第51話 歴史を書く者
記録院の窓から、午後の光が差し込んでいた。
エリアスは机に向かい、積み上げられた書類の最後の一枚に目を通していた。魔王討伐に関する新たな記録の公開を求める申請書だった。提出された証言や資料をもとに、記録院は調査を続けている。すべての記録が正しいと認められたわけではない。証言の食い違いもあれば、裏付けを見つけられない事実もあった。歴史を正すという仕事は、思っていた以上に時間がかかるらしい。
もっとも、エリアスはそのことに不満を抱いてはいなかった。
以前の彼なら、記録の不備を見つけるたびに落ち着かなくなっただろう。記述が欠けていれば補い、矛盾があれば整え、読み手が疑問を抱かないように文章をまとめる。そうして完成した記録を、正確な歴史と呼んでいた。
だが今は、空白を見つけても、すぐに埋めようとは思わなくなった。
分からないことは、分からないと記す。証明できないことは、証明できないまま残す。誰かの証言を採用するなら、その人物が何を見て、何を知らず、どのような立場から語ったのかも記録する。
整った文章にすることより、後から読む者が確かめられることのほうが大切だった。
エリアスは申請書を閉じ、机の端に置いた。窓の外では、記録院の中庭を職員たちが行き交っている。誰もが普段どおりに働き、書類を運び、同僚と話していた。
世界は、白紙現象が収束した翌日から突然変わったわけではない。
失われた記録は、今も失われたままだ。人々の記憶が一斉に戻ったわけでもなく、かつて存在したものがすべて元の場所に現れたわけでもない。歴史改変を知らされた者たちの中には、アルトを英雄と呼び続ける者もいた。彼の告白を信じない者も、彼が責任を認めたことだけは評価する者もいる。
リゼットの名前を記録に加えることに、反対する者もいた。
彼女が世界を救うために犠牲になったという事実を認めながら、それを公にすれば教会や王国の過去の判断が問われる、と主張する者たちだった。歴史を正す必要性は理解していても、自分たちの立場が損なわれることは避けたいらしい。
人間というものは、正しいと認めた事柄を、そのまま実行できるほど単純ではない。
エリアスは窓から目を離した。
だからこそ、記録を残さなければならないのだ。
扉を叩く音がした。
「入っていいか?」
アルトの声だった。
「どうぞ」
扉が開き、アルトが顔を出した。以前と比べると、彼の服装はずいぶん簡素になっていた。王城へ呼ばれる機会はまだあるらしいが、英雄としての礼装を身につけることは減ったという。
本人は、そのほうが楽だと話していた。
「まだ仕事か」
「そちらこそ、どうしたんですか」
「用事があって近くまで来た。ついでに様子を見に来たんだ」
「ついでに、ですか」
「何か問題でも?」
「いえ。勇者が記録院に用事を作るようになったのは、良い変化だと思います」
「嫌味か、それは」
「事実です」
アルトは苦笑し、机の向かいにある椅子を引いた。
しばらく、二人は話さなかった。
以前なら、沈黙はエリアスにとって埋めるべきものだった。会話が途切れれば何か話題を探し、相手の反応を確かめ、必要なら話を続ける。記録に残すべき言葉がない時間を、無意味だと考えていたのかもしれない。
今は違った。
アルトが何を考えているのか、エリアスには分からない。本人が口を開かなければ、確かめようもない。分からないことを、分かったふりで記録する必要はなかった。
「この前、広場にいた人たちの話を聞いた」
やがてアルトが言った。
「俺の告白を聞いていた人たちだ。何人かは、今でも魔王を倒したのは俺一人だと思っているらしい」
「そうですか」
「怒らないんだな」
「私が怒ったところで、誰かの考えが変わるわけではありませんから」
「以前のお前なら、記録を見せれば分かってもらえると言いそうだ」
「以前の私なら、そう考えたでしょうね」
エリアスは自分の手元にある原稿を見た。
「でも、記録を見せることと、それを信じてもらうことは別です。正確な記録を残す責任はありますが、読んだ人が何を考えるかまで、私が決めることはできません」
「それでも、残すのか」
「残します」
エリアスは迷わず答えた。
「信じてもらえないからといって、なかったことにする理由にはなりません」
アルトは静かにうなずいた。
