「私には愛する人がいる」と初夜に告げられたので、領地の経営権だけ奪って別居しました
「私には愛する人がいる」と初夜に告げられたので、領地の経営権だけ奪って別居しました
婚礼用の寝室には、甘い百合の香りが満ちていた。磨き上げられた銀の燭台には十二本の蝋燭が燃え、天蓋付き寝台の上には、侍女たちが撒いた白い花びらが残っている。侯爵令嬢セシリアは重い真珠の髪飾りを外し、鏡台の端へ一つずつ並べながら、夫になったばかりのローレンス伯爵が口を開くのを待った。
「私には愛する人がいる。君を妻として抱くつもりはない」
ローレンスは寝台から最も遠い窓辺に立ち、祝宴で一度も空にならなかった葡萄酒の杯を握っていた。金糸を織り込んだ上着には、若い男爵令嬢が好んで使う鈴蘭の香水が染みついている。セシリアは最後の髪飾りを置くと、肩を締めつけていた花嫁衣装の襟へ指を入れ、息を通した。
「承知しました。では、こちらへ署名をお願いいたします」
泣き声を予想していたらしいローレンスは、杯を口元まで上げたまま動きを止めた。セシリアは旅行鞄の底から革表紙の書類ばさみを取り出し、契約書を三通、果物籠の横へ並べた。籠の桃は祝宴の熱で柔らかくなり、甘い汁が一滴、白い卓布へ落ちていた。
「なぜ初夜に契約書を持っている」
「政略結婚ですもの。契約書を持たずに初夜を迎えるほうが不用心でしょう」
文面は簡潔だった。ローレンスが夫としての同居、寝室への立ち入り、妻の財産への関与を放棄する代わりに、伯爵領の運営、予算、人事、徴税、売買に関する一切の決裁権をセシリアへ譲る。彼には王都の屋敷と、前年までの収入を基準に定めた年金を渡すが、追加支出にはセシリアの署名を必要とする、とある。
「馬鹿馬鹿しい。夫婦の問題と領地経営は別だ」
「いいえ。跡継ぎをもうけず、領地にも戻らず、愛する方と王都で暮らすのでしょう。夫の役目を選んで捨てる方に、夫の権利だけ残す理由はございません」
セシリアは羽根ペンへインクを含ませ、契約書の末尾を指した。父の侯爵家から同行した公証人と、伯爵家の老家令が隣室で待っていることも告げた。ローレンスは耳まで赤くしたが、愛人との生活を認められ、面倒な領地仕事まで手放せると思い直したらしく、桃を一つつかんで乱暴にかじった。
「五年もすれば、君のほうから泣いて撤回を頼むだろう」
「そのときは、帳簿を添えてお願い申し上げます」
署名を終えた紙へ公証人の封蝋が落とされた。セシリアは花嫁衣装の上へ厚手の外套を羽織り、その夜のうちに伯爵領へ向かう馬車へ乗った。窓から投げ捨てるには髪飾りは高価すぎたので、真珠はきちんと箱へ戻し、最初の運転資金にするため翌月売却した。
◇
伯爵領へ着いたセシリアを迎えたのは、歓迎の鐘ではなく、水車の止まった川の音だった。倉庫には湿った小麦が積まれ、屋根の穴から差す朝日が、穀物の上を歩く鼠の背を照らしていた。帳簿では豊作になっているのに、村のパンは去年より薄く、領主館の厨房では豆の煮込みを三日続けて温め直していた。
「横領した者を捕らえますか」
老家令が尋ねると、セシリアは黒パンの薄さを指で確かめた。
「その前に、今日のパンを厚くします」
セシリアは礼装の袖をまくり、倉庫の扉をすべて開けさせた。乾いた穀物と湿った穀物を分け、食べられる分は村へ定価で放出し、傷んだ分は家畜飼料として安く売った。徴税吏を罰するだけなら金は戻らないが、隠されていた穀物を今売れば、種籾と水車の修理費が同時に手に入ると計算したのである。
その日の夕方、パン屋の窯から焼き上がった丸パンは、久しぶりに大人の掌ほどの厚みがあった。セシリアは村の広場で一つ買い、まだ熱い皮を割って、老家令と半分ずつ食べた。焦げた小麦の匂いを嗅ぎながら、彼女は最初の決裁書へ署名した。
「明日は水車です。その次は、帳簿にいるだけの牛を数えましょう」
帳簿上、伯爵領には乳牛が二百頭いたが、実際に鳴いていたのは百四十一頭だった。消えた五十九頭を紙の上で探し続ける代わりに、セシリアは各村へ木札を配り、牛の耳標と飼い主の印を一致させた。数字をごまかしていた徴税吏は逃げようとしたが、門番に止められ、その荷馬車から銀貨と未使用の耳標が出てきた。
「奥様、これで横領の証拠になります」
「ええ。でも、銀貨だけ数えて満足してはいけません。牛乳を売れる道も作りましょう」
