカレシと―あ、もう元カレだね―と 二カ月持たないのは、あたしがわがままだからって言うの。そうかなあ?」
そう言うと、翔子は噛んだストローから、ジュースを飲んだ。翔子の好きなイチゴミルク味だ。甘ったるくて、香料が強い、子どもだましのようなジュースだ。
ノリちゃんが「失恋祝いだ」と、さっき買ってくれたのだ。
「子どもってわけじゃないと思うけど」
優斗は図書館に返却されてきた本を整理しながら、翔子の話に付き合う。今日の返却本の中には、何冊か予約が入っている本があった。人気の本や、話題の本は、数冊購入しても中々希望者にまわらない。
そんな本が今日は示し合わせたかのように返却された。そのことに優斗は目元を柔らかくしたけれど、自分の話で手いっぱいの翔子は気がつくわけがなかった。
翔子は、春に付き合い始めた男の子と昨日別れた。同じ塾に通う、同い年の他校の生徒だった。その話を優斗にしている。優斗はテキパキと動きながら、耳はこちらに向けてくれている。
夏が始まろうとしている六月の終わり。
図書館の開いた窓からは穏やかな風が吹き込んでくる。グラウンドで部活動にはげむ生徒の声も一緒に図書館に届いた。遠くから聞こえる声は、しんとした図書館に心地よく響いている。
「けど、なに?」
「自分勝手なところ、あるよね」
そう穏やかに言うと、「えーっ!自分勝手ぇ?」と、優斗の想定内の反応を示した。
「どこがどこがどこがぁっ!」
翔子は、優斗のほうに思いっきり体を乗り出す。
「そういうところ。図書館なんだから静かにしなきゃ。それから、そこ、机の上だからおりて」
優斗はやんわりと指摘すると、翔子は今気が付いたかのように、ピョンっと机から飛び降りた。膝上の丈に切ったスカートの裾がヒラリと舞った。
「ジュース、こぼさないでね、本の上」
優斗が言うと、翔子はズズっと音をたてて飲み切り、ゴミ箱に向かってアンダースローで投げた。壁に当たって、ゴミ箱へ入る。
「よっし!」
翔子が小さくガッツポーズをするのを、優斗は横目で眺め、予約本を横によけた。
「翔子さ、ストローさしたまま投げると、そこからジュース漏れるかもしれないから、抜いて捨てるか、 パックの中にいれちゃってよ」
「はいはい。優斗は主婦みたいだね」
「仮にも図書委員だからね」
翔子の嫌味にも動じないので、面白くなくて「ねえ、他には?他にあたしがカレシと続かない理由ってある?」などと聞いてみる。
「それは一番翔子が知ってるんじゃないの?」
「わっかんないよ!わかんないから聞いてるの」
「声大きいから」
「……ごめん」
優斗の注意に今度は素直に謝る。
「これ、九百番台の棚に戻してきて。その間に考えておくよ。カレシと続かない理由」
はい、と優斗に手渡された本は十冊近くあり、全部を両手で持つと顎の辺りまであった。
「人使いが荒い」
足元が見えにくく、不平を一言つぶやくと、翔子は九百番台の棚―文学の棚だ―へ向かった。
(これ、片付けたら閉館の時間かな。ちょうどいい時間。優斗と一緒に帰るの久しぶり)
そんなことを思いながら、翔子は本を棚に戻していく。文学の棚だったら、翔子でも他の棚よりも本を探しやすい。翔子は誰とも付き合っていない放課後は、こうやって図書委員の仕事を手伝うことがあった。
優斗はいつも静かに図書館にいて、淡々と仕事をこなしている。図書カウンターの中で、書き物をする姿はちっちゃな頃からかわらない。いつも机に顔を近づけすぎている。そうしていると、いかにも賢そう
なつむじがグルンと髪の毛の中にあるのがよく見えた。
(あのつむじの形、保育園の時からかわってないんじゃない?)
本を棚に戻す手を止め、カウンターの中の優斗を見つめる。
優斗と翔子は保育園からずーっと一緒だった。
「閉館です」
優斗が顔をあげて時計を確認すると、そう呼びかけた。
「閉館です」
翔子も一緒に声を出した。少し賢そうに聞こえるように、気取った声を出してみた。そして、残りの本を棚に戻すと、戸締りを終えた優斗と図書館を出た。