彼がかつて承認した歴史改変は、リゼットを守るためのものだった。そう説明することはできる。世界を救った者たちの名誉を守るためだった、とも言える。
だが、その判断によって何が失われたのかを、二人は知っている。
誰かを守るという言葉は、ときに都合の悪い事実を隠すために使われる。アルトはそれを、もう一度繰り返すつもりはなかった。
「ガレクたちは?」
エリアスが尋ねると、アルトは少しだけ表情を和らげた。
「ガレクは装備の修理をしている。帰ってきてから、使えなくなった道具を全部調べ直しているらしい。セレナは治療院で仕事を手伝っている。自分が休む時間まで削ろうとして、周りに止められているそうだ」
「セレナらしいですね」
「ノエルは研究室にこもっている。新しい封印の構造を、今度は誰にでも検証できる形にまとめると言っていた」
「それは助かります。記録院にも資料を提出してもらわなければ」
「本人に伝えておくよ。きっと喜ぶ」
「喜ぶでしょうか」
「少なくとも、嫌がりはしないと思う」
アルトはそう言ってから、少し考えるように視線を落とした。
「リゼットは、今日は街に出ている」
エリアスは顔を上げた。
「一人でですか?」
「ああ。最初はセレナが一緒に行こうとしたらしいが、本人が断ったそうだ。帰ってきたら、何を見てきたか話してくれると言っていた」
その言葉を聞き、エリアスはしばらく何も言わなかった。
リゼットが街を歩いている。
たったそれだけのことが、かつては想像もできなかった。
長い間、彼女は旧封印の核として、世界と切り離された場所にいた。帰ることを望みながら、自分が離れれば何かが壊れるかもしれないと恐れていた。一人で負担を引き受けることが、彼女にとっては世界を守る唯一の方法だった。
今、彼女は自分の意思で街へ出ている。
誰かを救うためでも、封印を維持するためでもなく、自分が見たいものを見るために。
「それなら、帰ってきたら話を聞きたいですね」
「ああ。俺もそう思う」
アルトは立ち上がった。
「邪魔をしたな。仕事に戻ってくれ」
「もう帰るんですか?」
「ここにいても、書類は減らないだろう」
「その点は、あなたが来る前から変わっていません」
「やっぱり嫌味じゃないか」
アルトは笑い、扉へ向かった。
その背中を見送りながら、エリアスは机の上の原稿を手に取った。まだ完成していない記録だった。調査の進展に応じて書き足す必要があり、証言の裏付けが取れれば訂正する箇所もあるだろう。
それでも、以前のように完成を急ぐ気持ちはなかった。
記録は、書き終えればすべてが終わるものではない。新しい事実が見つかれば更新しなければならないし、誤りが判明すれば訂正しなければならない。残すことは、責任を終えることではなかった。
エリアスはペンを取り、原稿の余白に一行を書き加えた。
――本記録は、確認された事実と証言に基づいて作成したものである。未確認の事項については、確認できていないこと自体を記録として残す。
書き終えたところで、窓の外から聞き慣れた声がした。
「エリアス!」
顔を上げると、中庭の入口にリゼットが立っていた。片手に小さな紙袋を持ち、こちらを見上げている。彼女は何かを言おうとして、窓の位置が高いことに気づいたらしい。少し困ったように眉を寄せ、それから入口のほうへ歩いていった。
エリアスはペンを置いた。
ほどなくして、扉が勢いよく開いた。
「ここにいたのね」
「リゼット。どうしたんですか?」
「街を歩いていたら、お菓子を売っている店を見つけたの。セレナに聞いたら、昔からある店なんだって」
彼女は紙袋を机に置いた。中から甘い香りが漂ってくる。
「それで、買ってきたの?」
「ええ。六人分」
リゼットは当然のことのように答えた。
エリアスは紙袋を見つめた。
六人分。
その言葉を聞くたびに、胸の奥に小さな痛みが走ることは、まだある。失われた時間は戻らない。かつて六人で過ごした旅の記憶も、すべてが同じ形で戻ってきたわけではない。これから先、六人が何を覚えていて、何を忘れているのか、確かめながら暮らしていくことになるのだろう。
それでも、リゼットは六人分を買ってきた。
「アルトは帰りましたよ」
「知っているわ。途中で会ったもの」
「ガレクたちは?」
「あとで来るって。ノエルは研究室から出てこなかったから、セレナが連れてくると言っていたわ」
「……ノエルは、まだ研究を?」