セシリアは王都へ生乳を運ぶ危険を避け、村の女たちが作っていた硬いチーズに伯爵家の焼き印を押した。最初の品評会では香りが強すぎると商人たちに笑われたため、彼女は試食卓の横へ薄切りの林檎と胡桃を置いた。塩気のあるチーズを林檎と一緒に食べた料理人が十個注文し、隣の料理人が二十個注文したころには、笑っていた商人が契約書を求めて列を作っていた。
一年目の冬、水車は二基とも回り、村のパンは以前の厚さを取り戻した。二年目にはチーズの熟成庫が建ち、そこで働く者の昼食には、形の崩れた商品と黒パンが出た。三年目には余った乳清で豚を育て、四年目には王都の食堂が「伯爵領の冬チーズ」を献立へ載せ、五年目の秋、領地の税収は婚礼の年の三倍になっていた。
セシリアは領主館を金箔で飾らなかった。台所の窓を大きくし、冬でも湯を使える流し台を入れ、使用人の寝具を毎年三分の一ずつ交換した。朝食には薄切りのチーズ、焼いた林檎、蜂蜜を垂らした温かい麦粥が並び、窓の外では荷馬車が石畳を絶え間なく行き来していた。
◇
五年目の収穫祭の日、領主館の門前に泥のはねた貸し馬車が止まった。降りてきたローレンスは婚礼の日に着ていた上着を着ていたが、金糸はところどころほつれ、袖口には酒染みが残っていた。セシリアは中庭でチーズを薄く切っていた手を止めず、彼を客用の食卓へ案内した。
「久しぶりだな、セシリア。ずいぶん立派になった」
「領地が、でございましょう」
ローレンスの愛する人は、彼に宝石店の保証人を頼み、王都の屋敷を担保へ入れたあと、別の男と南の国へ去っていた。支払いの滞った仕立屋、酒商、貸金業者が毎朝門を叩き、すでに家具の半分まで差し押さえられたという。ローレンスは焼いた林檎へ銀の匙を入れたが、皮が切れず、皿の上で何度も滑らせた。
「私は間違っていた。もう一度、夫婦として始めないか」
「どの部分からでしょう。初夜からでしたら、同じ契約書をご用意します」
「意地を張るな。君だって、いつまでも一人では――」
セシリアはナプキンで指を拭き、五年前の契約書を卓上へ置いた。その隣には、彼の年金から債権者へ支払った金額と、残額を記した明細書を添えた。伯爵家の名義で借りられた金だけは領地の信用を守るため清算したが、愛人へ贈った宝石や旅行代まで肩代わりするつもりはなかった。
「あなたは愛する方を選び、私は領地を選びました。選んだものを五年間どう扱ったか、その答えが今、同じ食卓に並んでおります」
「だが、この領地は私のものだ。私が戻ると言えば――」
「お戻りください。領主としてではなく、年金受給者として」
開け放した窓から、収穫祭の鐘と荷車を引く馬の蹄の音が入ってきた。中庭では子供たちが丸パンを両手で割り、溶けたチーズを指へつけて笑っている。五年前に止まっていた水車は、遠くの川で一定の音を立てて回り続けていた。
ローレンスは契約書をつかんだが、封蝋に刻まれた自分の印章を見て、紙を破ることもできなかった。王都の屋敷は債権者へ引き渡し、年金の範囲で暮らすなら、伯爵領の外れにある狩猟小屋を貸してもよいとセシリアは告げた。寝台と暖炉と小さな畑があり、贅沢をしなければ雨にも借金取りにも追われずに済む場所だった。
「君は私を愛してはいなかったのか」
「あの夜までは、愛せる夫であろうとなさっていると信じていました」
ローレンスは返す言葉を見つけられず、冷めた林檎を一口だけ食べた。復縁の願いは退けられたが、彼が自分で作った借金の返済計画書には、セシリアがすでに印を付けていた。働く気があるなら領内の牧場で帳簿係を募集しているとも伝えたが、決裁権も夫の席も返さなかった。
彼が帰ったあと、侍女が新しい百合を寝室へ飾るかと尋ねた。セシリアは首を横に振り、代わりに厨房から焼きたての丸パンを一つ運ばせた。執務机には収穫祭の決算書が積まれていたが、今夜だけは開かず、まだ温かいパンへ五年物のチーズを厚く挟んだ。
「奥様、明日のご予定はいかがいたしましょう」
「朝は水車を見に行きます。午後は休みます」
セシリアは窓辺の椅子へ腰を下ろし、鐘の音を聞きながらパンをかじった。百合ではなく、焼けた小麦と熟成したチーズの匂いが部屋に満ちている。五年前、初夜の卓布へ落ちた桃の染みはもうどこにもなく、彼女の署名で動く領地だけが、秋の夜にも休まず息づいていた。