「そうみたい。今度は誰か一人に無理をさせない仕組みを、絶対に完成させるんだって」
リゼットは少しだけ笑った。
「でも、セレナにお菓子を見せたら、研究の話をする前に食べなさいって言われたそうよ」
「それは正しい判断ですね」
「私もそう思う」
リゼットは部屋の中を見回し、空いている椅子を見つけて腰を下ろした。
「ねえ、エリアス」
「はい」
「あなたは、これからも記録を書き続けるの?」
「そのつもりです」
「大変そうね」
「大変ですよ」
エリアスが正直に答えると、リゼットは目を丸くした。
「前なら、もっと格好いいことを言いそうだったのに」
「以前の私は、記録することがどれほど大変か、十分に理解していなかったのかもしれません」
「今は?」
「今は、分からないことがたくさんあると知っています」
エリアスは窓の外を見た。
中庭の向こうには、街の屋根が広がっている。そのさらに先には王城があり、教会があり、かつて魔王の脅威に怯えていた土地がある。人々はそこで暮らし、働き、時には間違い、時には誰かを助けながら、これからの歴史を作っていく。
その歴史には、きっと新しい過ちも生まれるだろう。
だからといって、すべてを防げるわけではない。記録を残すだけで世界が正しくなるわけでもない。
それでも、何が起きたのかを確かめ、都合の悪い事実を隠さず、次に同じ過ちを繰り返さないための手がかりを残すことはできる。
「分からないことを、分からないままにしないために書くんです」
エリアスは言った。
「そして、分からなかったことが分かったら、きちんと書き直す。その繰り返しですね」
「それなら、私のことも書いておいて」
リゼットは机の上の原稿を指さした。
「旧封印の核になったことだけじゃなくて、帰ってきたことも。私が街を歩いて、お菓子を買ったことも」
「それも記録するんですか?」
「だって、本当にあったことでしょう?」
彼女は少し不思議そうに首を傾げた。
「世界を救ったことだけが、私の人生じゃないもの」
エリアスは、すぐには答えられなかった。
彼女の言葉は、あまりにも当たり前だった。けれど、その当たり前のことを、彼は長い間見失っていたのかもしれない。
リゼットは封印の核だった。世界を救うために犠牲になった者だった。歴史改変によって存在を隠された者だった。
そのどれもが事実である。
だが、彼女はそれだけの人間ではない。
仲間と旅をし、笑い、怒り、迷い、帰りたいと願った一人の人間だった。街で見つけた菓子を買い、仲間たちと分け合おうとしている。そんな何気ない時間もまた、彼女の人生の一部だった。
「分かりました」
エリアスは新しい紙を取り出した。
「今日のことも記録します」
「ありがとう」
リゼットは満足そうに笑った。
そのとき、廊下から複数の足音が聞こえてきた。誰かが何かを言い、別の誰かが言い返している。ガレクの低い声に続いて、セレナの注意する声が響いた。さらにその後ろから、ノエルが何かの計算について話しているらしい声が混ざっていた。
六人が、また同じ場所に集まろうとしていた。
エリアスはペンを持ち直した。
これから先、彼らがどんな人生を送るのかは分からない。再び旅に出るのか、それぞれ別の道を歩むのか。新しい封印が何十年、何百年と世界を守り続けるのか。その間に何が起きるのかも、今はまだ誰にも分からなかった。
だが、分からないことを恐れて、未来を一つの形に決めつける必要はない。
彼らは帰ってきた。
それだけは、確かな事実だった。
扉が開き、ガレクが大きな声で菓子の数を確認し始めた。セレナが全員に手を洗うよう命じ、ノエルは紙袋の中身を見て、菓子の保存方法について妙に詳しい説明を始めた。アルトも戻ってきたらしく、廊下から笑い声が聞こえた。
リゼットは椅子から立ち上がり、仲間たちのほうへ向かった。
エリアスは、その姿を見送った。
机の上には、まだ書き終えていない歴史がある。失われたものをすべて取り戻すことはできない。過ちをなかったことにすることもできない。
それでも、彼らがここにいることを書き残すことはできる。
エリアスは原稿の最後に、新しい一文を加えた。
――彼らは、再び六人で食卓を囲んだ。
その一文の先には、まだ何も書かれていなかった。
エリアスはペンを置き、仲間たちの声がする部屋へ向かった。
続きは、これから書けばいい。




